故・藤田田氏は組織固めに懸命になった。故・藤田田氏にとって、個人的な利益追求と組織固めは同じであった。故・藤田田氏はマクドナルドの金(支出)の流れを明確にし、藤田商店に商流を把握させ、違法なリベートでなく、合法的に手数料を藤田商店に集めることであった。購買部を作り、マクドナルドの食材購入と店舗の建設費,調理機器購入費等を把握させることをまず行った。
次に米国マクドナルドへの機器輸出を考えた。元々故・藤田田氏はトランジスターラジオの輸出をしており、日本の優れた電子機器を輸出するのが夢であった。そのため、日本の電子機器メーカーとの接点を維持していた。藤田商店にはソニー共同創業者の故・盛田氏の甥の盛田三吾氏が在籍していた。故・藤田田氏が着眼したのは、マクドナルド店舗で使うPOS(電子レジスター)の開発であった。1970年代中頃に米国マクドナルドはPOSを開発していたが、ソフトウエアーは良かったが、ハードウエア―の信頼性が低かった。そこで故・藤田田氏は信頼性の高い日本の電子機器メーカーに開発させ、米国にも輸出しようという壮大な計画の実施に取り組んだ。そこで社内に情報システム部を作り開発させることにした。その責任者として、日本無線からさらに部長級の人をスカウトすることにした。それが松本氏だ。POSの開発は、当初東芝に開発させたが、後にパナソニック系の松下電子にさせた。パナソニックの創業者の故・松下幸之助氏はパナソニックのコンピューター開発からの撤退を悔やんでおり、POSの開発と米国への輸出に陣頭指揮で取り組んだ。故・松下幸之助氏は直系の親族を責任者として、米国に駐在させ開発にあたらせた。さらに日本向けのPOS開発後は米国向けの開発の加速ため、情報システム部の松本氏を米国マクドナルドに長期間滞在させることにした。最終的に米国で一部採用され、膨大な売り上げを上げ、藤田商店に莫大な手数料が入るようになった。
最後に、故・藤田田氏が着眼したのが広告宣伝費であった。売り上げの5~6%を占める巨大な金額であった。そこで、広告宣伝部長を2回ほど変え、藤田完氏をマーケティング本部長に出向させた。また当初は博報堂一社だったものを電通も加え競争させるようにした。これにより、藤田商店はマクドナルドにかかわるお金の流れを完全に把握できることになった。
さらに後に問題となるのが、社宅・店舗・オフィスの賃貸借だ。これにも莫大な金が流れる。
故・藤田田時代のマクドナルドは直営店中心の店舗展開であった。故・藤田田氏はフランチャイズは他人に金をもうけさせると思っていた。沖縄が日本に返還される1972年の1年ほど前に沖縄最大の空軍基地嘉手納の近所にドライブインタイプの大型店舗を、外部の人を募集して開店させた。当時は沖縄は米国に接収されており、道路は右側交通で、ステーキレストランが軒を連ねて、まるで米国の西海岸のようであった。開店したマクドナルドは米国人の日常食ができたと連日大行列であった。遠隔地でコストが高いのでフランチャイズ店舗とし、本土から英語ができるベテランの社員を、出向させたが、10人近い社員を送っても1年以上帰ってこない大盛況だった。開店後3日たった店舗開発会議だった。故・藤田田氏は社員にすぐ沖縄に赴任して、2号店を直営で開店させろと命じた。これ以降フランチャイズ展開には積極的に取り組まなくなった。
遠隔地にも直営店舗を展開するうえで、東京や大阪から、社員を派遣するうえで社宅が必要になった。地区本部を展開するためにオフィスも必要になった。直営店舗用の土地の借り入れも必要になった。そこで社宅用にマンションを藤田商店グループで借り上げ、マクドナルドに貸すようにした。オフィスは以前お話ししたように、暴力団系の金貸し業者から借りている店舗用の土地を、貸したお金の担保流れとして取得し、大阪本部とマクドナルド店舗が入るビルを作った。店舗は土地の賃貸借がほとんどであるが、米国マクドナルド側が土地の取得を勧めるとして、入り口等の重要な箇所、出入り口等を店舗用地として藤田商店グループで取得し、マクドナルドに貸すようにした。マクドナルドの使用する食材や建築資材、厨房機器やPOSなどの電子機器業者から徴収する金は、日本マクドナルド上場後米国マクドナルドが筆頭株主になり、2代目社長の八木康介氏退任後に3代目社長に原田泳幸氏が就任し、2005年末で廃止した。
故・藤田田氏は2人の息子への資産継承を進めることにした。長男の藤田元氏は藤田商店の社長となっており、次男の完氏を日本マクドナルド社長として就任させようと思い、日本マクドナルドのマーケティング本部長に就任させた。完氏を注目していた米国マクドナルドは、完氏を社長の後継にするつもりなら、米国研修が必要であると故・藤田田氏に伝えた。故・藤田田氏も完氏も米国に行く気でいたが、故・藤田田氏の奥様悦子氏が米国で虐められるのは明らかと反対してその話はなくなり、完氏は藤田商店に戻ることになった。故・藤田田氏の次の戦略は日本マクドナルドの上場だった。米国マクドナルドは親子上場は利益相反であるとして反対であった。しかし故・藤田田氏は強引に上場準備を進めることにした。前にお話しした、米国から派遣された、店舗運営部顧問の故・ジョン・朝原氏は、故・藤田田氏にとって、目の上のたん瘤のようだった。そこで以前お話ししたように故・ジョン朝原氏の子飼いで大阪本部長の川村龍平氏を更迭したわけだ。これにより、社員は故・ジョン・朝原氏から距離を置くようになった。
その微妙な社内の空気を読めばよかったが、私は社内情勢に無頓着だった。1988年10月に中央地区運営部長から本社の運営統括本部の運営統括部長兼海外運営部長に移動した。89年4月には機器開発部部長も兼任させられた。その時期とほとんど同時期に藤田完氏がマーケッティング本部長として出向してきた。氏は完氏は癖のある性格であったが大変優秀で、チキンタツタ、グラタンコロッケバーガー、海老バーガー、ホットドック、等を大成功させた。新製品開発では、私は運営統括部長として作業手順などをチェックする必要があった。その結果完氏とちょっと対立せざるを得ないこともあった。
その時期に米国マクドナルドの元CE0の故・フレッド・ターナー氏が来日することになった。故・フレッド・ターナー氏は店舗の運営基準を細かくチェックする気難しい人であった。以前であれば、ターナー対策と言って、全店舗を磨き上げ、必要なら改装するほどの準備をし、来日時は故・藤田田氏や故・ジョン・朝原氏がつきっきりで店舗を巡回していた。しかし、故・フレッドターナー氏が体調を崩し、社内での勢いが失ったのを察したのか、冷淡な対応であった。さらに、故・藤田田氏は故・ジョン朝原氏が故・フレッド・ターナー氏と接触するのを嫌がっていた。
しかし私は海外運営部長として、故・フレッド・ターナー氏にお願いする必要な案件があった。当時海外の店舗2つを日本マクドナルドがフランチャイジーとして経営して、米国式の運営方法を学んでいた。1つは私も駐在したシリコンバレーのサンタクララ店。もう一つは故・藤田田氏と仲の良かったカナダのジョージ・コーハン氏からもらったトロント店であった。プレイランドを備えたドライブスルーのサンタクララ店は、売り上げも大きく利益が出るだけでなく社員の研修に貢献した。トロント店は市街地の店舗であり、店舗運営上で学ぶこともないし、赤字体質であった。立地上米国研修の際に利用もできなかった。そこでトロント店舗を閉店し、当時米国マクドナルド社が本社を構える、シカゴ郊外のオークブルック市の近隣の店舗(ドライブスルー機能を持つ郊外型店)に移転したいと考えた。その移転を許可できるのは、故・フレッド・ターナー氏1人だった。米国マクドナルドのフランチャイジーは利益の出る大型店を手に入れるのに懸命であった。その利益の出る大型店を日本に手渡すと、猛烈な不満がフランチャイジーから出る。それを抑えられるのは、老いたとはいえ実質的な創業者の故・フレッド・ターナー氏だけであった。日本であれば 文章を作って決済してもらえばよいが、米国ではトップに直談判したほうが確実で早い。
その故・フレッド・ターナー氏が来日するのであれば好都合だ。しかし気難しい故・フレッドターナー氏と交渉するのは難しい。故・フレッド・ターナー氏お気に入りの故・ジョン・朝原氏が同席したほうがスムーズにいく。故・ジョン・朝原氏は同席するけれど故・藤田田氏が怒るけれどどうすると聞くが、立場上同席せざるを得ないと返答した。また当時上司で運営本部長だった、H.S.氏に相談したら、リスクはあるけれど良いよと同意してくれた。本来なら、故・藤田田氏の愛用車のSクラスベンツで店舗を回るところ、私のボロ車で案内することにした。私はタバコを吸わないので車内に禁煙のステッカーを張っていた。故・フレッド・ターナー氏はヘビースモーカーであったので、タバコ吸ってよいですよと言ったが、吸わなかった。半日一緒にいて仲良くなり、店舗移転の許可をくれただけでなく、米国に来たらいつでもオフィスに来てよいと言ってくれた。
順調に終わった故・フレッド・ターナー氏との交渉であったが、その後が大変であった。翌日社に戻って、上司のH.S.氏に報告したら、なんと故・藤田田氏に王が故・フレッド・ターナー氏と故・ジョン・朝原氏と一緒に店舗を回ったと報告したよと言うではないか。数日前に店舗を同行すると報告した時に言ってくれればよかったのにと思わされた。当然、故・藤田田氏は激怒し、数日後に左遷人事を言いつけられた。故・フレッド・ターナー氏が故・藤田田氏と競合状況を打ち合わせた時に、競合として、品質上KFCが優れていることが話題になった。故・フレッド・ターナー氏はKFCと同じ骨付きチキンを売り出してはどうかと提案した。当時マレーシアで骨付きチキンを発売してKFCに優位に立っていたからだ。
そこで故・藤田田氏は、事業開発部を作り、商品開発の経験のある田子公道氏を事業開発部長にし、私も担当部長として従事させることにした。秘密プロジェクトだからとして、社内の机はなく社員名簿からも外された。部下はたった一人だった。食肉メーカーの伊藤ハムの東京研究所に、一部屋を借り受け、そこに毎日伊藤ハムの社員のように勤務させられた。ひどい人事であるが、米国マクドナルドの故・フレッド・ターナーの発案と言われては文句も言えなかった。
故・ジョン朝原氏は上司で運営統括本部長だったH.S.氏に怒っていた。当時運営統括本部が持っていた店舗マネージャーなどの人事権を手放したというのだ。H.S.氏は間もなく退社し社員フランチャイジーになった。その店舗は相模原市の超繁盛ディスカウントストアーのダイクマに隣接していた。当然マクドナルドの売り上げは大きく大成功だった。ま、故・藤田田氏の褒章だったのだろう。しかし、ディスカウントストアーのダイクマはやがて競争の激化により、倒産し店舗を閉鎖し、イトーヨーカ堂の傘下に入った。マクドナルドの店舗も売り上げが大きく低下し閉店せざるを得なくなった。
この私の人事により社内には故・ジョン朝原氏に近づくものは皆無となった。私は2年間その仕事を担当し、1992年に退職することにした。故・ジョン朝原氏はその後、1997年にひっそりと退任してしまった。
これで邪魔者はいないと、故・藤田田氏は日本マクドナルドの上場の準備を進めた。そして2001年7月にジャスダックに上場した。本来であれば年商3000億円もあったので東証1部に上場であるが、藤田商店などとの不明朗な資金の流れなどから、ジャスダックであった。当初幹事証券会社は野村証券であったが、野村証券は降り、大和証券が幹事となった。公開価格4300円が、初値段4700円と大成功であった。そして、故藤田田氏と、ご子息の藤田元・完氏の3名は莫大な株売却益を得た。しかしその頃にはBSEの発生とハンバーガーの価格の極端な上下により売り上げを大きくさげ、筆頭株主の米国マクドナルドにより社長退任となった。後任社長は子飼いの八木康介氏であった。八木康介氏は成城大学卒で、藤田元氏の同級生であった。就職先を藤田元氏に相談したら、日本マクドナルドを勧められ新卒として入社した。大変優秀で、1年で店長に昇進し、店長として、日本初のドライブスルーの環八高井戸店や大型店の江ノ島店を務めた。私はSV時代に担当店舗六本木店の店長であった。
八木康介氏は米国駐在経験がなかったが、その面では故・藤田田氏がサポートするはずであったのだろう。社長就任前は故・藤田田氏が重要視する、購買本部長を務めたことからも故・藤田田氏の厚い信任がわかるであろう。八木康介氏は聡明な人で、息子が就職する際になんと競合のモスバーガーの社長だった桜田氏に依頼しモスバーガーに入社させたのだ八木康介氏の奥さんはマクドナルドでアルバイトをしていたし、奥さんのお姉さんはマクドナルド本社で長年働いていたマクドナルド一家だ。通常であればマクドナルドに入社させるはずであるが、しなかったのはその後の問題を予測していたのかもしれない。
若い八木康介氏が社長に就任することで八木康介氏より年配のベテラン社員の去就が問題となった。八木康介氏が社長に就任すると、利益改善のため、社員の中途退職を募集せざるを得なくなった。その結果160名ほどのベテラン社員が退職し、会社としての能力が大きく低下した。また、故・藤田田氏は重い病のため2003年にCEOを退任し、2004年4月に死去してしまった。
莫大な持ち株など多額の相続を本来であれば、奥様と2人のご子息が相続するはずであった。しかし新聞報道に藤田完氏の名前はなかった。藤田完氏が日本マクドナルドのマーケティング本部長時代に部下だったF.K.氏(結婚後F.M.氏)という女性の存在であった。独身だった藤田完氏であるから、女性との交際は問題ないはずであるが、F.K.氏を故・藤田田氏もかわいがっていたから問題が大きくなり、藤田完氏が精神的におかしくなったというのだ。精神的におかしくなれば財産を相続できない禁治産者となるはずだ。実際にその後に藤田完氏の存在は誰も知らないという状態だ。
F.K.氏についてはなくなる前に故・藤田田氏が心配し、ある役員にサポートを依頼した。別の故・藤田田氏の信頼の厚い役員は転職する際にF.K.氏を連れて行ったほどだ。
故・藤田田氏は莫大な資産を見事な節税策で家族に相続させた。しかしその名前と功績は一切マクドナルドのHPや社内には残っていないのは残念だ。
終わり