2001年7月にジャスダック上場した際、藤田元氏売却520万株、藤田完氏売却500万株、故・藤田田氏売却400万株、2001年分所得税番付では、株式売却益で親子3人で3位から5位にランクインし、藤田元氏33億7000万円、藤田完氏32億7000万円、故・藤田田氏21億6000万円の納税となっていた。(2001年分の全国 所得税 高額納税者上位100人より 朝日新聞平成14年5月16日夕刊より。)当時の株式売却益の税率は10%と低く、それから逆算すると御子息二人の継承した資産は600億円近い膨大な額だ)。 その後の故・藤田田氏の遺産は約500億円と言われており、故・藤田田氏の金儲けの才能には目を見張る物がある。
これには、故・藤田田氏の20年先を見通した戦略がある。先回お話しした、社内組織改革の続きを見てみよう。購買部の新設でお金の流れを管理した次が、米国対策だ。色々組織改革をしようとしたが、目障りだったのが、故・ジョン朝原氏だった。故・ジョン朝原氏は米国マクドナルドの社員で、創業者の故・レイ・クロック氏と故・フレッドターナー氏に報告していたのが目障りだった。創業者の故・レイ・クロック氏と故・フレッドターナー氏は日本マクドナルドの経営には関与しないとしながら、店舗運営にアドバイスし、社員の教育をするという名目で、店舗運営部顧問という立場に過ぎなかった。しかし、店舗運営部の教育だけでなく、本社各部社員への米国本社教育や、ハンバーガー大学の研修を通じて大きな影響力を持つようになったことが、故藤田田氏にとって懸念となっていった。
そこで、故藤田田氏が1970年後半にとった戦略が、顧問の採用だった。1人は故・藤田田氏と同じく半島出身者の故・K氏だった。故・K氏は建築現場に詳しいので、設計監理部に追いやった、故N氏の監視であった。もう一人の顧問は旧日本陸軍将校、防衛駐在官、陸上自衛隊第6師団長、陸上自衛隊富士学校長を歴任した故・竹中義男氏だった。確か島根の出身で定年退官後、故・藤田田氏の奥様の故・悦子さん(島根県出身)の縁で顧問に招かれた。日本マクドナルドでは、ハンバーガー大学の所属とした。立派なカイザー髭を蓄えた、細身の方で威厳があった。故・竹中義男氏はハンバーガー大学での指導のほか全国の店舗を訪問し、指導した。
故・竹中義男氏については、ジーン中園氏が出版している。
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これに激怒したのが、運営部顧問の故・ジョン朝原氏だった。完全に故・ジョン朝原氏への牽制であったのは明白であった。私たち店舗運営部に故・竹中義男氏の指導を無視するように行った。故・竹中義男氏は陸上自衛隊での経験が長いが、マクドナルドの経営を熟知していないので、店舗運営部に対しては精神論ばかりで、具体的な影響力は出なかった。しかし、社内に権限を持ち経営しているのは故・藤田田氏であることを明確にした。 しばらくたっても、故・竹中義男氏の影響力が出ないので安心した故・ジョン朝原氏は故・藤田田氏の後継者づくりを開始した。米国マクドナルドではCEOになるには店舗の運営を熟知していないといけない。店舗での経験はもちろん、店長を指導するSV、SVを指導する統括SV、運営部長を経験し、数百店舗を管理する地区本部長の経験が必要だった。店舗の運営はもちろん、新店舗の開店、地区の広告宣伝等すべてを管理する重要な仕事だ。地区本部長の経験でCEOに必要不可欠な経営能力を養うのだ
故・藤田田氏は店舗が日本全国に展開するようになると、細かい仕事に目を配ることができない。そこで、関西地区を本部とし、運営本部長であった川村龍平氏を任命した。故・藤田田氏は新店舗選択の店舗開発会議に出席するが、それ以外の経営を任せた。関西地区は、名古屋以西、大阪、中国四国、九州、沖縄を担当した。私は1984年3月に、2年勤務した米国店舗の責任者からその新設の関西地区本部に統括SVとして赴任し、関西の店舗と中国四国地区の店舗を担当した。1年後に運営部長に昇進した。
川村龍平氏は東京教育大学(当時都立大学)を出て大変聡明な人だった。故・ジョン朝原氏は川村龍平氏をかわいがり、将来の社長候補と考えていた。故・ジョン朝原氏が関西地区本部長の川村龍平氏に要求したのが、店舗の土地の取得とフランチャイズ化だった。日本の土地価格は高く、なかなか土地の取得ができていなかった。米国マクドナルドの利益の源泉は、固定金額で土地を購入し、売り上げ変動のロイヤルティと家賃を、フランチャイジーから徴収することであった。これがマクドナルドが競合の2倍の利益率をたたき出す源泉なのだ。
https://www.sayko.co.jp/food104/post-3827/
川村龍平氏はその任務を理解し、店舗の土地の取得を着々と行っていた。この関西地区本部の成功から、故・ジョン朝原氏は、1987年5月に中央地区本部を発足させた。地区本部長にまた店舗運営部から昇進させると故・藤田田氏が嫌がるとして、店舗開発本部長であった伊藤氏を地区本部長に推薦した。伊藤氏は店舗運営の経験はなかったし他の、業務を経験がないので、本社の各本部から優秀な人材を派遣させ、サポートするようにした。中央地区本部は、横浜関内に置き、愛知から神奈川県の地区と、北海道を担当させた。北海道は離れているようにみえるが、時間で言えば羽田に近い中央地区本部に近いからだ。この戦略は成功し、店舗経験がなくても地区本部長が務まることを明らかにしてしまった。これに気が付いた故・藤田田氏は米国顧問の故・ジョン朝原氏に近い川村龍平氏の追い落としであった。川村龍平氏は混成部隊の関西地区本部の融和と一体感を出すため、本部社員とたびたびゴルフをしていた。もちろん各自の個人負担であったが。それを故・藤田田氏はけしからんとして、新しく設けた閑職への移動を求めた。その処置に怒った川村龍平氏は退職し、社員フランチャイジーになることを求め、宝塚市の良い店舗を得た。同時にとばっちりを受けたのが、故・ジョン朝原氏にかわいがられていた運営部長だった佐藤明氏だった。佐藤明氏も大阪郊外のベッドタウン豊中の店舗のフランチャイジーとなった。これらの人事により社員全体が、故・ジョン朝原氏から距離を置き、故・藤田田氏を重視するようになった。
続く