マックの裏側 第2回 マクドナルド創業メンバーが語る秘話

マクドナルド時代の体験談

 AOC(マクドナルドの店長向け講座)で難しい機械のメインテナンスもきち
んとしたマニュアルとトレーニングカリキュラムがあれば誰でも出来るように
なると言うことは大きな驚きと共に,自分たちで改善しなければと思わされた
わけだ。エクイップメントマニュアル(調理機械構造と性能の図解詳細説明、
分解清掃、部品交換修理方法)や店舗の設計図を抱えて日本に持って帰ったの
は言うまでもない。また、米国の調理機器はインチサイズであり、日本などの
ようなメートル単位でなく何時も修理の際に工具が無くて困っていた。米国研
修時のショッピングセンター見学は絶好のチャンスで、当時は世界最大の小売
業だったシアーズにいき工具を買いあさったのだった。

 店舗の見学は単に見るだけではなかった、訪問したら必ずハンバーガーを購
入して食べることを強制された。一日に10件ほど見学するからそれだけで腹
が一杯になる。しかし、まず食べてみないと何が違うかわからない、買ってみ
て初めてサービスのスピードや品質がわかるという現実的なアプローチを徹底
的に行わされた。勿論,マクドナルドばかり見ていると勉強にならないから、
夕食には他のレストランチェーンに行って食事をしたのだった。当時、サンフ
ランシスコに創業したてのビクトリアステーションというローストビーフのチ
ェーンが大繁盛しており(のちにダイエーが提携し日本で展開)、そこのサン
フランシスコ1号店を訪問したときだった。マクドナルドのハンバーガーで腹
一杯の筆者は(当時のクオーターパウンダーという113グラムの肉のハンバ
ーガーを中心に10個以上は食べていた)メニューを見て、一番高いロースト
ビーフを頼んだ。なぜかというと日本ではステーキ屋などで一番高いステーキ
を頼むと大抵は最高のヒレ肉で美味しいが量が少ないからだ。そう思って一番
高いローストビーフを頼んだ訳だ。そうしたらウエイターが何か筆者に聞いて
きたが、当時英語を全く理解できなかったから、朝原氏に聞いたら「何も問題
ないよ」と笑うだけだった。ビクトリアステーションは日本にはまだ無かった
サラダバーがあり、珍しい物だからお腹がいっぱいなのに無理してぱくぱく食
べていた。しばらくしたらローストビーフが運ばれてきて飛び上がるほど驚い
た。筆者の頼んだのは一番高いサイドトラックというメニューでなんと重量が
2ポンド、約900グラムもある巨大な物だった。ここで、残すとジョン朝原
氏に連れて帰らないという脅しを受けて(反対に食べたらおごってくれる)、
筆者は必死に食べ切った。廻りの米国人は体の小さな筆者(当時は今の体重の
半分くらいと軽量小柄だった)に巨大なローストビーフが運ばれた物だからど
うなんだろうと注目していたが、見事に食べきった筆者に盛大な拍手を送って
くれた。その時は良かったが、翌朝起きたときもまだ喉まで牛肉がつまり、さ
すがの筆者も翌朝の朝食は食べられなかったほどだ。これは、マクドナルドが
常に言うモットーのQSC+VのVは米国ではこうなんだよと教えるためだったの
だ。

 ジョン朝原氏は、時々食事をおごってくれ、話をじっくりした。しかし集団
旅行時には各人が自分で払うのだった。例外が、賭ける時だった。米国のバリ
ュー(ボリュームといった方が良い)を教えるために、本社のあるシカゴを訪問
時にパルテノンというギリシャ料理に日本人をよく連れて行った。当時は数ド
ルでボリュームのあるフルコースを提供していた。

 20年前まで30ドル以下でフルコースを提供していた。
The Parthenon (残念ながら2016年に閉店)
https://chicago.eater.com/2016/9/7/12835928/parthenon-chicago-greek-cl
osed-flaming-cheese-opa

https://chicago.eater.com/2016/12/12/13920164/parthenon-greek-restaura
nt-lawsuit-ambassador-public-house-bar-open

 ここでジョン朝原氏は、賭けをする。コース料理を全て食べられたら、奢っ
てやるというのだ。ボリュームがあるだけでなく日本人の苦手な食事が出てく
る。山羊乳原料のチーズだ。独特の風味があり日本人には抵抗がある。量的に
もかなりあるし途中で出てくる山羊乳のブルー・チーズ(ロックフォール 青
カビ・ブルーチーズ)の臭いでみんなダウンする。それを見てジョン朝原氏は
大喜びするのだった。この賭けに勝った日本人は筆者を含めて数人という、ジ
ョン朝原氏の米国の食の洗礼だった。因みにこの店は、ジョン朝原氏の国際部
の上司に当たる、バイス・プレジデントのクラーク・ボールドウイン氏のガー
ルフレンドが運営しており、それで知ったそうだ。そのガールフレンドは、シ
カゴの有名なマフィア、アル・カポネの親族だったそうだ。

 こんな経験を積みながら日本と米国の価値観の違いを勉強させられた。ジョ
ン朝原氏は筆者たちと個人的にじっくり話をしたり進路を考えさせる際に、食
事をおごってくれた。その際、「クロックさんのおごりだよ」と必ず付け加え
た。朝原氏は一滴も酒を飲まないので、会社も食事などの交際費経費には一切
文句を言わなかったようだ。また、通常米国企業の日本駐在員というと、六本
木や青山などの外国人が好む一等地に住み、家賃も莫大なものだが、朝原氏は
、良い住宅地ではあるが通常の日本人の住む地味な家を選ぶという質素な生活
だった。この質素で酒を飲まないことが、米国本社のフレッド・ターナーや、
レイ・クロックの信頼につながっていたようだ。

 そんなように訪問した店舗で徹底的に食べたので、調理機械の違いだけが品
質の差ではないという事が胃袋で理解をするようになり、食材も違うというの
だという発見をした。ハンバーガーパティはグリルで焼く際に,ターニング(
片面が焼けたらひっくり返す)してから塩を振りかけるのだが、米国で見てい
たら塩胡椒(塩と黒胡椒)を振りかけていた(当時の日本は塩だけだった)。何故
?とジョン朝原氏に聞いたら、日本で胡椒を入手しようと思ったらラーメン屋
の白胡椒しかなく、塩と混ぜて振りかけたらパウダー状の白胡椒はフワーット
ダクトに吸い込まれたから止めたと返事されたので大笑いした。日本でも黒胡
椒は手に入るのだが、一般的でなかったので知らなかったようだ。米国のマニ
ュアルにもはっきりと塩と胡椒の割合を書いてある。あわてて胡椒の種類とメ
ッシュサイズ(挽く際の細かさ)、メーカー名を記録し、日本に持ち帰った。
その他でも、バンズの品質の良さ、チーズの味の違い、ピクルスの品質,ケチ
ャップ、朝食メニューなど数多くの品質の違いがあるのに気がつかされたのだ
った。

 アルバイトの作業の生産性も大きな違いがあった。米国の厨房設計には標準
レイアウトがあり、各機器間の通路巾、入り口からカウンターまでの距離、カ
ウンターの巾、など作業の生産性を維持できるような標準化と理論が確立され
ていた。些細なことだが、厨房床の材質も大きな差があった。当時の日本の厨
房は滑りやすくて、忙しいときなど段ボール箱を敷いて作業をして不衛生だっ
たが、米国の厨房は汚れのつきにくい煉瓦色のタイルで鉄粉を混ぜて、滑り止
めの効果がタイルの寿命と同じくらい長い物だった。また日本のタイルは客席
も厨房も上薬がかかった物で、しばらく使っていると上薬がはげて、色が変わ
り見苦しくなってしまった。米国の物は金太郎スタイルで下地まで色が同じ材
質であり、すり減っても見苦しくなくタイルの厚さがあるかぎり使用できる耐
久力の高い物であった。

 標準店舗レイアウトももの凄く参考になったがマクドナルドの創業者レイ・
クロック氏がオープンした一号店が当時はまだ営業しておりそれを見学できた
のが大変参考になった。驚かされたのがその20年前のレイアウトが最新の店と
そんなに変わらず、現役で商売が出来ると言うことだった。それだけ、当時の
エンジニアの店舗レイアウトの素晴らしいアイディアと、耐久力を持たせた素
晴らしい厨房だったわけだ。
 
<2>香港研修
 朝原氏のトレーニングで面白いのは、他の人に自分の得意な分野の業務を教
えさせることである。人に教えるためにはよい加減なことは教えられないか
ら、自分でしっかり正確に勉強する必要がある。他の人という意味では、自分
の部下ではだめだ。赤の他人のほうが良い。相手は自分の出世に影響しないか
ら、教える人が良い加減なことを言えば、そっぽを向くからだ。

 筆者が入社し日本のハンバーガー大学を出て、最初の店舗に配置されてから
間もないころに朝原氏が店舗を訪問し、筆者の勤務ぶりを眺め、筆者に何をし
ているのかと質問した。筆者は忙しいランチタイムであったので、アルバイト
の補佐でハンガーガーを作るのを手伝っていた。それを見た朝原さんは、アル
バイトより高給の筆者がハンバーガーを作るのでは儲からない、マネージャー
の仕事は全体を俯瞰しアルバイトに作業指示をして、お店がスムーズに回ると
ことなどを理解させてくれた。

 知識の少ない筆者を見て、朝原氏は筆者へのトレーニングの進行状況の質問
をした。その当時は米国でフレッド・ターナーが開発した、MTP(Management
Training Program)
というカリキュラムを、日本でスタートしたばかりであった。米国マクドナル
ドのトレーニングカリキュラムは、実践的なものであり、毎日少しづつ教え、
理解度や熟練度を上司とトレーニングを受けるものが確認しながら行うもので
あった。
 筆者の上司の店長とスーパーバイザーが、まだそれを使っていないことを発
見した朝原氏は激怒し、2人に何か厳しくいったようであった。その晩、店長
とSVが徹夜で筆者にトレーニングを実施したことは言うまでもない。しかし、
まもなく筆者は金庫に指を挟んでけがをするという失態を犯し、ハンバーガー
を作る作業はほとんど覚えず、店長になり、スーパーバイザー、統括スーパー
バイザー(SVを6~7名管理する)になってしまった。

 当時のマクドナルドの場合は時間当たりの販売数量が多いため、厨房機器の
製造能力の知識及び、生産性をあげるためのオペレーションの知識が必要にな
るのである。

 フレンチフライ(マックフライポテト)の調理はアルバイトでもできるよう
に、サーモスタットによって一定温度の保たれたフライヤーに、規定量の冷凍
フレンチフライをバスケットに入れフライヤーに入れる。そして、コンピュー
ター付き(マイコン)のタイマーのスイッチを入れると、コンピューターが調理
時間と調理中の油の温度を計算し、一定の熱量が加わったら、ブザーを鳴ら
す。ブザーが鳴ったら、アルバイトは上がったフレンチフライのバスケットを
上げて、油を切る。(途中30秒後にブザーが鳴ったら、バスケットを一度上
げ、ゆすって解凍してお互いにくっついたフレンチフライをほぐして、かりっ
と上がるようにする)。というように自動化して現在もその仕組みは変わらな
いという完成度の高いものであった。

 それに比べ、ハンバーガーの具のミートパティーを焼き上げるのは依然とし
て職人芸であった。冷凍ミートパティの調理はオーダー毎に作業するバッチ処
理方式であった。一度に焼く最大の枚数は決まっていないし、焼成時間も決ま
っていなかった。1時間のミートを焼成能力も決まっていなかった。

 当時使っていたハンバーガーの冷凍パティを焼くグリルは、現在のものより
大きな、奥行き900mm、幅1500mm(幅5フィート)のサイズであった。ピ
ーク時にはそのグリルに冷凍パティ全面並べ(96枚)焼き上げる。湯気がほわ
ーっと昇りミートパティを焼くというより蒸すというような状態だった。最初
のミートパティは生で、最後のミートパティは真っ黒になるというひどさだっ
た。グリルの能力の低さ、当時の日本で使っていたガスのカロリーが低くか
つ、日本が参考にして作った米国のグリルの能力が生肉用の火力が低いという
のが原因であった。筆者は数年かけてグリルの能力を米国並みに改善した。し
かし、機械の次にオペレーションの改善が必要となった。

筆者はマクドナルドの店舗で1985年ころには実際に1時間に最大75万円の
売上の経験がある。そのとき販売したハンバーガーの数は1500個であっ
た。つまりファミリーレストランの10倍以上の製造能力である。そのときに
調理したハンバーグミートパティの枚数は1時間に正確に1500枚であっ
た。

 当初のミートパティの調理は、グリルの上にミートパティを置き、スパチュ
ラで上を軽く押す。冷凍ミートパティの周囲1センチくらい解凍してきたら、
スパチュラでひっくり返し、塩を一振りし(米国は塩コショウであったが、日
本は筆者が変えるまで塩のみであった)、水で戻した乾燥玉ねぎのみじん切り
を3.5gほど乗せる。ミートパティの中心1センチくらいに肉汁が出てきたら、
スパチュラでグリルから取り上げ、トーストしてケチャップ、マスタード、ピ
クルスを乗せたバンズの乗せるというものであった。フレンチフライの調理と
比べ如何に遅れていたかお分かりだろう。そのため当初は熟練した職人肌のア
ルバイトの独壇場であり、生焼けや焼き過ぎのハンバーガーが当たりまえであ
った。それではいけないと、米国マクドナルドは、ミートタイマーを開発し、
ミートパティの焼き上げ時間を定めた。

 冷凍ミートパティの調理はオーダー毎に作業するバッチ処理方式であった。
12枚焼いてから次の12枚を焼く。 焼けすぎを防ぐため、一度に焼く最大
の枚数は12枚と制定した。焼成時間は両面で2分10秒間。1時間で332
枚のミートを焼成出来るのであった。冷凍ミートパティを置く場所も決め、冷
凍ミートパティを置いてから、20秒後にタイマーが鳴り、シアーツールという
専用の重いスパチュラで冷凍ミートパティの上をしっかり押さえつける。冷凍
のミートパティの表面は凸凹しており、冷凍状態のうちはグルル面に全体が接
しておらず、そのままにすると焼けムラができる。そこで、シアーツールで解
凍して軟らかくなったミートパティをグリルに押し付け、密着させ、加熱され
たグリルの熱が均等にミートパティに伝わるようにする。55秒後にタイマーの
ブザーが鳴る。スパチュラ(刃物のように鋭利な状態に研いでおく)で1枚1枚
丁寧にミートパティをひっくり返す。焦げ目が均等に充分ついたミートパティ
に塩コショウを軽くかけ、水で戻した乾燥玉ねぎのみじん切りを3.5gほど乗せ
る。2分10秒後に再度ブザーが鳴る。ミートパティが焼きあがった合図であ
り、スパチュラで丁寧に掬い取り、ドレスされたバンズの中心に乗せる。この
オペレーションにより、品質が飛躍的に安定した。しかしこのやり方では1台
のグリルで1時間300枚ほど、2台(当時の日本標準、米国の標準は3~4台)
600枚程度と能力が不足であった。

 そこで米国マクドナルドは連続処理のオペレーションを考案した。12枚のミ
ートを焼いてひっくり返した後、次の12枚の ミートを並べる。つまり70
秒毎に12枚の肉を焼成出来るというターンレイ・システムであった。1時間
で倍の600枚のミートを焼けるようになった。しかし人間的な作業ロスを考
え、生産能力を計算上の70%と、1時間に420枚の生産枚数とした。 こ
れでも1時間25万円の売上を達成することは可能であり、グリドルの能力も
余裕がでる。実際の能力としては420枚とするが機械の製造能力としては1
時間に600枚を焼成できる能力に設定する。さらに機械をカリカリにチュー
ニングして調理する人を増やすと先のように750枚も焼けるようになるわけ
だ。

 筆者はこのころには統括スーパーバイザーとしてスーパバーザーを6名、30
店舗を管理していた。だが筆者は、ハンバーガーを正確に大量に焼くことがで
きなかった。マクドナルドのトレーニングメソッドは軍隊式で(山本五十六の
「やってみせ、言って聞かせて、させてみて、ほめてやらねば、人は動かじ」
という方式であった。(上杉鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみ
る」と同様であるが)つまり、部下に教えるには自分ができないといけない。

 日本の会社であれば、やってみろ、覚えろの一言の命令だろう。だが朝原氏
の考えたのは一風変わっていた。筆者に香港のマクドナルドに行って教えてほ
しいという婉曲な命令であった。筆者は香港、特に広東料理が大好きだったの
で、単に教えるだけなら簡単と承諾してしまった。

 日本が藤田田氏と米国マクドナルドが合弁会社を作り、繁華街中心の都市型
店舗で大成功すると、東南アジアの華僑は注目し、東南アジア各国の華僑は日
本に倣って、店舗展開を開始した。その第一号が、香港人で英国でコンピュー
タエンジニアリングの教育を受けた、ダニエル・Ng氏であった。日本に学ぼう
と日本によく勉強に来ており、ジョン朝原氏と仲が良かった。

 ダニエル・Ng氏は英国で教育を受け、英語も堪能だし、藤田田氏のようなア
ンチ米国ではなかった。そのため、日本の繁華街出店をしながらも、米国の厨
房施設を輸入し、米国基準の大きさの店舗で大成功した。筆者は日本の国産厨
房機器の能力の問題を認識し、その解決策として本場の米国厨房機器の勉強に
香港を2度ほど訪問していた。香港のマクドナルドは繁華街一の立地に大型の
店舗を作り大成功していた。日本と違い米国の能力の高い厨房機器を導入しな
がらも、店舗の売り上げが日本以上のため、店舗のオペレーションの問題を抱
えていた。その中でもハンバーガーを作る上記の新しいシステムの導入が遅れ
ていた。そこで筆者に香港で教えてほしいという婉曲な命令であった。

 承諾した後、教え方を言われて驚愕した。香港の筆者と同じ地位の統括スー
パーバイザーと店舗で実際にハンバーガーを、新システムのターン・レイで焼
く競争をし、違いを見せてねという。しかも香港で教えるのは、江ノ島とよく
似た高級リゾート地レパルス・ベイ(repulse bay beachi)店という超繁盛店で
あった。
http://www.discoverhongkong.com/jp/see-do/great-outdoors/beaches/repul
se-bay-beach.jsp

http://image.search.yahoo.co.jp/search?rkf=2&ei=UTF-8&gdr=1&p=repulse+
bay+beach+hong+kong+mcdonald%27s#mode%3Ddetail%26index%3D0%26st%3D186

 筆者はアルバイトに単に教えるだけだったら、マニュアルや言葉でごまかせ
ると簡単に考えていたので、ハンバーガーを焼いた経験の少ない筆者は困って
しまった。当時の筆者は英語が全くできなかった。言葉ができればごまかせる
が、できない場合には体で見せないといけないからだ。ましてや競争とあって
は。そこで筆者の担当の一番忙しい店で練習することにした。1978年10月17日
に開店した日本では154号店、世界では5000号の記念店の江の島店であった。
記念店であり、海外からも見学に来るだろうと、700坪を坪25万円で購入
し、大型のドライブスルー店舗とした。厨房設備も国産ではあったが、米国
の広い厨房レイアウトにしていた。当時は湘南地区がリゾートとして人気が高
く、昼のピークには1時間で50万円、月間9000万円(最高時、月間1億円)も
売る店であった。その昼のピークに3日通い、上記の最新のターンレイオペレ
ーションを汗だくになって身に着けたのであった。

 しかし、単に作業を熟練するだけではジョン朝原氏の朝原氏に「高い時給の
職人ができたね」と嫌味を言われるのがおちだ。そこで誰でもスムーズに作業
に熟練できる仕組みを考案しなければいけなかった。ただやみくもに練習して
も役に立たない。作業を分析し合理的にトレーニングできるようにしないとい
けない。そこで連続処理のオペレーションの作業分析を行い、合理的なトレー
ニング方法を考え出さなくてはならなかった。

(1)ハンバーガーの製造手順
ハンバーガーの製造手順を分解して見てみる。最初はプルレイ(1回1回焼き
上げる方式)の製造手順だ。

1.冷凍ミートパティの入っている冷凍庫内の段ボール箱から片手に6枚づつ、
両手で12 枚の冷凍ミートパティを正確に掴み、手前から奥に並べていく。
2.タイマーを作動させる。
3.20秒後にシアーブザーが鳴ったら、ボタンを押してブザーを止める。
4.グリルの奥においてあるシアースパチュラを掴み、1枚1枚のミートパティ
を上から押 し付け、しっかりとシアー(焦げ目をつけること)をする。パテ
ィをしっか りシアー スパチュラで押さえ、グリルの奥から手前に向かって
焦げ目をつけていく。シアーが正 しくできていれば押した時に「ジュー」と
いう音がする。
 このシアーの作業が必要な理由は、冷凍のミートパティは平らでないと言う
ことだ。や や凸凹で縁にバリが出ている。そのままにしておくとミートパテ
ィがグリルに接触する 面積が少なくなり、生焼きになったりしする。
 使用したシアースパチュラは、綺麗なタオルで拭いてから正確にスパチュラ
ホルダーに 戻す。綺麗にしないと次に使うときにミートパティに汚れがつく
し、脂が固まるとミー トパティがシアースパチュラにくっついてしまう。
5.55秒後にターニングブザーが鳴り始めたら、パティを1枚ずつ手前から奥
に裏返して いく。スパチュラは両手で持ち慎重にミートパティをターニング
(ひっくり返す)する。 その際にシアーでついた焦げ目を損なわないように慎
重にターニングする。ターニング ブザーは自動的に止まる。
 この際に使用するミートスパチュラはやすりで丁寧に研ぎ、最後は包丁と同
じ位切れる ほど鋭く歯をつける。研磨が不十分だとターニングの際にパティ
を傷つけたり、取り上 げる時にグリルに汚れが残る。
 グリルの汚れはスクレーパーで削り取るのだが、その作業が殆ど必要ないよ
うにスパチ ュラの研磨を行う。また、鋭い歯がついたスパチュラで作業をす
ると疲れない。1時間 の作業を行うのあれば、途中で刃が丸くなるので、ス
ペアーを用意しておく。
6.パティを全部裏返したら、各列ごとに塩コショウを奥から手前に均等に6イ
ンチ(約15cm)の高さから正確に振りかける。そのために、綺麗なテーブル
の上で、この作業 を行い、平均的に塩コショウがかかるか練習をする。
7.戻しオニオンを手前から奥へ1/8オンス(約3.5g)ずつミートパティに
載せる。こ れも片手に21gを掴み、正確に分けられるように練習をする。
綺麗なテーブルの上に 、ミートパティの円を描き、そこに正確に乗せる練習
を繰り返す。
8.ドレス(焼いた上部のクラウンにマスタード・ケチャップ・ピクルスを乗せ
る)したバ ンズが載っているバントレーをグリルクリップ(トレーを掛ける
ところ)に掛ける。
9.105秒後にリムーブブザーが鳴ったら、一度に2枚ずつのミートをスパチ
ュラで取り ながらドレスされたバンズの上に載せていく。
 この時、ミートから出ている肉汁を切ってはいけない。(ダブルバーガー、
ダブルチー ズバーガーのミートパティは肉汁を切る)パティは、ドレスした
バンズの中央に置いて ミートパティを引き抜く要領で載せる。
10.バンパーソンにビッグマックの場合は「クラウンプリーズ」、その他の場
合は「ヒール プリーズ」と声を掛ける。
11.グリルマンの横にいるバンマンが焼き上げたヒールをスパチュラでクラウ
ンの上に乗ったミートパティの上に滑らせるようにして載せる。
12.グリルマンは完成したハンバーガーを載せたトレーをパッケージングエリ
アにまわしな がら「バーガーズアップ」と声を掛ける。
13.グリルスクレーパーを使って2往復でグリル表面の肉汁とカーボンを完全
に取る。
 グリルスクレーパーの刃は特殊鋼で大変硬いので、専用の研ぎ機で研磨し、
剃刀のように鋭くしておく。そして、グリル手前から奥向けて焦げ付いた肉の
カーボンを削りとっ ていく。何回もその作業を行うと刃が丸くなるので2往
復だけで正確に清掃する。
 この基本的なプルレイは簡単だが生産能力が1時間300枚程度と少ない。
そこで編み出されたのがターンレイと言う連続作業で休みなくミートパティを
焼き上げる手順だ。
 ターンレイの製造手順は、最初のミートパティをターニングした後、休むま
もなく、直ちに次の回のミートパティを並べる。次に、最初のミートパティに
塩コショウを振り、 オニオンを乗せる。そして休むまもなく2回目の肉のシ
アーをして、最初の回のミートパティを取り上げてバンズに乗せる。そしてグ
リルを清掃し、スパチュラを拭き上げる 。
 次は2回目の肉のターニングだ。そして3回目の肉を焼き上げ開始。このよ
うに休む暇もなく、理論的に1時間に600枚(疲れやミスを考慮し70%の
高率としても420枚)のミートパティを焼き上げるのだから、一瞬の時間の
無駄も許されない。

(2)無駄な動作をなくす練習

<1>ミートパティの掴み方と並べ方
 そこで、冷凍のミートパティを正確に両手で6枚づつ掴む練習をする。それ
より少なくても多くても、冷凍庫に戻したり、取りにいったりと作業に数秒の
無駄が出るからだ。正確に6枚づつ掴む練習をする。そして、掴んだミートパ
ティを正しいグリドルの位置に並べる。
 グリドルの横幅は900mm、奥行きも900mmだ。直径10cmのミートパ
ティを横に8列並べると800mm。グリドルの左右25mmはコールドゾーンと
言って温度が低いので使えない。ミートパティ同士の間隔は5mm程度あけて並
べる。ピッタリ隙間なくつけて並べると、片側が焼きあがってスパチュラでタ
ーニング(ひっくり返す)する時に横の肉を傷つけるからだ。これだけきっち
りと寸法が決まっていると、ミートパティを正確に位置決めをして置かないと
いけない
 本物のミートパティで練習すると肉が溶けてしまうので、コルクをくりぬい
てミートパティの大きさの模型を作り、それを使って掴んでグリルに正確に置
く練習を考案した。大体1時間ほどで上手になる。
 戻しオニオンを1/8オンス(約3.5g)ずつミートパティに載せる練習も
必要だ。これも片手に21gを掴み、正確に分けられるように練習をする。綺
麗なテーブルの上に、ミートパティの円を描き、そこに正確に乗せる練習を繰
り返す。

 ちょっと細かい作業を延々と述べたが、これはマクドナルドの教育システム
の神髄である。筆者がマクドナルドに入社したのは、銀座に1号店開店の2年後
であった。筆者が外食産業に入ったのは、大阪万博の頃であり、実家の飲食業
に入ったが、まだ水商売と言われた飲食業のノウハウ不足を実感し、勉強が必
要と、大手企業で学ぶことにした。当時の外食でトップ企業は、国鉄参加で列
車食堂などを運営していた日本食堂(現在の日本レストランエンタープライ
ズ)であった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%97%A5%E6%9C%AC%E9%A3%9F%E5%A0%82

 筆者は地元池袋にあった西武百貨店子会社のレストラン西武の門をたたい
た。レストラン西武は、西武百貨店の社員給食から始まり、社外の大手企業の
社員給食やゴルフ場などのレストランを受託運営していて、日本食堂に次ぐ大
手外食企業だった。
https://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%A5%BF%E6%B4%8B%E3%83%95%E3%83%BC%E3%
83%89%E3%83%BB%E3%82%B3%E3%83%B3%E3%83%91%E3%82%B9%E3%82%B0%E3%83%AB%E
3%83%BC%E3%83%97

 当時は飲食店経営には調理技術も必要であると思われていて、筆者は調理人
の道に入ろうと思ったのだった。当時のレストラン西武は、日本橋の大日本イ
ンクビルの最上階で高級なフレンチレストラン「レストランプリンセス」を経
営していたのでそれを希望した。しかし当時のフレンチは厳しい徒弟奉公制
で、筆者のような大卒では年が取りすぎているからと、フレンチのウエイター
に採用された。2か月ほど働いて、フレンチのおいしさに目覚めたが、ウエイ
ターの限界にも気が付いた。当時レストラン西武は、チェーン展開のノウハウ
を学ぼうと米国ハンバーガーチェーンのバーガーキングとの提携を考えてい
た。しかし米国側が日本の牛肉価格の高さと輸入できないことを理由に断って
きた。そこで独自にハンバーガーチェーンの「コルネット」を展開しようとし
たがうまくいかなかった。そこで米国ドーナツ業界でトップのダンキンドーナ
ツとの提携に踏み込み、日本ダンキンドーナツを設立した。ドーナツは朝食中
心の小規模な店舗で、数人で運営できるのであった。ドーナツは、製パンに基
づいた製造技術をマニュアル化し、フランチャイジーに1っか月ほどで製造方
法を身に着けさせたのだった。素人のフランチャージ―に調理技術を教えるた
めに、見事なマニュアルと、ドーナツ大学の授業カリキュラムが出来上がって
いた。店内のカウンターには、アンダーカウンターの皿洗器があり、手洗いは
ほとんど必要なかった。
 筆者がダンキンドーナツ1号店を銀座に開店したころ、やはり銀座三越1階に
マクドナルドが開店して大繁盛していた。ダンキンドーナツも大繁盛していた
のだが、その差は大きかった。ダンキンドーナツの2号店は国立でここも大繁
盛だった。仕事の帰りには近所の甲州街道沿いの夜遅くまで開いている郊外型
レストランに行くのが楽しみであった。それがすかいらーく1号店であった。
 ダンキンドーナツで2年ほど頑張ったが、やはり主食のハンバーガーだと、
マクドナルドに転職した。マクドナルドに入ってびっくりした。外部から見た
マクドナルドは、完璧なマニュアルが整備され、高度にシステム化した調理シ
ステムと思っていた。しかし、ダンキンドーナツよりかなり遅れたマニュアル
と教育システムだった。当時のマクドナルドは米国内でベイビーブームと住宅
の郊外化の波に乗り急成長しており、完璧なマニュアル化システム化は遅れて
おり、ハンバーガーの調理システムもなく、職人芸に依存していた。閉店後の
清掃も前時代的で、皿洗器もなく、パンツ一丁で汗だくの清掃作業2時間の重
労働だった。しかしマクドナルドのすごいのは上記のようにハンバーガーの焼
き方を詳細に定め、タイマーや機器の整備をしたことだ。現在では、その職人
芸に頼らず。クラムシェルで全自動で焼き上げるように進歩している。そのシ
ステム化がマクドナルドのすごさだ。

以下はダンキンドーナツ時代から、マクドナルド転職の経緯だ。
http://sayko.co.jp/article/syogyo/insyoku/96/96-01.html
http://sayko.co.jp/article/syogyo/insyoku/96/96-02.html
http://sayko.co.jp/article/syogyo/insyoku/96/96-03.html
http://sayko.co.jp/article/syogyo/insyoku/96/96-04.html
http://sayko.co.jp/article/syogyo/insyoku/96/96-05.html
http://sayko.co.jp/article/syogyo/insyoku/96/96-06.html

マクドナルドの調理システムの歴史
http://sayko.co.jp/food104/mac1.html
http://sayko.co.jp/food104/mac2.html

続く

王利彰(おう・としあき)

王利彰(おう・としあき)

昭和22年東京都生まれ。立教大学法学部卒業後、(株)レストラン西武(現・西洋フードシステム)を経て、日本マクドナルド入社。SV、米国駐在、機器開発、海外運営、事業開発の各統括責任者を経て独立。外食チェーン企業の指導のかたわら立教大学、女子栄養大学の非常勤講師も務めた。 有限会社 清晃(せいこう) 代表取締役

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