マックの裏側 第15回目

マクドナルド時代の体験談

 2001年7月にジャスダック上場した際の年に藤田元氏と藤田完氏が売却した株は、2000年11月に藤田商店から取得したものだ。売却代金は株式購入の際の借入金の返済に充てられたようだ。そのために故・藤田田氏は自分だけでなく、御子息たちに毎月銀行に積立預金をさせていたようだ。
https://www.kk-bestsellers.com/articles/-/10064/2
 この銀行積立預金で数億円は溜まるだろうが、株取得には足らなかっただろう。しかし銀行から見ると毎月きちんと積み立てし、堅実な生活をしていると信用され、多額の金を借りる時に有利になるのだ。

 故・藤田田氏は新規公開の創業者利益の恩恵を受けたが、ご子息達は新規公開株の課税特例を受けられず、その結果納税額は父を上回ることになった。藤田元氏売却520万株、藤田完氏売却500万株、故・藤田田氏売却400万株、2001年分所得税番付では、株式売却益で親子3人で3位から5位にランクインし、藤田元氏33億7000万円、藤田完氏32億7000万円、故・藤田田氏21億6000万円の納税となっていた。(2001年分の全国 所得税 高額納税者上位100人より 朝日新聞平成14年5月16日夕刊より。)当時の株式売却益の税率は10%と低く、それから逆算すると御子息二人の継承した資産は600億円近い膨大な額だ)。 その後の故・藤田田氏の遺産は約500億円と言われており、故・藤田田氏の金儲けの才能には目を見張る物がある。

 2002年3月の有価証券報告書時点で,米国サイドは株式を50%所有し、故・藤田田氏は
157,700株11.86%所有していた。藤田元氏と藤田完氏はそれぞれ100,000株7.52%づつを所有していたが年度末にほとんど売却したと2002年3月の有価証券報告書に記されている。(ちなみにその期の株価最高は5080円で最低は2820円と記されている)
 
 2001年(平成13年)7月に日本マクドナルドをJASDAQ上場させたが、それが故・藤田田氏の絶頂であった。

ジャスダックに上場時上場時目論見書
https://minkabu.jp/stock/2702/ipo
https://kabu.96ut.com/article/ipo/2001060/
https://www.nikkei.com/nkd/company/history/yprice/?scode=2702
https://www.nikkei.com/nkd/company/?scode=2702

 莫大な遺産相続と持ち株の処分に関しては、有価証券報告書で詳細に述べられていたが削除された。

 2001年から2002年にかけて不況が長引き、低価格戦略の源泉であった為替も$1ドル140円台となる円安になり、収益が悪化。2002年創業以来初の赤字決算となった。円高により食材コストが急上昇し、商品価格を大きく変動させ、売上利益を大きく低下させたのだ。故・藤田田氏は戦略失敗による経営責任をとらされ、2002年3月に代表取締役社長職を退き代表取締役会長職に就き、2代目社長に新卒からのたたき上げの八木康介氏が代表取締役社長に就任する。2003年3月には故・藤田田氏は体調不良により、代表取締役会長を退任する。失意の中で2004年(平成16年)4月21日心不全のため享年満78歳でなくなった。通常上場企業の創業者がなくなれば、会社主宰の社葬や偲ぶ会を開催するはずであるが、マクドナルドは開催しなかったし、遺族も望まなかった.
 2代目社長の八木康介氏は2003年に経営再建策として希望退職者募集を行い、ベテラン
160名ほどを早期退職させた。その経営努力にかかわらず、米国と日本におけるBSEの発生という逆風に経営不振が続き、在任2年ほどの2005年3月 に 代表取締役社長を退任した。そして、米国マクドナルドが推す原田泳幸氏が代表取締役代表取締役会長兼社長兼CEOに就任した。その後、米国の指示による日本マクドナルドからの故・藤田田色の一掃を行ったのである。

 故・藤田田氏は前述の素晴らしい功績があるのに、日本マクドナルドのHPにも名前は一か所しか出てこない。これは米国マクドナルド側が、故藤田田氏を評価していないのではないだろうかと思われる。故・藤田田氏の罪と言うより、問題点、欠点といった方が適切かもしれない。2013年8月27日 原田泳幸氏が取締役会長に就任し、後任にカナダ・マクドナルド出身のサラ・カサノバ氏が代表取締役社長兼CEOに就任。2015年3月25日 原田泳幸氏が取締役会長を退任。

 米国が評価をしていないのは日本マクドナルドの主要株主を見ると明白だろう。
平成22年12月期の決算短信を見てみよう。
http://www.mcd-holdings.co.jp/pdf/2010/2010_result_j.pdf

 主要株主は 米国本社とカナダ・マクドナルド社になっている。カナダ・マクドナルドは米国マクドナルドの最初の海外出店であり、2番目が日本だ。カナダ・マクドナルドはカナダ人のジョージ・コーハン氏George Alan Cohonが米国マクドナルドと合弁で設立した。
https://www.foodserviceandhospitality.com/george-cohon-shares-story-behind-mcdonalds-canada-kmls-icons-innovators-breakfast/
https://www.palmbeachdailynews.com/article/20120401/NEWS/304016832

 開業時期が日本と近いので故・藤田田氏と同期のような仲だった。故・藤田田氏は何時もカナダと競争し、店舗数で追い抜いたのでジョージ・コーハン氏に勝ったと思っていた。それが、カナダが日本の25%の株を所有し、カナダ人女性のサラ・カサノバ氏(カナダでは部長クラスの経験)が日本のCEOだ。故・藤田田氏が生きていたら激怒するほどの侮辱だ。米国マクドナルド社が故・藤田田氏評価をしていないことが明白だろう。

 米国マクドナルドが故・藤田田氏を嫌ったのは、日本の上場と、藤田家の管理する企業との不透明な金の流れのようだ。

 2003年有価証券報告書で 
 藤田商店との役務契約解除(売上の0.5%)で約63億円支払い。 藤田商店と藤田元氏,藤田悦子氏(故・藤田田氏夫人)との賃借関係解消などを開始したと述べられている
配送業者のフジエコーは輸入品価格の2.5%を株式会社デン・フジタに支払う等明記。

 その前後の有価証券報告書 等で 藤田商店や、デン・フジタ、藤田興産などの複雑な利害関係が明らかになる。

 故・藤田田氏の死後、ファミリーが所有していた膨大な株処理が課題となり、2005年7月に香港のファンド・ロングリーチに推定総額750億円で売却した(藤田ファミリーは2005年6月末で日本マクドナルドの27%近い株式を所有していたようだ)。
http://www.longreachgroup.com/jp/investments.php?cid=7
http://www.longreachgroup.com/releases_pdf/jp/July_27_2005%20McDonals%20Japan%20Investment%20Announcement%20(J).pdf#search=’%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81+%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%AE%B6+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E6%A0%AA’
http://www.longreachgroup.com/jp/newsarticles.php#acticle8
http://blog.livedoor.jp/zgmf_x56s/archives/29100080.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kamakura_m_and_a/7681758.html

 そして2017年で藤田家関係の企業と日本マクドナルドの金銭的な関係が完全に消え去った。日本マクドナルドと藤田商店や、デン・フジタ、藤田興産など藤田家サイド企業との複雑な利害関係は大分整理されてきたが最後まで残っていたのが、日本マクドナルドが店舗や、事務所、社員の社宅を藤田家関連の企業や個人から借りていたことだった。その藤田家サイドが所有していたり賃貸していた不動産をすべて第三者に売却させたのだった。これにより日本マクドナルドと藤田家側との一切の取引は終わった。その詳細は有価証券報告書に詳細に述べられ、HPに掲載されていたが、2017年末にそれらのコメントが消去された。

 以上のように故・藤田田氏はマクドナルドの社内に名前が残っていないが、金儲けの天才であった。そのビジネス面で一番印象に残っている出来事。具体的なエピソード、伝説的な話を紹介しよう。

ドラスティックな光景はなかった。

A)故・藤田田氏の考え方や金儲けを知るには、カッパブックスやワニの本で出ている故・藤田田氏の「勝てば官軍」や「ユダヤ商法」等の著書を見てほしい。
https://www.amazon.co.jp/Den-Fujita%E3%81%AE%E5%95%86%E6%B3%95%E3%80%881%E3%80%89%E9%A0%AD%E3%81%AE%E6%82%AA%E3%81%84%E5%A5%B4%E3%81%AF%E6%90%8D%E3%82%92%E3%81%99%E3%82%8B-%E3%83%AF%E3%83%8B%E3%81%AE%E6%96%B0%E6%9B%B8-%E8%97%A4%E7%94%B0-%E7%94%B0/dp/4584110018
https://www.amazon.co.jp/%E5%B8%B8%E5%8B%9D%E7%B5%8C%E5%96%B6%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E-%E8%97%A4%E7%94%B0%E7%94%B0%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E2%80%95%E6%9C%80%E5%96%84%E3%81%AF%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%8B%E3%82%89%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B-%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4789713628
https://www.amazon.co.jp/%E5%B8%B8%E5%8B%9D%E7%B5%8C%E5%96%B6%E3%81%AE%E3%82%AB%E3%83%AA%E3%82%B9%E3%83%9E-%E8%97%A4%E7%94%B0%E7%94%B0%E8%AA%9E%E9%8C%B2%E2%80%95%E6%9C%80%E5%96%84%E3%81%AF%E6%9C%80%E6%82%AA%E3%81%8B%E3%82%89%E7%94%9F%E3%81%BE%E3%82%8C%E3%82%8B-%E3%82%BD%E3%83%8B%E3%83%BC%E3%83%9E%E3%82%AC%E3%82%B8%E3%83%B3%E3%82%BA%E3%83%93%E3%82%B8%E3%83%8D%E3%82%B9%E3%83%96%E3%83%83%E3%82%AF/dp/4789713628
https://shopping.yahoo.co.jp/search/%E3%83%A6%E3%83%80%E3%83%A4%E3%81%AE%E5%95%86%E6%B3%95/0/?__ysp=6Jek55Sw55SwIOOCq%2BODg%2BODkeODluODg%2BOCr%2BOCuQ%3D%3D

 これらの本を読むと、故・藤田田氏は勇猛果敢なビジネスマンに見える。しかし、思われているほど藤田さんは突拍子もないことを言わなかったし、慎重な人だった。

1)半額セール
 経験とか勘の思いつきを嫌う人で、データーに基づいて冷静に判断していた。実は「半額販売」の前に390円セット(通称サンキューセット)を行い、ロッテリアが対抗上より低価格を打ち出し、泥沼状態になり退却したことがある。

 その後、米国マクドナルドが低価格の精密なシュミレーションを行い、どのくらいの価格が一番効果的かという方程式を作った。藤田さんは数ヶ月かけその方程式を専門部署に精密に精査させ、可能性があるので継続的な低価格戦略をスタートさせた。

2)GRP 総視聴率
 故・藤田田氏はデーターを重視していが、単なる学説や理論を嫌っていた。意見を求めて,社員が「学説では・・です。一般的に・・です。」というと、「自分で確かめたのか?人の説を信じるな」と怒った。
 故・藤田田氏は,店舗運営に関しては米国本社顧問の日系2世の故・ジョン朝原氏に一任し一切口を挟まなかったが、それ以外の分野は細かく把握していた。故・藤田田氏が重視して必ず会議に出たのは、定例会議(部長職以上の経営方針検討会)、広告宣伝会議(基本的に部長職だが、議題に関係ある社員も出席)、購買会議(食材から建築まで)、店舗開発会議、の4つだった。
 ある広告宣伝会議で,一つの商品訴求におけるGRP総視聴率が話題になった。マーケティングの世界では新商品発売や,キャンペーンの期間は4週間。その際に投入するテレビコマーシャルの量は4000GRPといわれています。広告宣伝会社の担当者がそれを言うと納得せず,もっと総視聴率を増やさせた。その後。結果を検証させ対費用効率が低下したのがわかるとそれ以降、その担当者の意見に反対することがなくなった。
https://www.sayko.co.jp/food104/post-3864/
https://www.sayko.co.jp/food104/post-3883/

B)勝てば官軍 負ける喧嘩はしない

 故・藤田田氏の有名な語録に「勝てば官軍」という言葉がある。これは勝たなければしょうがないという特攻隊的な意味でなく、負ける戦はしないという故・藤田田氏流の考え方で、勝てると自信がない戦いはしないという慎重な考え方だ。

その実例が

1)バブル時代だ。
 外食産業大手のすかいらーくやモスバーガーの創業者達は、バブル時代に株、土地、ゴルフ場、等の無謀な投資をして,バブル後苦労した。故・藤田田氏は趣味でよく研究している株以外は一切手を出さなかった。その結果バブル崩壊は故・藤田田氏個人は勿論、会社にも傷を与えなかった。株も、確実に勝てるという自信があるときだけしか積極的に買わなかった。確実に勝てる株の仕手戦は好きだったが、入念に準備して必ず勝てるようにしていた。

2)勝てば官軍で,負けるけんかはしなかった実例
 世界最強最大の軍隊、アメリカ海軍提督からのクレーム処理

 1980代のプラザ合意のお陰で、為替が円高にふれ、一気に1ドルが240円から120円前後になってしまった。それが幸いして、会社の食材原価は低下したのだが、あるとき思いがけない強烈なクレームが舞い込んできた。
 アメリカマクドナルド本社はアメリカ海軍と世界契約を結び、世界各地に点在する海軍基地内に出店する権利を獲得していた。そして、本州最大のアメリカ海軍基地(横須賀)への出店は日本マクドナルドが担当することになり、当時中央地区運営部長になっていた私が担当することになった。
 メニューはアメリカとほとんど同じであった。当時の日本マクドナルドは日本でほとんどの資材を調達しており、アメリカと同じメニューであっても、日本の価格をベースに円を中心として、円とドルの両方の価格を表示していた。
 それがプラザ合意で円建てのドル換算が倍に高騰し、ハンバーガーの値段が倍になったわけで、海軍の人たちは怒り、クレームが山のように司令部に来た。これは軍人の志気にかかわると、地区運営部長だった私のもとに値下げ要求が来ましたが、一企業の関知する問題ではないと突っぱねていた。しかし、あまりに問題が多いと、ある日アドミラル(海軍提督)が故・藤田田社長と会いたいと連絡をしてきた。

 当日指定された東京の山王ホテル(アメリカ軍人御用達のホテル)に行く途中、過去の経過と、妥協しない旨を故・藤田田社長に説明して、これは日米開戦ですから妥協しないで戦争してくださいとお願いし、故・藤田田社長は「よっしゃ、わかった」と納得してくれた。
 薄暗い会議室には勲章をぶら下げた軍服を着た将校達が十数名、厳しい目を向けて待っていた。その中の一人だけ中年の男性がネクタイ姿でいた。
 着席後、自己紹介をしたら、ネクタイ姿の人が海軍提督だった。ただし、実戦部隊ではなく軍隊組織運営に必要不可欠な食料などの物資物流最高責任者だった。彼はMBAを持つビジネスマンだった。アメリカ海軍は食材などの資材をアメリカから世界中の国に配送するが、それらの艦船の動きは軍事偵察衛星で刻々と把握している。その物流の親玉が彼なのだった。
 儀礼的に自己紹介と雑談をしてから、海軍提督がハンバーガーの値段について切り出した。日米ハンバーガー戦争の開戦だと身構えた私の耳に、思いがけない言葉が飛び込んだ
 「わかった、海軍の言う価格にハンバーガーを値下げする。私どものアメリカ本社はアメリカ海軍にたいへんお世話になっている。その御礼として希望のハンバーガーの値段にするので、今後ともよろしくお願いする」
と故・藤田田社長は言い放ち、相手があっけに取られているうちに「そな、さいなら」と席を立って帰ってしまった。
 残されたアメリカ海軍将校は唖然として言葉を失った。その後に残された私は、アメリカ海軍の将校達から集中砲火を浴びて撃沈してしまったのは言うまでもない。
 
 このとき故・藤田田氏は来た人数と真剣な態度を見て、相手の本気度を察知し、アメリカ政府と喧嘩しても勝ち目がないし、こっちが断れば、米国マクドナルド本社に交渉され、米国マクドナルドから命令されるだろうと瞬時に判断したのだろう。普通なら値切るのだが、相手の言い値を飲むという、相手に反論されない手法はすごいと思わされた。またこの件で、米国政府とのパイプを築けたのだろう。後にトイザらスを作ったときに、当時の大統領ジョージ・ブッシュ(父)を1992年の奈良橿原店開店セレモニーに呼んだ。
https://americancenterjapan.com/aboutusa/usj/1236/
https://americancenterjapan.com/wp/wp-content/uploads/2015/09/wwwf-usj-potusvisit-bush4.pdf

3)勝てば官軍で,負ける前に逃げる実例その2
 当時は,輸入牛肉の価格は関税が高く.ハンバーガーの価格は高止まりだった。その頃、大阪の故・中内功氏率いるダイエーが、スーパーで売る牛肉を安くするため。子牛を海外から輸入し,温暖な沖縄で育てる方式を実施した。藤田さんも,その方式を取り入れようと新聞発表をしたら、翌日から怖い食肉関係者に自宅を囲まれ、翌日からその話を一切しないようになった。その後、家を住み替え、自宅住所は一切公表せず、退職警察官を身辺警護で採用した。

 その他のエピソード

C)言葉のエピソード 日本語と英語
 故・藤田田氏は,趣味は「金儲けと日本語の研究」と何時も言っており,日本語の言葉遣いにはうるさかった。会社スタート時の社員が少ないときには、社員が藤田さんに提出する報告書などで誤字があると、辞書を送るユーモアのある人であった。故・藤田田氏は日本語だけでなく英語もできた。でも、帰国子女のように流ちょうな発音でなく、いかにも日本人とわかる発音であった。でも、英語の語彙はすごかった。

 私が米国西海岸に駐在していた際に,藤田さんと駐在員用のコンドミニアムを購入したことがある。
1) 米国人の不動産屋と交渉した時。
 不動産屋は発音の悪い故・藤田田氏を最初は馬鹿にしていたのだが、故・藤田田氏の発した一言の不動産専門用語で飛び上がった。米国西海岸には不動産取引で「エスクロー escrow」という制度があり、不動産取引の際に、信頼の置ける第三者を仲介させて、取引の目的を担保することが出来る。その専門用語を,日本人が言ったので驚き、その後故・藤田田氏ベースで話が進み、相手の言い値の半値で購入したことがあった。故・藤田田氏の言葉は日本語も英語も語彙が豊富で感心した思い出だ。

2)三省堂事件
 広告宣伝会議で、お茶の水地域の3店目の新店舗の販売戦略を検討したとき、広告宣伝会社の担当者が,近所の本屋三省堂本店を「サンセイドウ」ではなく「サンショウドウ」と言ったときには「君は、学生時代英語を全く勉強しなかったのか?辞書を見たことがないのか?」と激怒したことがある。

D)物作りが好き
 故・藤田田氏の個人会社の藤田商店は、婦人物のファッション関連製品を,欧米から輸入し、大手百貨店に卸す仕事で有名であった。しかし当初は日本の電気製品等(トランジスターラジオ)を輸出していた。日本製品の物作りがまだ未熟で信頼性がない時代で、よく壊れて困った。日本に送り返すと費用が高いし、時間がかかる。そこで修理の日本人エンジニアを雇い、欧米に駐在させるという苦労をした。
 その経験からか、物造りが好きで、米国製POS(電子レジスター)が開発されたが信頼性が低いときに、パナソニックと提携しPOSを開発し,米国マクドナルドに採用させたことがある。パナソニックは,まだ松下幸之助さんが健在の頃で、一度撤退したコンピューターが悔しかったのか,幸之助さん直々の指導で開発をしており、息子さん(庶子で偶然私の中高大学の一級上の先輩で,東京の赤坂国会議事堂下の自宅にはよく遊びに行っていた)を担当者にし、マクドナルド本社のある米国シカゴに住まわせた。

 故・藤田田氏は結構、機械やコンピューターが好きで、調理機器も日本で開発させて米国より性能が良いと自慢したり、出店時の正確な売上予測のソフトを開発させていた。
 3代目の原田さんと決定的に違うのは、米国マック創業者の故・レイ・クロック氏に直接指導を受けたことがあるかどうかだ。故・レイ・クロック氏は、独立した起業家精神を持つ個性的な商売人が好きであった。米国流を押しつけることはなく、それぞれの国で苦労して学ぶことを奨励していた。故・藤田田氏が社長時代には,常勤の米国側取締役を置いていなかった。その代わり、日本が困ったときや学びたいときには最大限の援助をした。
続く

王利彰(おう・としあき)

王利彰(おう・としあき)

昭和22年東京都生まれ。立教大学法学部卒業後、(株)レストラン西武(現・西洋フードシステム)を経て、日本マクドナルド入社。SV、米国駐在、機器開発、海外運営、事業開発の各統括責任者を経て独立。外食チェーン企業の指導のかたわら立教大学、女子栄養大学の非常勤講師も務めた。 有限会社 清晃(せいこう) 代表取締役

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