故・藤田田氏は外食畑の経験がなかったが,米国と輸出入の仕事でユダヤ人との取引があり(欧米の輸出入に従事している人の多くがユダヤ系の人である。ユダヤ人は迫害され故郷を失った経験から、身につける仕事はどこの国に行っても使える技術やビジネスであった。そのため、科学技術者、弁護士、会計士、医者、等の専門職を身につけた。ビジネスでは換金性の高い、宝飾品、石油業、牛肉などの食肉業、輸出入業が多い。)、その関係で米国マクドナルド創業者の故レイ・クロック氏と知り合い、故・藤田田氏が故レイ・クロック氏に気に入られ、日本マクドナルドを合弁で創業したのだ。
http://news.infoseek.co.jp/article/keizaikai_pid_15775
故・藤田田氏のマクドナルド成功の功績は2人の人による。1人はマクドナルドを故・藤田田氏に繋いだマイコラスというユダヤ人。もう一人が1号店を開店させた銀座三越店長の故・岡田茂氏だ
合弁の話をつないだのが、当時故・藤田田氏の個人会社藤田商店のシカゴ支店長であった、マイコラスという人だ。マイコラスはユダヤ人で、故・藤田田氏が米軍の日本駐留軍で働いていた時に知り合ったユダヤ人の一人で、貿易商をしていた。そのマイコラスが、故・藤田田氏に貿易を教え、帰国して個人で輸出入を営んでいた。
マイコラス 情報 千里山 によると
http://senriyama-kai.la.coocan.jp/kaishi/08k/w20.htm
マクドナルド日本上陸「三分一 克美 (14回生)」
『昭和十二年頃の我が家は、玄関前の道をへだてて向かいが千里山と言う、境目の竹園町でした。千里第二小に通う往路は新田から噴水にダラダラと下がる大きな道。復路は噴水から郵便局の横を通り左折するのが近道。坂を上った左手が同級生の藤田翠君の家でランドセル背負いながら、午後は何して遊ぼうかと話しつつ、何時しか遊びの天才、翠君の家に上がり込むこともしばしばでした。
彼の兄さんが、憧れの北野中学生の田さんでした。翠君は、終戦直後に全国に蔓延した発疹チフスに感染し夭折しました。
時は流れて、昭和四五年十月の千里第二小の発起人会で田さんに再会、当時はマクドナルド日本進出を巡り、私が勤めていたニチメンがダイエーと組み、田さんが担ぐ三越との間で熾烈な導入争いの最中でしたが、いずれもロイヤリティの面で折り合いがつかず、最終的には田さんが単独でマクドナルドと組むことになりました。
その際、田さんとマクドナルドの間を橋渡ししたのが、シカゴ在住で、マクドナルド幹部と私的に親しいビジネスマンのマイコラスでした。そのマイコラスはニチメンシカゴの取引先でしたが、当時は倒産して毎月借財を細々と返済中で、私がシカゴ勤務中は彼から取り立てる担当でした。
ある日、田さんから電話あり、
「マイコラスから聞いたけど、ニチメンになんぼ借金あんねん? 俺が全部肩代わり返済するから教えてくれ!」とのこと。
調べると7,000ドル強だったので、その旨返事すると、「今すぐ秘書に現金持たせて全額払うぞ。これでマイコラスはニチメンから全くフリーだぜ!」と電話あり、ドル札の現金が銀座の田さんの事務所からドサッと届けられました。その頃は外国通貨の扱いが厳しい時代で、こわごわ出張者にシカゴまで現金を持たせた思い出があります。その後も何度か田さんと会食の機会がありましたが、〝1個100円のハンバーガーで売上1,000億円目指す〟と当時の常識では想像も出来ない怪気炎をあげていたのが印象的でした。
昭和50年から55年の間、私は再度の米国勤務でNYに行き日本を留守にしましたが、帰国するとマクドナルドは田さんの夢の通り本当に売上1,000億に手の届くほどの快進撃中で、改めて先見の明に驚きました。その時既に田さんは経済界やマスコミの寵児で超多忙、会う機会がありませんでしたが、再会したのは、あらためてスタートした千里山会の席上でした。それから会うと都度「マイコラスは元気だぞ!」とか消息を伝えてくれました。田さんはマイコラスが亡くなるまで創業の功労者を役員として大切に遇しました。
また昔話が出ると「お前のお父さんが出征した時は、お稲荷さんに行って、駅まで見送ったぞ。お稲荷さんではスルメと御神酒が出たよなー」と懐かしそうでした。あの独特の笑顔や、藤田節が聞けなくなったのは本当に淋しい思いがします。
心からご冥福をお祈りします。
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当時、数多くの日本企業が米国マクドナルドに提携交渉を行い、ある企業が契約寸前であった。それはダイエー創業者の故・中内功(「功」ではなく「工+刀」)氏が率いるダイエーで、故・中内功氏は日本人として初めて、米国マクドナルドのハンバーガー大学で研修を受けていたのだった。この件はダイエー系の外食事業部で良く語っていたそうだ。故・中内功氏は米国マクドナルドとの契約を故・藤田田氏にとられたことを悔しがり、独自でドムドムというハンバーガーチェーンを作りダイエー町田店にマクドナルド日本進出より早く開店した。さらに、急成長していた米国ウエンディーズ社と提携し店舗展開した。
故レイ・クロック氏が何故大資本のダイエーとの契約を取らず、小さな企業の故・藤田田氏と提携したのかは、両者とも具体的に語ってはいない。私の伝聞した内容と推測であるが、両者に共通していたのは、故郷を失っていると言うことだ。
故レイ・クロック氏の両親は中欧出身の米国移民であり、故・レイ・クロック氏は自伝で遊興詩人の血が流れているとしている。そして、若い頃はピアニストとして全米を歩く苦労をした。米国マクドナルドの旧本社ビル(別棟のハンバーガー大学玄関ロビー)には故レイ・クロック氏の昔のオフィスを再現して展示している。当時マクドナルドが本社を構えていた、シカゴ郊外のオークブルックは古い商業都市で保守的な街である。企業のオフィスは,管理職になると個室が与えられる。しかし、米国マクドナルドの本社には、CEOであっても個室はない。現在の西海岸のシリコンバレーのIT企業のように,パーティションで区切られてだけで、誰でも話しに行けるように50年ほど前からなっていた。
故レイ・クロック氏は自由な雰囲気で明るいカリフォルニアを愛し、晩年はサンディエゴに住み、球団サンディエゴ・パドレスのオーナーをしていたくらいだ。シカゴ出身のアメリカ人とは思えない自由人だ。
定かではないが、故・藤田田氏は、朝鮮半島系の在日ではないかという方もいる。50年程前、創業後2年目に入社した筆者にとって、朝鮮半島系在日と台湾系在日の社員が多いのが印象的だった。ある店舗建設部の朝鮮半島系社員は、好き勝手な発言をしていたが、上司も怒らない。本人に理由を聞くとにやりと笑い、「俺の親父と藤田さんは特別の関係なのだ」と言っていた。また、筆者の部下にいた朝鮮半島系在日の社員が重大な規律違反をしたので、筆者の上司に解雇するべきだと進言したら「社長に怒られる」と受理してくれず、故・藤田田氏の管轄する部署に異動させた事があった。ロッテ製菓創業者の重光武雄氏(辛格浩)は、永住権を持つ韓国籍であり、国産ハンバーガーチェーンのロッテリアを経営する。直接のライバルであるが、故・藤田田氏は仲が良かったようだ。
故・藤田田氏及び藤田商店経営のご子息にかわいがられていた購買本部のある優秀な社員が、ロッテリアに転職しようとしたところ、何故かそれが直ぐに故・藤田田氏の知るところとなり,故・藤田田氏が激怒し、転職話が壊れたことがあるくらいだ。
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%AD%E3%83%83%E3%83%86
あるジャーナリストの方が取材の際に写真を撮ろうとしたら、故藤田田氏は、韓国・百済か任那の書体をバックにポーズをとり、「先祖が向こうだ」と言ったそうだ。また、故藤田田氏は東大法学部卒業でありながら、官庁や大企業に就職せず、個人企業を設立した。現在は差別が少ないが、終戦直後は差別や国籍問題で官庁や大企業には就職は難しかったのかもしれない。故・藤田田氏は御母堂のお話を良くしていたが、亡くなった父親はエンジニアであったとしか言っていなかった。それらを総合すると、故・藤田田氏は、朝鮮半島系在日か比較的に近い祖先が半島出身であったと思う方が自然だろう。筆者も台湾系の在日であり、大学を出ても就職が難しく、学歴不要の外食産業に入ったという経験を持ち、出自を問わず採用し、昇進も差別しなかった故・藤田田氏に大変感謝している。故・藤田田氏が自伝を残さず若くして亡くなったのが残念だ。
朝鮮半島系在日か祖先が半島出身であるとすれば、故・藤田氏が故郷を失っている中途半端な気持ちを持ち、日本人を冷静に観察していた理由がわかる。故レイ・クロック氏は自分と同じ故郷を失っている気持ちを察し、共感を覚えたのではないだろうか?
故・藤田田氏の出自に関しては、私の憶測に過ぎず、事実を確認していない事をご承知置きいただきたい。私も台湾系の在日でありそれのデメリットよりメリットの方が多かったので、故・藤田田氏の出自を憶測したのである。
故藤田田氏の最大の功績はまず徹底した日本化とその東南アジアへの影響だろう。私が日本マクドナルドに入社したのは1号店の銀座が開店してから2年目。当時の本社は故・藤田田氏の個人企業の藤田商店の新橋の本社の片隅だった。私は故・藤田田氏は米国マクドナルドと提携するし、欧米との輸出入業もやっているので、欧米かぶれのモダンな人を連想していた。また、当時故・藤田田氏の執筆したユダヤ人ビジネス本を読んでいたので合理的で欧米かぶれの方だと思っていた。入社時に故・藤田田氏のオフィスに入った私は度肝を抜かれた。部屋には日章旗と特攻隊の零戦の大きな写真が貼ってあり、まるで右翼の事務所だった。故・藤田田氏は若い頃自動車事故でけがをしたということで、顔に傷跡が残っており、やはり腹心の側近故・高橋氏も顔に傷がある。しかも故・藤田田氏は恰幅がよく、上から下まで一分の隙もないダブルの濃い色のスーツを着用しているのに、くだけた大阪弁で丁寧に話す。筆者はガラの悪い池袋育ちで、やくざの大親分を見てきた経験があった。故・藤田田氏の雰囲気はそのやくざの親分にそっくりだった。私はとんでもない会社に入ったと後悔し始めた。
しかし事実は違っていた。故・藤田田氏は学生時代の学友が、何人も特攻隊で亡くなったので、その思いを忘れないように写真などを飾っているのだと語っていた。故・藤田田氏は欧米との関係は取引や金儲けであり、魂は日本人だとしていた。
この複雑な故・藤田田氏の思いは、日本マクドナルドの方針に色濃く表れていた。当初は米国色が濃かったのだが、店舗に星条旗などの米国を連想させる装飾や、販促物は厳禁だったのだ。故・藤田田氏は自分の経験からか「日本人は米国の文化にあこがれを持ってはいるが、戦争のつらい思い出は忘れておらず、本質は反米だ」としていたのだった。また、故・藤田田氏は言葉を大変大事にしており、趣味は日本語の研究というくらいであった。それが店名をMcDonald’s(マクダーナルズ)と発音させずマクドナルドとして殆どの店舗看板をカタカナのマクドナルド表記にした。キャラクターのRonald MacDonald を、日本人にはRは発音できないからドナルド・マクドナルドとした。この徹底した日本化は大成功し、子供たちはマクドナルドを日本の企業だと思うようになった。
マクドナルドへの批判的な本は多いが、「マクドナルドはグローバルか」東アジアのファスト・フード。ジェームズ・ワトソン(編)前川啓治・竹内恵行・岡部曜子「訳」という本はマクドナルドの東南アジア(中国・北京、香港、台湾・台北、韓国・ソウル、日本)における店舗展開を人類学的な見方でリサーチし、その大きな戦略は「徹底した現地化であり、現地の人はその国のマクドナルドが自国の企業であると認識している」と述べている。
故・藤田田氏のもう一つの大きい功績が店舗の立地であった。日本マクドナルドは故藤田田氏(藤田商店含む)と米国マクドナルドコーポレーションの50%ずつ出資と言われているが、実は当初は日本側は第一屋製パン(創業者の故細貝社長が当時経営トップ)と故藤田田氏が25%づつ出資であった。故藤田田氏は、藤田商店で電化製品の輸出や、ディオールなどのブランド品の輸入販売をしていたが、食品に関して素人であったためだ。
ハンバーガーの店舗展開には、日持ちのしないバンズ、乳製品、冷凍品、缶詰類などの3温度帯の配送網が必要であった。大量のバンズ(ハンバーガー用の丸いパン)の製造は大きな工場を持つパン製造業でなくてはいけないが、中小企業保護のためにパン製造業の工場を新規に建設できないと言う規制があった。製パン企業は、日持ちのしないパンを、小売店に直送するトラックと運転手を自社で持っていた。また、惣菜パンなどを製造するため、惣菜などの食品加工技術を持っていた。そのため、パン工場を東京と大阪に持っている第一屋製パンも入れたわけだ。
もう一つ第一屋製パンに頼ったのが人材だ。店舗の建設分野の人材と、店舗開発の人材を供給してもらうことになった。そこで、店舗建設部の部長として、故・西沢氏、店舗開発部長として故・大野氏を迎えた。
日本マクドナルドに1号店というと銀座と思われている。しかし実は、幻の1号店がある。 米国マクドナルド社は郊外型が基本であった。海外はまずカナダ、次が日本だった。米国は東京郊外を主張し、神奈川県茅ヶ崎市の海岸沿いに米国デザインのドライブインのお店を開業しようとした。
合弁会社の日本サイドの第一製パン出身の故・大野氏が店舗開発担当であった。しかし故・大野氏はレストラン店舗開発に慣れていないため、地区の出店規制を知らなかったようだ。この江ノ島を中心とする湘南海岸沿いは景観と砂浜保護が厳しく、営業してはいけない地域があった。それを知らずに建築を進め、建物は完成したのだが営業許可が下りず、困ってしまった。そこで故・藤田田氏が取引先で懇意にしている銀座三越の一等地に開店した。それが日本マクドナルド社の大躍進につながったのだ。
1号店として三越にこだわったのも、交差点角という絶好の立地条件から。「ここしかない」と、藤田は三越まで直談判に行くが、当時藤田と掛け合った銀座店店長で後に社長となる岡田茂から、「三越の営業の邪魔にならぬよう、火曜日朝に開店できるなら出店してもらっても構わない」と無理難題を突き付けられる。当時、銀座三越は月曜日が定休日で、これは『日曜日の閉店時刻(18時)から火曜日の開店時刻(10時)までに、水周りを含め全ての作業を終わらせた上で開店させることができるなら出店を許可する』といった意味であった。
作業できる時間は実質40時間しかなかったが、どうしても銀座三越にこだわった藤田は、都内のとある空き地で銀座三越の出店予定スペースを再現させ、作業員に何度もシミュレーションさせた。最初は60時間近くかかったが、練度が上昇すると、仕舞いには39時間足らずで作業を終わらせることに成功した。
1号店として開店した店舗は、面積129m2と非常に小さな持ち帰り専門店で客席がなかった(後に移転)。当時の物価ではハンバーガー1個の価格がやや高額ではあったが、藤田の狙い通り、この店は大変な評判になり、日本各地に続々と店舗が作られるようになった。なお、1号店は新宿の本社内に資料として再現されている。当時のメニューは、チーズバーガー、ビッグマック、フィレオフィッシュ、マックフライなどがあった。当時銀座店店長の岡田茂と昵懇であったが、それでも通常高級化粧品店舗やファッショナブルなショーケースにする一等地を当時水商売と言われていた飲食店に貸すのは考えられない。それを実現したのは、故・藤田田氏の三越と岡田茂氏への大きな貸しであった。
実は岡田茂氏が三越の広告宣伝部長時代に、三越が、吉祥寺に出店をしようと地権者と話し合い合意に達していたが、いろいろな社内事情でで、出店を取りやめることになった。岡田茂氏が地権者に断りを入れたが、その地権者の中に強面の暴力団がいて、話がもめにもめた。困った故・岡田茂氏が故・藤田田氏に泣きついたのだ。故・藤田田氏はその難題を見事に解決していたのだ。
故・藤田田氏の個人会社の藤田商店が本社を構えていた新橋のビルの藤田商店が構える事務所の上下が暴力団の事務所であった。また、下北沢店の開業時には地元の暴力団から出店妨害されたことがある。担当者が、故・藤田田氏に相談すると、見事に妨害が収まった。故・藤田田氏は暴力団とのなにがしらの接点があったようだ。でも、お金を大事にする故・藤田田氏は暴力団とももめごとにお金を使うことはなかったようだ。
故・藤田田氏は1980年代のバブル崩壊前には稼いだお金を、株の仕手戦に運用していたようで、四国にあった猟銃メーカーで米国のブローニング社に銃をOEM生産していた、ミロク製作所への仕手戦に参加していると報じられたことがある。しかし報道後、株仕手戦から手をきっぱり引き、その後、バブル期の多くの経営者が参入した、株、不動産、ゴルフ場、海外投資を一切行わず、それがバブル崩壊の影響を受けなかった理由だ。その代わり、仕手戦でお金が必要な人への金貸しをしていたようだ。仕手戦に加わる人には経済やくざが多く買った。故・藤田田氏のそのかかわりを示すのが、2015年末に閉店した元大阪本部が上階に事務所を構えた、緑地公園店の閉鎖だ。
http://suita.goguynet.jp/2015/11/28/macheiten/
http://blogos.com/article/143164/
http://news.livedoor.com/topics/detail/10798559/
この店は私が関西の運営部長時代にグランドオープンし、その後、藤田商店が土地を手に入れ改築した物だ。最初の緑地公園店の地主は、日本土地(株)、社長は通名 木本一馬 (孫 圭鎬)であった。韓国系の金融業のいかにもやくざ風の方だった。その後、暴力団ともめて(借りた金の問題)で暴力団を恐れ、拳銃所持で自首し逮捕された。釈放後、
1991年秋に夫婦で拳銃自殺した。
当時藤田さんは木本に金を貸していたようで、担保に取っていた土地の所有権を藤田商店系の会社に移転し、ビルを建て、大阪本部と店舗、マックスポーツを入れるという、藤田さんにとって因縁のあるお店だ。近所の千里山には実家があり、お母様が住まわれていた。
物件名 マクドナルド緑地公園ビル
所在地 大阪府吹田市江坂町5丁目14-10
構造 (規模) — (地上: 6階建)
築年月 —- / —
坪数 150.00 坪 (495.85m2)
募集階 地上 4 階
沿線・最寄駅 「緑地公園」 駅 徒歩3分
┗ 北大阪急行線
https://b-zukan.jp/floor/osaka/66320/
マックスポーツ
http://ryokuchi.macsports.jp/access-map.html
マクドナルド大阪オフィス
https://job.rikunabi.com/2015/company/seminar/r919500089/C002/
さて、幻の1号店は30年ほど建物が放置されていた。
http://www.nikkei.com/article/DGXNASFK1303L_U1A710C1000000/
http://www.nikkeibookvideo.com/item-detail/26208/
商品の歴史
http://news.mynavi.jp/articles/2010/02/16/macchronicle/
ちなみにマクドナルド社が日本進出する数年前に、茅ヶ崎に当時米国マクドナルド社より大きなチェーンだった、バーガーシェフ社が不二家と提携し派手に開店したが、日本の車社会は米国ほど成熟していなくすぐに閉店した。マクドナルド社も茅ヶ崎に開店していたら、今はなかったかもしれない。
http://careerconnection.jp/biz/studycom/content_756.html
http://spysee.jp/%E3%83%90%E3%83%BC%E3%82%AC%E3%83%BC%E3%82%AD%E3%83%B3%E3%82%B0/1946188/profile
同じくハンバーガーチェーン大手のバーガーキング社にレストラン西武(現・西洋フードコンパスグループ)が提携交渉していたのだが、日本の牛肉価格などの高さから、米国サイドが断り、レストラン西武はその代わり自社のハンバーガーチェーン・コルネット
を展開し、チェーンオペレーションを学ぶため米国ダンキンドーナツと提携したのだ。(西友の優秀な課長が担当し、そのノウハウは後のファミリーマートに生かされている。
http://www.seiyofood.co.jp/company/history
http://ss-foodlabo.com/knowledge/nenshi.php?nen=2
ちなみに関東で最初のハンバーガー・レストランは六本木の ザ・ハンバーガー・インだ。
http://blogs.yahoo.co.jp/julywind727/10133901.html
http://tabelog.com/tokyo/A1307/A130701/13040305/
http://r.gnavi.co.jp/j4vka8am0000/
http://roppongi.keizai.biz/headline/985/
http://e-food.jp/roppongi_blog/archives/2004/12/post_8.html
http://alao.cocolog-nifty.com/the_eye_forget/2005/12/3_71d9.html
深夜まで営業しており、夜は洋パン(現在は死語で外人専用の娼婦の意味)のたまり場のいかがわしい店だった。
六本木はピザの発祥のニコラスもあった。両店ともにいかがわしい人であふれていた。ちなみに日本でピザにタバスコをかけるようになったのはニコラスの影響だろう。米国では真っ赤な唐辛子粉末が一般的だ。
http://tabelog.com/tokyo/A1307/A130701/13015114/
http://www.nicolas-pizzahouse.com/
ニコラスの当時の雰囲気は本「東京アンダーワールド」を読むとわかる。
http://www.amazon.co.jp/%E6%9D%B1%E4%BA%AC%E3%82%A2%E3%83%B3%E3%83%80%E3%83%BC%E3%83%AF%E3%83%BC%E3%83%AB%E3%83%89-%E8%A7%92%E5%B7%9D%E6%96%87%E5%BA%AB-%E3%83%AD%E3%83%90%E3%83%BC%E3%83%88-%E3%83%9B%E3%83%AF%E3%82%A4%E3%83%86%E3%82%A3%E3%83%B3%E3%82%B0/dp/404247103X
http://e-food.jp/roppongi_blog/archives/2004/11/post_3.html
http://www.ne.jp/asahi/rover/sfx/books/0205/b020522.htm
http://www.slownet.ne.jp/sns/area/culture/reading/issatsu/200510051807-3000000
http://allabout.co.jp/gm/gc/214830/
続く