マクドナルド不振の理由と現状 第2回目 2023

マクドナルド時代の体験談

 前回は故藤田田氏の出自をお話ししました。これは 故藤田田氏の出自が日本マクドナルドの成功に大いに貢献しているからです。故藤田田氏の功績は大きいのですが、マイナス面も大きいようです。今回からは私の経験から得た知識で故藤田田氏の功罪を述べていきます。

 功績はまず徹底した日本化とその東南アジアへの影響でしょう。私が日本マクドナルドに入社したのは1号店の銀座が開店してから2年目です。本社は故藤田田氏の個人企業の藤田商店の新橋の本社の片隅でした。最初に故藤田田氏のオフィスに入ったとき度肝を抜かれました。部屋には日章旗と特攻隊の零戦の大きな写真が貼ってあり、まるで右翼の事務所でした。故藤田田氏は若い頃自動車事故でけがをしたそうで、顔に傷跡が残っており、やはり腹心の部下も顔に傷がありました。しかも故藤田田氏は恰幅がよく、上から下まで一分の隙もないダブルの濃い色のスーツを着用しているのに、くだけた大阪弁で丁寧に話しました。私は池袋育ちで、やくざの大親分を見てきた経験がありました。故藤田田氏の雰囲気はそのやくざの親分にそっくりだったのです。私はとんでもない会社に入ったと後悔し始めたのです。しかし事実は違っていました。

 故藤田田氏は東大時代の学友が、何人も特攻隊で亡くなったので、その思いを忘れないように写真などを飾っているのだと語っていました。私は故藤田田氏は米国マクドナルドと提携するし、欧米との輸出入業もやっているので、欧米かぶれのモダンな人を連想していたのです。また、当時故藤田田氏の執筆したユダヤ人ビジネス本を読んでいたので合理的で欧米かぶれの方だと思っていたのです。しかし、故藤田田氏は先回の出自からも大変複雑な方だった。欧米との関係は取引や金儲けであり、魂は日本人だとしていたのです。

この複雑な故藤田田氏の思いは、日本マクドナルドの方針に色濃く表れていました。当初は米国色が濃かったのですが、店舗に星条旗などの米国を連想させる装飾や、販促物は厳禁だったのです。故藤田田氏は自分の経験からか「日本人は米国の文化にあこがれを持ってはいるが、戦争のつらい思い出は忘れておらず、本質は反米だ」としていたのでした。また、故藤田田氏は言葉を大変大事にしており、趣味は日本語の研究というくらいでした。
 それが店名をMcDonald’s(マクダーナルズ)と発音させずマクドナルドとして殆どの店舗看板をカタカナのマクドナルド表記にした。キャラクターの
Ronald MacDonald を、日本人にはRは発音できないからドナルドとしたのです。この徹底した日本化は大成功し、子供たちはマクドナルドは日本の企業だと思うようになりました。

 マクドナルドの批判的な本は多いのですが、「マクドナルドはグローバルか」東アジアのファーストフード。ジェームズ・ワトソン(編)前川啓治・竹内恵行・岡部曜子「訳」

という本はマクドナルドの東南アジア(中国・北京、香港、台湾・台北、韓国・ソウル、日本)における店舗展開を人類学的な見方でリサーチし、その大きな戦略は徹底した現地化であり、現地の人はその国のマクドナルドが自国の企業であると認識していると論議しました。

 この現地化で成功したマクドナルドを見た競合のYum社はマクドナルドの戦略を中国の店舗展開に取り入れた。中国Yum社元副社長のWarren Liu氏は中国Yum社を退職後、「中国KFCの成功の秘密 KFC in China Secretシークレット Recipeレシピー for Successサクセス」 で中国Yum社の成功要因を10あげています。その成功要因は以下の10点です。

<1>人材 台湾を活用(マクドナルド台湾出身者を採用)
<2>戦略 長期ビジョン 当初より内陸部も開発計画
<3>提携 地元 政府との関係 危機管理
<4>商品 好みは豚・鳥・羊・牛 店内を好む
<5>サプライチェーンの構築 ローコストの構築
<6>不動産開発 中国では土地私有はできない。専門家が必要
<7>素晴らしい運営 教育とモチベーション
<8>ローカライゼーションとグローバリゼーション 商品開発の速度
<9>本社のサポート 本社ではなくサポートセンター
<10>中国文化を融合したリーダーシップ MBAの中国人の活用

 店舗出店場所は、米国のドライブイン型の(ドライブスルーはまだなかった)郊外出店でなく都心型を進め、1号店の銀座三越を開店し大成功させたのは有名な話です。事実は米国主導で1号店は湘南の茅ヶ崎に建築していたのです。当時マクドナルドより規模の大きかった、バーガーシェフが不二家と提携し1号店を茅ヶ崎に開店したことがあったからでしょう。(この店舗は失敗し、まもなく撤退した)。しかし当時のマクドナルド店舗開発担当者の知識がなく、建物を建てて営業しては行けない風致地区であり開業できなかった。そこで故藤田田氏が取引のあった三越に掛け合い、一等地の銀座三越1階に開業し大成功したのです。

 この銀座三越1号店や4号店新宿二幸店、5号店お茶の水店は大繁盛したのですが、ちょっと立地の悪い2号店代々木店、3号店大井町店、13号店(番号は不確かです)荏原中延店は失敗でした。13号店荏原中延店はあっという間に撤退に追いやられたのです。この1号店の銀座と4号店新宿二幸店の成功は当時始まった歩行者天国(日曜日には道路上に多数の折りたたみ式テーブルと派手なパラソルを置き、座って食べることができた。椅子がなくとも立ち食い文化が格好がよいと訴求した)をテレビニュースが頻繁に登場させ、爆発的なハンバーガーブームを巻き起こしたのです。

 この店名と立地の日本化と米国色をださない(正確には米国文化を漂わせるが日本企業であるとする)手法は大成功であり、日本の成功に続けと東南アジア各国に広がっていった。一番成功したのは香港で店名を麥當勞としたことでしょう。

 残りの3つ、人材育成と産業化、技術移転について説明しましょう。故・藤田田氏は米国に全面的に任せると言わせて会社を切り回していたが、外食素人の故・藤田田氏の店舗運営能力を心配してか、米国マクドナルドは店舗運営経験がある、片言の広島弁日本語を話す日系人のジョン・朝原氏(故藤田田氏と同じ年齢。リタイアしネバダ州に居住。2018年初頭没)を派遣した。米国サイドの籍で給与も経費も米国負担で、日本マクドナルドの運営顧問と言うタイトルだった。その他、人材育成に関しては、毎年派遣する米国のハンバーガー大学研修費用とマニュアル類の翻訳費用を米国サイドが負担するという、手厚いサポートでした。故・藤田田氏は店舗運営面に関しては人事を含め全面的にジョン・朝原氏に任せていました。ジョン・朝原氏も全ての会議には出席し影響力はあったのですが、店舗運営以外には口出ししませんでした。

<1>人材育成

 故・藤田田氏は実務教育をジョン・朝原氏に任せていましたが、優秀な社員を獲得しようと、高給で大卒などの優秀な中途入社組を集めたのです。当時まだ外食産業という言葉や概念はなく、飲食店は水商売とよばれ、バーやキャバレーと同じ扱いだったからです。飲食店従業員のモラルは低く、読む新聞は競馬新聞、服装はノーネクタイで下駄履きが当たり前だったのです。そこで故藤田田氏は優秀な人材を集めようと、1969年当時で普通の大卒社員の新卒給料は3万5千円くらいであったが、初任給10万円の広告を打ち評判となりました。また、飲食店経験のない人材を優先しました。悪い習慣がないからです。
 アルバイトも時給が高く格好の良いハンバーガーショップで働こうと美男美女が苦労せずに集めることが出来ました。また教育効率を上げるため、日本にハンバーガー大学を開校したのです。(最初はお茶の水、後に本社と同じビルに移転)。 飲食業における従業員のイメージを高めるため、業務中は勿論、通勤途中もネクタイジャケットの着用を義務づけました。(これは米国も同じで創業者の故レイ・クロック氏がうるさかったのです)

 また、優秀な人材を確保し維持するため高給を維持し日本一の給料を実現しました。月額の給与と年2回のボーナスに加え、決算ボーナスを支給したのです。故・藤田田氏は社員が働けるのは奥さんが貢献しているからであるとして、決算ボーナスを奥さんの口座に振り込むという粋な計らいをしました。また奥さんの誕生日には花を贈り、社員集会のコンベンションは夫婦同伴としたのです。

 社員教育面では英語も必要であると1970年代後半に米国マクドナルド社の店舗をフランチャイジーとして購入し(最初はシリコンバレー、カナダトロント、後にシカゴに変更)、毎年3名ほどの社員を駐在させ実務的な英語を学ばせました。派遣する社員は妻帯者に限定し、夫婦同伴赴任を義務づけたのです。
 故・藤田田氏は高級ファッションの輸入業の前には日本製電化製品の輸出もしていました。電化製品は修理も必要ですが、日本に送り返すと時間と運賃がかかり利益が出ません。そこでエンジニアを採用し米国に修理担当エンジニアとして派遣したのです。当初異国だから、独身者の方が良いだろうと単身赴任をさせていました。しかしやがて、渡米した社員が辞めたり日本に帰ってこないことに気がついたのです。独身社員が米国人女性と結婚するのが原因だったようです。そこで妻帯者を夫婦同伴で送ることにしました。そのような経験から、海外駐在は夫婦同伴赴任としたのでした。

 また、大金をかけて教育した社員の流出対策も重要でした。同じ事は米国サイドも考えており、故レイ・クロック氏は功績ある優秀な社員を希望によりフランチャイジーにしました。これにより優秀な社員が退職し、競合に流れることを防ぐわけです。この仕組みに着目した故・藤田田氏は社員フランチャイズ方式を導入し、10年以上勤務しある一定以上の職務に就いた社員をジーにする方式を日本的にアレンジして導入しました。その結果故・藤田田氏がいる間はほとんど社員流出がなく、ノウハウが流出しませんでした。

 私は店舗運営統括部長として全店舗の管理をしていました。ある時に、部下で数十店舗を管理する統括マネージャーが退職し、自分の管理していた店舗のジーとなったことがありました。その店舗は数ヶ月後に売上が前年対比30%も伸びて驚愕しました。慌ててて元社員のジーに理由を聞いたら、彼は当たり前のように「自分の財布ですから、真剣です」と言い切ったのです。社員の時に手を抜いていたわけではないのですが、自分の財布に直結するという真剣さが売上を上げたのです。これは例外ではなくほとんどの社員フランチャイズ化は大幅な売上の伸びを示しました。経験の長い優秀な社員は給料も高く退職金も高額になるのですが、支払うべき高額の退職金はフランチャイズ加盟金の一部として回収できるというメリットもあったのです。

 この社員フランチャイズシステムは、独立制度として人気が出て社員募集にも大きな効果がありました。社外の一般のフランチャイジーは育成するまで時間がかかり、独立した法人や個人でマクドナルド社の言うことを素直に聞かない。ベテランの社員フランチャイジーであれば教育は不要で言うことも素直に聞く習慣や態度を持っています。スーパーバイザー以上の経験があれば、損益計算書や貸借対照表、キャッシュフローも理解し経営上の心配も無いのです。

<2>産業化
 ハンバーガーを日本で本格的に始めたのはマクドナルドですが、挽肉を使用するので、安い肉や変な動物を使っているのではないかと消費者が信用しなかったのです。また、当時のハンバーグは、羊、豚、豚、牛などの合い挽きが多く、高価な牛肉100%と言っても信じてもらえなかったのです。そこで故・藤田田氏は現在の(社)日本ハンバーグ・ハンバーガー協会の前身を設立し
http://nhha.lin.gr.jp/
100%牛肉ハンバーガーパティの認定と認定マークを作成し、高い品質を訴求することに成功したのです。

<3>技術移転
 故藤田田氏は高級ファッションの輸入業の前には日本製電化製品の輸出もしていた。その経験から日本の物造りにプライドと自信を持っていました。また創業時はまだ1ドル360円の固定相場で米国からの輸入品は高額でした。そこで鮮度が重要な食品は勿論、厨房機器、店舗設計施工も日本で行いました。当初は性能上の問題があったのですが、日本の工業レベルの向上から場合によっては米国製の機器よりも性能が向上しました。また、苦労して国産化したので日本の厨房技術は大変高くなり、外食産業のレベルアップに貢献したのです。

 故・藤田田氏が一番力を入れたのがP.O.S.(コンピュータ化のレジ) でした。1980年初頭に米国マクドナルドが米国製P.O.S.を開発しました。ソフト的には大変優れていたのですが、ハードウエアーの耐久力や信頼性は低かったのです。それを見た故・藤田田氏は日本で開発し米国に貢献しようと考えました。故・藤田田氏は大阪出身なので大阪に本社のある松下電器(現・PANASONIC)の創業者故松下幸之助氏に話を持って行ったのです。故・松下幸之助氏が唯一悔やんでいたのが、松下電器(現・PANASONIC)のコンピュータービジネスからの撤退であり、故・藤田田氏の依頼を受けて、開発の陣頭指揮をするという気合の入れようでした。実際には体調がすぐれなかったので、故松下幸之助氏直系の身内を責任者として担当させ、米国マクドナルドが本社のあるシカゴやニューヨークに常駐させ、販売を見させたのです。

 実はその故・松下幸之助氏直系の身内の方は私の一級上の先輩であり、中学から大学まで一緒に遊んでいた仲です。故松下幸之助氏は国会議事堂裏の一等地に瀟洒な数寄屋造りの家を東京の家として構えていました。私は放課後訪問し、高級料亭から取ってくれる分厚いとんかつのカツ重を御馳走になり、食後は当時あったヒルトンホテルのコーヒーショップに連れって行って貰うのが楽しみでした。故・松下幸之助氏はその後 松下政経塾を作り政治家育成をはかりますが、その準備で国会議事堂裏の一等地に住んでいたのでしょう。
http://www.mskj.or.jp/

 P.O.S.の開発にはその後10年以上必要でしたが、米国マクドナルドに採用されました。この故・藤田田氏の技術開発は日本の外食関係に大きく貢献しているでしょう。現在のように厨房機器から食材、配送システムまで米国企業に頼っていると、日本の産業の発展には役に立たないのです。

 以上故・藤田田氏の功績を語りました。これだけの功績があるのに、日本マクドナルドのHPにも名前が残っていないのは何故なのでしょうか。これは米国マクドナルド側が、故藤田田氏を評価していないのではないだろうかと思われます。そこで故・藤田田氏の罪(と言うより、問題点、欠点といった方が適切かもしれない)を見てみましょう。

 米国が評価をしていないのは日本マクドナルドの主要株主を見ると明白です。
平成22年12月期の決算短信を見てみましょう。
http://www.mcd-holdings.co.jp/pdf/2010/2010_result_j.pdf

 主要株主は 米国本社とカナダマクドナルド社になっています。カナダマクドナルドは米国マクドナルドの最初の海外出店であり、2番目が日本です。カナダマクドナルドはジョージ・コーハン氏George Alan Cohonが合弁で設立しました。
http://en.wikipedia.org/wiki/McDonald’s_Canada

 開業時期が日本と近いので故・藤田田氏と同期のような仲でした。故・藤田田氏は何時もカナダと競争し、店舗数で追い抜いたのでジョージ・コーハン氏に勝ったと思っていました。それが今ではカナダが日本の25%の株を所有し、カナダ人女性のサラ・カサノバ氏(カナダでは部長クラスの経験)が日本の
CEOです。故・藤田田氏が生きていたら激怒するほどの侮辱です。米国マクドナルド社が故・藤田田氏評価をしていないことが明白でしょう。

 米国が故・藤田田氏を評価していない最大の理由が、日本マクドナルドの店舗不動産所有率だと思わます。米国マクドナルドが米国最大のレストランチェーンとして君臨し続けている最大の理由は、店舗不動産所有率が65%~75%と高いことです。当社社員の劉は立教大学大学院で博士課程取得に取り組んで「外食産業のイノベーション」というテーマで研究していました。その一環で日本経営会計学会で発表した「マクドナルド・コーポレーションの成功要因は不動産活用の財務戦略」において

『 創業者レイ・クロックの実質的な自伝
【Love John F.(1986) McDonald’s :Behind The ArchesBantam Books.Inc.(徳岡孝夫 訳 (1987)「マクドナルド わが豊饒の人材」ダイヤモンド社)】で マクドナルド社の収益は、フランチャイジー売上のわずか1.9%のサービス料(売上歩合のロイヤリティ)が殆どで、その1/4はマクドナルド兄弟に支払う。フランチャイジーから加盟時に徴収する加盟金は1店舗わずか950ドル、後に値上げしてからも1500ドルに過ぎなかった。(1961年以後は1万ドル)マクドナルド社の取り分では、クロックがつくった営業チームの経費は殆ど出なかった。本部運営に必要な経費は売上の4%であり、店舗展開を続ければ続けるほど負債が増大していた。そこで当時の副社長ハリー・ソネボーンは財務で利益を上げる方式を考案した。レイ・クロックはハリー・ソネボーンは「ソネボーンだけが我が社を救い、大会社にしてくれた。マクドナルドを大金持ちにしたのは彼だった」と評価した。

 ソネボーンはマクドナルドが不動産会社「フランチャイズ不動産」を別に設立する。次にこの会社がここにマクドナルドの店舗を建てても良いという土地を持つ地主を見つける。土地と建物を借り受ける。契約は20年間。そして最後に「フランチャイズ不動産」がフランチャイジーとの間に不動産取得手数料込みで、又貸し契約を結ぶという仕組みである。地主とフランチャイジーの中間にたった結果、マクドナルドには定期的な現金収入というメリットが生じた。地主との契約に当たってソネボーンは、店の売り上げにリンクして地代と家賃を出せという地主の要求には絶対に応じず、500ドルや600ドルなどの固定賃貸料を主張して譲らなかった。フランチャイジーへの又貸し契約では不動産取得手数料(マージン・マークアップ)を当初20%(後に40%)とした。出て行く物は固定し、入ってくる物は増えその差額が全てマクドナルドを潤すという物だ。しかしこの方式の最も美味しい点は地代家賃の40%上乗せがあくまで最低ラインだったことである。

 当初は、土地は借地で建物だけ取得するという方式だったが、1960年代に入ると、10年割賦契約で土地を買い、それを抵当にに銀行から借りて建物を建てるという方法に変わっていた。ソネボーンは、マクドナルドが割賦支払いを滞った時の抵当権を放棄してくれるようにして、土地を銀行に担保として差しだしたのである。自分の懐ろを痛めずに土地・建物を手に入れたのだ。大胆不敵としか言いようのない戦略である。

 当初、歩合制賃貸料は5%(1970年からは8.5%)。マクドナルドは二つの店舗を除く全店の不動産を管理していたから、黙っていても総売上の約8.5%とサービス料の3%が入ってくる。これはファストフード業界で最高の歩合収入だった。マクドナルドは、あたらしく取得する不動産の価格は時とともに上がっていったが、既存フランチャイジーの不動産関係コストは不変という、他社にない利点を持っていた。長期均一の地代(買い取りオプション付き)で借りるか、あるいはすでに土地を所有していたからである。1982年には、マクドナルドの不動産を含む純資産が初めて(当時世界最大の小売業)シアーズ・ローバックを抜いた。1985年末には、マクドナルドの不動産関係の純資産は41億6000万ドルにも達している。マクドナルドの不動産の真の価値は、その不動産が生み出す賃貸収入だろう。マクドナルドは純利益の約3分の1を、24%の直営店から上げているが、残りの三分の二は、76%のライセンス店から得ている。そして、そのライセンス店からくる利益の90%は不動産の賃貸料である。この不動産賃貸からの利益がなかったら、フランチャイジーに課する3%のサービス料は3倍増されていたはずで、4%という業界の平均サービス料を大きく上回ったに違いない。

 ソネボーンは新店舗用地をもっぱらリースに頼っていたが、ターナー(実質2代目のCEO、2014年に死去)はそれをやめ、買い取りをすることにした。
リースよりも土地買い取りの方が当初は高くつくが、土地を完全に入手すると同時に支払いは終わるからだ。アメリカ国内の1987年当時でマクドナルド店は、その56%が自前の土地である。現在は75%の土地を所有しているようだ(優先買い取りオプションを含んで)。
 ソネボーンが不動産リースの旨みを全ファストフードチェーンに教えたとすれば、ターナーは、小売り業界で世界最大の土地所有者といううらやましい立場にマクドナルドを置いたのだった。

 同様のことが「成功はゴミ箱の中に レイ・クロック自伝」
発行2007年2月24日 第1刷発行
著者レイ・A・クロック、ロバート・アンダーソン
訳者野崎稚嘉
発行者藤原昭広
発行所株式会社プレジデント社

でも述べられている。その結果同業他社の利益の倍の利益率を実現している』
 とまとめて、マクドナルド成功の大きな理由が不動産取得であるとしているいます。

このように米国マクドナルドが重視しているのは不動産取得率であり、米国マクドナルド社の後継者抜擢でも明白です。6代目CEOのチャーリー・ベル
Charles Bell(2004年に就任したが、7ヶ月 と短いのは癌で死亡のため)はオーストラリア出身で若くして初の米国人以外のCEOとして就任しました。抜擢の理由はオーストラリアの店舗不動産取得率を米国よりも高い80%にしたからだと言われています。

 日本マクドナルドの店舗不動産取得率は平成23年12期決算短信リスクの項目において「本社、事務所の95%以上の店舗の土地建物を賃借しており、業績が好調な店舗であっても閉店を余儀なくされることがある。」として世界の基準としても異常に低い事がわかります。

 この理由は、日本の不動産コストが異常に高かったことと、故・藤田田氏の不動産嫌いです。これは店舗不動産取得率では問題でしたが、反面、バブルの被害がなかったというメリットがあります。外食大手のすかいらーくやモスバーガー、京樽などの大手企業の創業者はバブル時の不動産投資で多額の負債を抱え、企業を手放さざるを得ない状況に陥ったと言われていますが、故・藤田田氏はその被害を受けなかったと言う良い面もあります。

 ただ、米国マクドナルドが成功した、郊外型立地では大きく遅れたのは事実です。故・藤田田氏は都内に居住し事務所を新橋と新宿副都心に構え、首都圏駅前や繁華街中心の出店に専念しました。また、故・藤田田氏や当時の各部長は自動車免許を持っておらず、郊外型店舗の重要性を認識せず、大きく遅れたのです。日本外食2位のすかいらーくが大躍進したのは1970年代で、人口が急増していた関東の三多摩で綿密な店舗展開を行い大成功したのです。筆者は当時数少ない自動車所有者であり、三多摩に居住し車通勤していました。通勤途中や休日のドライブですかいらーくの急速な店舗展開を見て危機感を感じ、すかいらーくの調査レポートを提出し、米国マクドナルドにも進言しましたが、誰も気に留めませんでした。ドライブスルーに真剣に取り組むようになったのは私が米国駐在から帰り、大阪本部に勤務するようになってから、関西以西中心の展開でした。関東が本格的に郊外のドライブスルーに取り組むようになったのは1980年代後半からでした。面白いのは各部長に自動車免許を取らせてから郊外型出店が進んだことでした。しかし、関東の郊外型の出店を中心に郊外の遅れは致命的で、最近になり関東も時代遅れの郊外型を出店し、それがマクドナルドの財務も悪化させているようです。

 他に米国マクドナルドが故・藤田田氏を嫌ったのは、日本の上場と、不透明な金の流れ、後継者問題などでしょう。
 米国マクドナルド社は、日本マクドナルドの上場を親子上場として歓迎していなせんでした。しかし故・藤田田氏はご子息が日本マクドナルドの後継者にならないことから、強引に上場をしたと思われます。

 故・藤田田氏には2人のご子息がいます。藤田元(げん)氏と藤田完(かん)氏です。二人とも成城で大学まで出た優秀な方です。故・藤田田氏は2人のご子息を大変かわいがっていました。藤田元(げん)氏は故・藤田田氏の個人会社でファッション関連商品の輸出入を営んでいる藤田商店の後継者でした。藤田完氏は藤田商店の副社長として元氏を補佐し、マクドナルドの輸入食材の管理も担当し、マクドナルドとも接点がありました。2人とも、マクドナルドが日本に進出した当初は学生であり、アルバイトとして働いた経験を持っています。しかし当初は故・藤田田氏は2人をマクドナルドに入れようとしなかったのです。

 それが大きく方向転換したのは、ロイヤリティ問題からです。故・藤田田氏は金儲けの天才でした。それが如実に出ているのは米国マクドナルドとの契約でした。日本マクドナルドは米国マクドナルド・コーポレーションが50%、藤田商店が40%、故・藤田田氏個人が10%所有していました。そして売上に対しロイヤリティを米国マクドナルドに1%、藤田商店に1%支払っていたのです。

 多くの日本の企業経営者は業者から、手数料やリベートを取り個人的に懐に入れており、脱税で捕まったり、モラル上の問題を引き起こすことが多いのです。しかし、故・藤田田氏はこそこそするのではなくロイヤリティとして個人会社の藤田商店に収めていたのです。この手法は見事なもので、よく米国サイドが納得したなと感心させられます。しかし国税庁が故・藤田田氏は日本マクドナルドより報酬をもらっており、このロイヤリティはリベートではないかと注目し始めたのです。故・藤田田氏は役務契約に基づくロイヤリティだと主張したが、もめたようです。

 そのため早めに国税OBを入社させ、その問題に当たらせたのですが、らちがあきませんでした。そこで故・藤田田氏以外にも藤田商店サイドで日本マクドナルドに貢献していると言うことを証明することにしたのです。そこで次男の藤田商店副社長の藤田完氏を日本マクドナルドに出向させ、開発本部長の仕事に従事させることにしました。 業務は、売上に貢献する新商品開発とマーケッティングでした。藤田完氏は故・藤田田氏にそっくりで、英語も故・藤田田氏よりも完璧で米国人に引けをとりませんでした。頭の回転も速く、故・藤田田氏は日本マクドナルドの後継者になることを期待していたようでした。

 藤田完氏の味覚は素晴らしく、傑作のチキンタツタを作り上げました。日本人にあった柔らかい特別なバンズを初めて開発し、鶏肉も洋風のフライではなく、ショウガと醤油をきかせた和風の竜田揚げにしたのです。また、(米国マクドナルドでは故・レイ・クロック氏が絶対に許可しなかった)ホットドックを商品化し朝食メニューとしてヒットさせました。通常ホットドックの肉は豚肉で関税が高かったのですが、牛肉を使うコーシャ・ソーセージ(ユダヤ教の教義に基づいて衛生的に料理を作る手法。関税も安かった)を直輸入し、食材コストが安く利益が出る商品に仕立て上げました。

 藤田完氏は音楽が得意で、コマ-シャル作成も自ら深夜まで立ち会うという気合いの入れ方でした。ギターを収集しており、その分野では日本一のコレクションといわれています。ただ、外食ビジネスに必要な慎重さにやや欠けており、新製品の安全性が心配でした。新製品では農水省への配慮で米を使う料理の開発も考慮し、カレーライスを開発しました。レトルトのようなお子様向きの味でなく本格的なスパイシーな味を目指したのです。カレー粉には雑菌が多く通常の100℃の加熱では殺菌できません。完全滅菌し日持ちさせるには100℃以上に加熱できる加圧式のレトルト処理が必要です。加圧し100℃以上に加熱するとスパイスが飛んでまろやかすぎます。そこで通常の加熱でスパイシーさを維持しながら、冷凍し日持ちを良くする方法にしました。しかしレトルトパウチのような外観から、店舗の扱いが悪く危険な状態でした。私は当時運営統括部長という仕事に就いており、店舗の安全性に関する事柄を注意する立場にあり、藤田完氏と対立せざるを得なくなってしまったのです。

 藤田完氏は優秀な人でしたが唯一の欠点がありました。それは他人の飯を食っていない、つまり、他の会社で働いたことがなかったことです。故・藤田田氏も学生時代に創業したそうで、他人の飯を食っていないと言う点では同じですが、小さい会社を育てるという点で大分苦労をしたようです。故・藤田田氏は部下に大変厳しい人で、私もずいぶん怒鳴られましたが、反面優しい面を持っていたのです。怒られてもきちんと謝れば最後は許してくれたし、解雇することはまれでした。社員の奥様ボーナスをだしたり。奥様の誕生日には花を贈ったり、パーティに奥様同伴だったりの気配りを忘れませんでした。しかしすでに裕福な家庭に育ち他人の飯を食うという苦労をしないご子息は、従業員の扱い方が乱暴で反発を買うことが多かったのです。

 藤田完氏も従業員の反発は予測しており、早い段階から敵味方を判別しようとしてか、極端な手法に打って出ました。最初に藤田完氏が出社した日に度肝を抜かされました。何と自分の席の両側に巨大なスピーカーを設置し、ロックミュージックを大音声で流したのです。服装もピンクのチェックのシャツでノーネクタイ(最近ではIT産業では普通ですが)と周囲を驚かせ、ひんしゅくを買いました。故・藤田田氏は何も言いませんでした。と言うよりも子供には甘く何も言えなかったようです。しかし、藤田完氏は優秀でした。周りの社員を完璧な家来にし服従させたのです。
 当時の日本マクドナルドは,米国マクドナルド・コーポレーションと故・藤田田氏が50%づつ所有しているバランスのとれた形でした。少なくとも私にはそう見えました。故・藤田田氏は店舗運営部門は米国から派遣された運営部顧問のジョン・朝原氏に任せっきりで、自分は、それ以外の主に購買、マーケッティング、店舗開発、財務を中心に見ていました。店舗運営面の人事もほとんどジョン・朝原氏に任せていました。私は故・藤田田氏とジョン・朝原氏が深い信頼関係にあると思っていたのですが、違うようでした。

 学生時代から米軍基地に出入りしてビジネスをしていた故・藤田田氏が最も嫌っていたのは米軍の日系米国人であったようです。しかしビジネスのために我慢していたのです。ジョン・朝原氏と米国マクドナルド側もちょっと、故・藤田田氏を斜めに見ているところがあり、見えないところで火花を散らしていたようした。しかし株を半々に持っているため、表面上はバランスを保っていました。そのバランスを崩したのが優秀なご子息でした。藤田完氏が社員を服従させ、故・藤田田氏は幹部社員が将来社員フランチャイジーになる際に良い店をやるという武器でシンパを増やせることに気づいたのです。これでバランスが崩れ、故・藤田田氏は店舗の人事にも口を挟むようになったのです。

 当時ジョン・朝原氏の育てた関西地区の本部長を些細な理由で更迭し、フランチャイジーに追いやったのです。勿論優しい面もある故・藤田田氏が収益の高い店を与え、不満が出ないようにしたのは言うまでもありません。しかしその後、ジョン・朝原氏の息のかかった人たちや、店舗運営の人たちの不満も高くなり、その声は米国マクドナルドコーポレーションにも届いていたようでした。そこで自分の後継者にしたいと思っている故・藤田田氏と米国マクドナルド・コーポレーションが話し合いを持ち、藤田完氏を米国マクドナルド・コーポレーションに長期間派遣し、後継者教育と適正判断をしようという話になったようです。

 故・藤田田氏もそれに期待したようですが、残念なことに藤田完氏がそれを断ってしまった。(正確には故藤田田氏の奥様が反対したようだ)故・藤田田氏は断腸の思いで日本マクドナルドを後継してもらうことを諦めたのです。その代わりに考えたのが資産継承だったのでしょう。そこで米国マクドナルド・コーポレーションの反対を押し切って日本マクドナルドの株式の上場を行うことにしたのです。株価を最大限にするには年商と店舗網が必要です。売上の拡大では低価格路線を、店舗網拡大ではPODやサテライトという小型店展開でした。

 故・藤田田氏の財産の贈与や死後相続では税金が高すぎます。そこで思いついたのがあっと驚く奇策でした。故・藤田田氏側が所有する日本マクドナルドの50%の株式は実は、故・藤田田氏個人が10%、藤田商店が40%所有していたことに注目したのです。その藤田商店の所有する日本マクドナルドの持ち株全てを上場前に勤務年数や功績など一定の条件を満たした社員に売却するという案でした。藤田商店の170名の社員が応募したのですが、メインは2人のご子息だったようです。2人のご子息は多くの株を買い、日本マクドナルドがジャスダックに上場した後売却し、当時公開していた高額所得者番付に故・藤田田氏ともに名を連ねたのです。
 
 平成13年(2001年)7月にジャスダック上場した際の年です。元氏と完氏が売却した株は、2000年11月に藤田商店から取得したものです。売却代金の利益の一部は株式購入の際の借入金の返済に充てられたようです。故・藤田田氏は新規公開の創業者利益の恩恵を受けたのですが、ご兄弟は保有期間の違いで新規公開株の課税の特例を受けられず、その結果納税額は父を上回ることになっのです。藤田元氏売却520万株、藤田完氏売却500万株、故・藤田田氏売却400万株、2001年分所得税番付では、株式売却益で親子3人3位から5位にランクインし、藤田元氏33億7000万円、藤田完氏32億7000万円、故・藤田田氏21億6000万円の納税となっていました。(2001年分の全国 所得税 高額納税者上位100人より 朝日新聞平成14年5月16日夕刊より)。

その後の故・藤田田氏の遺産約500億円と言われており、故・藤田田氏の金儲けの才能には目を見張る物があります。

 2人のご子息に対する大変上手なマクドナルド株譲渡方法をご紹介しましたが、まだ続きがあります。 実はマクドナルドは以前から株を使った福利厚生がありました。最初は米国マクドナルド・コーポレーション 株のストックオプションの付与と、米国マクドナルド・コーポレーション 株(当時東証1部にも上場していた。)を対象とした持ち株会でした。

 日本マクドナルドが上場を目指すようになり、日本マクドナルド株の持ち株会と上場時の購入権利付与を社員とフランチャイジー,取引先に75万株買えるようにしたようです(残念ながら私はすでに退職して詳細は知らりませんが、1440円で買い付けさせたようです)。株購入の条件は、上場後半年は売却を禁ずる物だったのです。株価の下落防止策です(藤田商店関係者も含む)。

 ところが上場時に5000円近くをつけた株価はそれ以来、下落したまま。株長者を夢見た社員とフランチャイジーは一部の株を売却しささやかな資金を得た後は、株を塩漬けにしたままのようです。(平成14年3月の有価証券報告書に詳細に記載。この後数年の有価証券報告書は故・藤田田氏ファミリーの金の流れと処理する苦労がよくわかります)。この時点で,米国サイドは株式を50%所有し、故・藤田田氏は157,700株11.86%所有していた。藤田元氏と藤田完氏はそれぞれ100,000株7.52%づつを所有していたが年度末にほとんど売却したと平成14年3月の有価証券報告書に記されています。(ちなみにその期の株価最高は5080円で最低は2820円と記されています)
 
 故藤田田氏は2001年(平成13年)7月に日本マクドナルドをJASDAQ上場させ、2003年(平成15年)3月 – 日本マクドナルドホールディングス代表取締役会長兼CEOを退任し、失意の中で2004年(平成16年)4月21日心不全のため享年満78歳でなくなった。問題は莫大な遺産相続と持ち株の処理でした。

 2003年有価証券報告書で、藤田商店との役務契約解除(売上の0.5%)を約63億円支払い 藤田商店と藤田元氏,藤田悦子氏(故・藤田田氏夫人)との賃借関係 配送業者のフジエコーは輸入品価格の2.5%を株式会社デン・フジタに支払 等明記しています。

 その前後の有価証券報告書 等で 藤田商店や、デン・フジタ、藤田興産などの複雑な利害関係が明らかになりました。

 更に故・藤田田氏の死後、ファミリーが所有していた膨大な株処理が課題となり、2005年7月に香港のファンド・ロングリーチに推定総額750億円で売却しました(藤田ファミリーは2005年6月末で日本マクドナルドの27%近い株式を所有していたようです)。
http://www.longreachgroup.com/jp/investments.php?cid=7
http://www.longreachgroup.com/releases_pdf/jp/July_27_2005%20McDonals%20Japan%20Investment%20Announcement%20(J).pdf#search=’%E3%83%AD%E3%83%B3%E3%82%B0%E3%83%AA%E3%83%BC%E3%83%81+%E8%97%A4%E7%94%B0%E5%AE%B6+%E6%97%A5%E6%9C%AC%E3%83%9E%E3%82%AF%E3%83%89%E3%83%8A%E3%83%AB%E3%83%89%E6%A0%AA’
http://www.longreachgroup.com/jp/newsarticles.php#acticle8
http://blog.livedoor.jp/zgmf_x56s/archives/29100080.html
http://blogs.yahoo.co.jp/kamakura_m_and_a/7681758.html

 故・藤田田氏は氏のよく言っていた「勝てば官軍」という言葉から、勇猛果敢で猪のように、猪突猛進のように思われていますが、実は大変慎重な方で、何か行動を起こす前にじっくり検討し、問題があれば直ぐに辞めるという方だったのです。
 
<1>米国政府との問題 アメリカ海軍提督からのクレーム
 1980年代にプラザ合意のお陰で、為替が円高にふれ、1ドルが240円から120円前後になってしまいました。それが幸いして、会社の食材原価は低下したのですが、あるとき思いがけない強烈なクレームが舞い込んできました。
 アメリカマクドナルド本社はアメリカ海軍と世界契約を提携し、世界各地に点在する海軍基地内に出店する権利を獲得していました。そして、日本最大のアメリカ海軍基地横須賀への出店は日本マクドナルドが担当することになり、当時地区担当部長になっていた私が担当することになりました。

 メニューはアメリカとほとんど同じでした。当時の日本マクドナルドは日本でほとんどの資材を調達しており、アメリカと同じメニューであっても、日本の価格をベースに円を中心として、円とドルの両方の価格を表示していたのです。

 それがプラザ合意で円が倍に高騰し、ハンバーガーの値段が倍になったわけで、海軍の人たちは怒り、クレームが山のように司令部に来ました。これは軍人の志気にかかわると、地区部長だった私のもとに値下げ要求が来ましたが、これは一企業の関知する問題ではないと突っぱねていました。しかし、あまりに問題が多いと、ある日アドミラル(海軍提督)が故・藤田田社長と会いたいと連絡をしてきました。

 さっそく、当日指定された東京の山王ホテル(アメリカ軍人御用達のホテル)に行く途中、過去の経過と、妥協しない旨を故・藤田社長と合意して、これは日米開戦ですから妥協しないで戦争してくださいとお願いし、社長は「よっしゃ、わかった」と納得してくれました。

 薄暗い会議室には勲章をぶら下げた軍服を着た将校達が十数名、厳しい目を向けて待っていました。その中の一人だけ中年の男性がネクタイ姿でいます。 着席後、自己紹介をしたら、ネクタイ姿の人が海軍提督だったのです。ただし、実戦部隊ではなく、組織運営に必要不可欠な食料などの物資物流最高責任者でした。彼はMBAを持つビジネスマンだったのです。アメリカ海軍は食材などの資材をアメリカから世界中の国に配送しますが、それらの艦船の動きは軍事偵察衛星で刻々と把握しています。その物流の親玉が彼なのです。

 儀礼的に自己紹介と雑談をしてから、海軍提督がハンバーガーの値段について切り出しました。日米ハンバーガー戦争の開戦だと身構えた私の耳に、思いがけない故藤田田氏の言葉が飛び込みました。「わかった、海軍の言う価格にハンバーガーを値下げする。私どものアメリカ本社はアメリカ海軍にたいへんお世話になっている。その御礼として希望のハンバーガーの値段にするので、今後ともよろしくお願いする」と故・藤田社長は言い放ち、相手があっけに取られているうちに「そな、さいなら」と席を立って帰ってしまいました。

 残されたアメリカ海軍将校は唖然として言葉を失ってしまいました。その後に残された私は、アメリカ海軍の将校達から集中砲火を浴びて撃沈してしまったのは言うまでもありません。

 妥協点を早めに見極め、相手の想定する妥協点よりも良い条件で短時間でクレームを処理することが必要な場合がある、ということです。ここで時間を費やしても、会社のイメージが低下するし、アメリカの親会社も困るから、単にメンツにこだわらず妥協できるところは妥協するべきだということでしょう。

 また、後に,トイザラス、ブロックバスターズとの提携をする,故・藤田田氏の ,米国への貸しだったのでしょう。トイザラス2号店開店時には、時の父ブッシュ大統領がテープカットに来たのもその成果でしょう。

<2>肉の調達
 牛肉は昔は高価であり調達が大変でした。その頃同じ大阪人のダイエー・中内功さんが子牛を米国から輸入し、沖縄で飼育するという秘策を編み出しました。故・藤田田氏は即座に、同じ事を実施すると新聞発表しました。
 でもその翌日から、日本の食肉をコントロールする怖い団体に.自宅周囲を取り囲まれ、故・藤田田氏は、その案を取り消しました。そして、警察官出身者を採用し、自信の安全確保を行いました。家も引っ越しし、それ以降、誰にも家を教えませんでした。

<3>ブラックを嫌っていた
 故・藤田田氏はブラックな人に思われやすいのですが、クリーンで私の知っている限り、脱税などのブラックな顔はないし、そう思われるのを嫌っていました。でもお金儲けが好きな(趣味)故・藤田田氏は株を手がけていました。非合法ではないのですが、仕手戦を好み資金を投入していました。普通は話題にならないのですが、1990年前後に一度新聞に仕手戦をしていると出たことがあります。銃砲メーカーのブローニング等のOEMメーカーで、防衛庁にも武器を供給しているミロク製作所への仕手戦です。この報道以後、株のビジネスを自粛したのが幸い、バブル崩壊の被害に遭わなかったという強運の持ち主です。

<4>慎重でも勇猛果敢な時がある
 故・藤田田氏は上記のように大変慎重な方ですが、自信があれば勇猛果敢になることがあります。故・藤田田氏はブラックに思われるのを嫌っていますが、格好つけても金儲けは出来ないと思っていたようです。上記の株の仕手戦に直接参加するのは本当にまれで、通常は仕手戦を手がける人に資金を貸すことが多かったようです。

 私が大阪本部で地区運営部長をしていた際に、緑地公園駅2号店をドライブスルーで開業しました。土地のオーナーは故・藤田田氏の知り合いの、ちょっとやくざチックな強面の在日の方でした。その方は数年後、拳銃所持で警察に出頭して逮捕されました。株などの投資で莫大な借金を暴力団の組長にしたのですが、返せなくなり、命の危険から自首したそうです。でも出所後に自殺をしたのです。私が驚いたのは故・藤田田氏も店舗の土地を担保にお金を貸していたようで、その方の死後、貸したお金の担保としていた、土地を譲り受け、藤田商店の資産にし、ビルを建て2階にマックスポーツ、一階にマクドナルド、上層階を大阪本部に貸していたのです。合法的な取引ですが、ずいぶん大胆な方だなと驚きました。

物件名 マクドナルド緑地公園ビル
所在地 大阪府吹田市江坂町5丁目14-10 
構造 (規模) — (地上: 6階建)
築年月 —- / —
坪数 150.00 坪 (495.85m2)
募集階 地上 4 階
沿線・最寄駅 「緑地公園」 駅 徒歩3分
┗ 北大阪急行線
https://b-zukan.jp/floor/osaka/66320/

マックスポーツ
http://ryokuchi.macsports.jp/access-map.html

マクドナルド大阪オフィス
https://job.rikunabi.com/2015/company/seminar/r919500089/C002/

   続く

王利彰(おう・としあき)

王利彰(おう・としあき)

昭和22年東京都生まれ。立教大学法学部卒業後、(株)レストラン西武(現・西洋フードシステム)を経て、日本マクドナルド入社。SV、米国駐在、機器開発、海外運営、事業開発の各統括責任者を経て独立。外食チェーン企業の指導のかたわら立教大学、女子栄養大学の非常勤講師も務めた。 有限会社 清晃(せいこう) 代表取締役

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