マックの裏側 第14回目 マクドナルド創業メンバーが語る秘話

マクドナルド時代の体験談

 銀座三越1号店や4号店新宿二幸店、5号店お茶の水店,9号店の新宿三越は大繁盛した。この1号店の銀座と4号店新宿二幸店、9号店の新宿三越の成功は当時始まった歩行者天国(日曜日には道路上に多数の折りたたみ式テーブルと派手なパラソルを置き、座って食べることができた。椅子がなくとも立ち食い文化が格好がよいと訴求した)をテレビ等のニュース番組が頻繁に登場させ、爆発的なハンバーガーブームを巻き起こした。そして全国各地の百貨店に誘致され、大量出店につながった。

 この店名と立地の日本化と米国色をださない(正確には米国文化を漂わせるが日本企業であるとする)手法は大成功であり、日本の成功に続けと華僑が経済をけん引する東南アジア各国に広がっていった。最初に成功したのは香港で、店名を日本に見習って麥當勞(マクドーロと発音)とした。香港の店舗は香港島や九龍半島の大都会に大型の店舗を展開し大成功を収めた。その成功を見た東南アジアの華僑の注目を集め、香港の後を追って、シンガポール、マレーシア、タイ、フィリッピン、台湾に店舗を構えるようになり、他社の追随を許さなかった。

 都心型の店舗の成功には本国の米国マクドナルドも注目し、郊外型店舗に加えて、ニューヨーク、サンフランシスコ、ロサンゼルス、シカゴ、ボストンなどの大都会にも取り入れるようになり、米国マクドナルドの売り上げを大きく伸ばした。また都心型の店舗スタイルは国土の狭い欧州でも注目され、英国、フランス、ドイツ、イタリアなども追随した。欧米だけでなく、オーストラリアなどにも貢献した。

 この故・藤田田氏の経営手法は、当時の米国マクドナルドに高く評価され、150店の店舗数でありながら、日本154号店の江ノ島店を全世界5000号記念店舗として開店させ、レセプションには、創業者の故・レイ・クロック氏が来日したほどである。

 故・藤田田氏は高級ファッションの輸入業の前には日本製電化製品(主にトランジスターラジオ)の輸出もしていた。その経験から日本の物造りにプライドと自信を持っていた。また創業時はまだ1ドル360円の固定相場で米国からの輸入品は高額であった。そこで鮮度が重要な食品は勿論、厨房機器、店舗設計施工も日本で行った。当初は性能上の問題があったが、日本の工業レベルの向上から場合によっては米国製の機器よりも性能が向上した。また、苦労して国産化したので日本の厨房技術は大変高くなり、外食産業のレベルアップに貢献したと言える。

 日本製電化製品の輸出もしていた故・藤田田氏が力を入れたのがP.O.S.(コンピュータ化のレジ) だった。1980年初頭に米国マクドナルドが米国製P.O.S.を開発した。ソフト的には大変優れていたが、その頃の米国ハードウエアーの耐久力や信頼性は低かった。それを見た故・藤田田氏は日本で開発し米国に貢献しようと考えた。故・藤田田氏は大阪出身なので、大阪に本社のある松下電器(現・PANASONIC)の創業者故・松下幸之助氏に話を持って行った。故・松下幸之助氏が唯一悔やんでいたのが、松下電器(現・PANASONIC)のコンピュータービジネスからの撤退であり、故・藤田田氏の依頼を受けて、開発の陣頭指揮をするという気合の入れようだった。実際には体調がすぐれなかったので、故松下幸之助氏直系の身内を責任者として担当させ、米国マクドナルドが本社のあるシカゴやニューヨークに常駐させ、販売を見させた。 P.O.S.の開発にはその後10年以上必要であったが、米国マクドナルドに採用され、その後刺激された同業のPOSメーカーの技術が大幅に改善し、マクドナルド全体に大きく貢献した。

藤田田輸入業(英文、 May 20, 1994 1994年5月20日、IEEE歴史センター、オーラルヒストリー#204によって藤田と行われたオーラルヒストリー 面談聞き取り自伝)
http://www.rutherfordjournal.org/article020110.html

戦後日本における電子部品工業史
http://www.jshit.org/kaishi_bn1/09_1takahashi.pdf

 そして故・藤田田氏の率いる日本マクドナルドは、破竹の勢いで快進撃し、米国マクドナルドが親子上場を嫌がるのに無理押しし、2001年7月ジャスダック上場した。故・藤田田氏には2人のご子息がいる。藤田元(げん)氏と藤田完(かん)氏である。二人とも成城大学を出た優秀な方である。故・藤田田氏は2人のご子息を大変かわいがっていた。藤田元(げん)氏は故・藤田田氏の個人会社でファッション関連商品の輸出入を営んでいる藤田商店の後継者である。藤田完氏は藤田商店の副社長として元氏を補佐し、マクドナルドの輸入食材の管理も担当し、マクドナルドとも接点があった。2人とも、マクドナルドが日本に進出した当初は学生であり、アルバイトとして働いた経験を持っている。しかし当初は故・藤田田氏は2人をマクドナルドに入れようとしなかった。

 それが大きく方向転換したのは、ロイヤリティ問題からだ。故・藤田田氏は金儲けの天才だった。それが如実に出ているのは米国マクドナルドとの契約であった。日本マクドナルドへの出資は米国マクドナルド・コーポレーションが50%、藤田商店が40%、故・藤田田氏個人が10%としていた。そして売上に対しロイヤリティを米国マクドナルドに1%、藤田商店に1%支払っていた。

 多くの日本の企業経営者は取引業者から、手数料やリベートを取り個人的に懐に入れることが多く、脱税で捕まったり、モラル上の問題を引き起こすことが多い。しかし、故・藤田田氏はこそこそするのではなくロイヤリティとして個人会社の藤田商店に収めさせていた。この手法は見事なもので、よく米国サイドが納得したなと感心させられる。しかし国税庁が故・藤田田氏は日本マクドナルドより報酬をもらっており、このロイヤリティはより税額の高い給料やリベートではないかと指摘し始めた。故・藤田田氏は役務契約に基づくロイヤリティだと主張したが、もめたようだ。そのため早めに国税局長OBの伊勢田氏を入社させ、その問題に当たらせたが、らちがあかなかった。そこで故・藤田田氏以外にも藤田商店サイドで日本マクドナルドに貢献していると言うことを証明することにした。もともと日本マクドナルドの食材輸入などを担当していた、次男の藤田商店副社長の藤田完氏を日本マクドナルドに出向させ、開発本部長の仕事に従事させることにした。 業務は、売上に貢献する新商品開発とマーケッティングであった。藤田完氏は故・藤田田氏にそっくりで、英語も故・藤田田氏よりも完璧で米国人に引けをとらなかった。頭の回転も速く、故・藤田田氏は日本マクドナルドの後継者になることを期待していたようであった。

 藤田完氏の味覚は素晴らしく、傑作の新製品チキンタツタを作り上げた。日本人にあった柔らかい特別なバンズを初めて開発し、鶏肉も洋風のフライではなく、ショウガと醤油をきかせた和風の竜田揚げにした。また、(米国マクドナルドでは故・レイ・クロック氏が絶対に許可しなかった)ホットドックを商品化し朝食メニューとしてヒットさせた。通常ホットドックの肉は豚肉で関税が高いが、関税の低い牛肉を使うコーシャ・ソーセージ(ユダヤ教の教義に基づいて衛生的に料理を作る手法。関税も安かった)を直輸入し、食材コストが安く利益が出る商品に仕立て上げた。

 藤田完氏は音楽が得意で、コマ-シャル作成も自ら深夜まで立ち会うという気合いの入れ方であった。ただ、外食ビジネスに必要な慎重さにやや欠けており、新製品の安全性が心配であった。新製品では農水省への配慮で米を使う料理の開発も考慮し、カレーライスを開発した。レトルトのようなお子様向きの味でなく本格的なスパイシーな味を目指した。カレー粉には雑菌が多く通常の100℃の加熱では殺菌できない。完全滅菌し日持ちさせるには100℃以上に加熱できる加圧式のレトルト処理が必要である。加圧し100℃以上に加熱するとスパイスが飛んでまろやかすぎる。そこで通常の加熱でスパイシーさを維持しながら、冷凍し日持ちを良くする方法にした。しかしレトルトパウチのような外観から、店舗の扱いが悪く危険な状態であった。筆者は当時運営統括部長という仕事に就いており、店舗の安全性に関する事柄を注意する立場にあり、藤田完氏と対立せざるを得なくなってしまった。

 藤田完氏は優秀な人であったが唯一の欠点があった。それは他人の飯を食っていない、つまり、他の会社で働いたことがなかったのだ。故・藤田田氏も学生時代に創業し、他人の飯を食っていないと言う点では同じであったが、小さい会社を育てるという点で良い人材を集めるのに大分苦労をしたようだ。故・藤田田氏は部下に大変厳しい人で、筆者もずいぶん怒鳴られたが、反面優しい面を持っていた。怒られてもきちんと謝れば最後は許してくれたし、解雇することはまれだった。社員の奥様に奥様ボーナスを出し、奥様の誕生日には花を贈ったり、パーティに奥様同伴だったりの気配りを忘れなかった。これは故・藤田田氏の苦い経験から来ている。藤田商店は当初日本製トランジスタラジオの輸出業を営んでいた。機械であるから壊れたり不良品が発生する。修理のために日本に送り返すのは費用も高いし、時間もかかる。そこで日本人エンジニアを雇い北米に駐在させた(累計20名)。しかし、しばらくすると、エンジニアとして給料の良い現地の会社に転職、現地の見た目の良い女性と結婚するなどで、退職するし、日本にも帰ってこない。そこで独身でなく結婚しているエンジニアを派遣するようになった。奥さんや子供の渡航費用も負担した。このやり方は大成功で、マクドナルドがシリコンバレー。サンタクララ市にフランチャイジーとして開店したマクドナルドの運営を行う社員の条件は妻帯者とした。

 裕福な家庭に育ち他人の飯を食うという苦労をしないご子息は、従業員の扱い方が乱暴で反発を買うことが多かった。

 藤田完氏も従業員の反発は予測しており、早い段階から敵味方を判別しようとしてか、極端な手法に打って出た。最初に藤田完氏が出社した日に度肝を抜かされた。何と自分の席の両側に巨大なスピーカーを設置し、ロックミュージックを大音声で流したのだ。服装もピンクのチェックのシャツでノーネクタイ(最近ではIT産業では普通だが)と周囲を驚かせ、顰蹙をかった。故・藤田田氏は何も言わない。と言うよりも子供には甘く何も言えなかったようだ。藤田完氏は優秀だった。周りの社員を完璧な家来として服従させた。

 当時の日本マクドナルドは,米国マクドナルド・コーポレーションと故・藤田田氏サイドが50%づつ所有しているバランスのとれた形であった。少なくとも私にはそう見えた。故・藤田田氏は店舗運営部門については米国から派遣された運営部顧問の日系米国人のジョン・朝原氏に任せっきりで、自分は、それ以外の主に購買、マーケッティング、店舗開発、財務を中心に見ていた。店舗運営面の人事もほとんどジョン・朝原氏に任せていた。私は故・藤田田氏とジョン・朝原氏が深い信頼関係にあると思っていたが、違うようであった。

 学生時代から米軍基地に出入りしてビジネスをしていた故・藤田田氏が最も嫌っていたのは米軍の日系米国人であったようだ。しかしビジネスのために我慢していたのだ。ジョン・朝原氏と米国マクドナルド側もちょっと、故・藤田田氏を斜めに見ているところがあり、見えないところで火花を散らしていたようだった。しかし株を半々に持っているため、表面上はバランスを保っていた。そのバランスを崩したのが優秀なご子息だった。藤田完氏が社員を服従させ、故・藤田田氏は幹部社員が将来社員フランチャイジーになる際に良い店をやることや、昇進等でシンパを増やせることに気づいたのだ。これでバランスが崩れ、故・藤田田氏は店舗の人事にも口を挟むようになった。

 当時ジョン・朝原氏の育てた関西地区本部長の川村龍平氏(故・藤田田氏の後継者として育てていた)を更迭し、フランチャイジーに追いやった。勿論優しい面もある故・藤田田氏が収益の高い店を与え、不満が出ないようにしたのは言うまでもない。しかしその後、ジョン・朝原氏の息のかかった人たちや、店舗運営の人たちの不満も高くなり、その声は米国マクドナルド・コーポレーションにも届いていたようだった。そこで自分の後継者にしたいと思っている故・藤田田氏と米国マクドナルド・コーポレーションが話し合いを持ち、藤田完氏を米国マクドナルド・コーポレーションに長期間派遣し、後継者教育と適正判断をしようという話になったようだ。

 故・藤田田氏もそれに期待したようだが、残念なことに藤田完氏がそれを断ってしまった。正確には故・藤田田氏の奥様の故・藤田悦子氏が末っ子で可愛い藤田完氏に苦労させることに反対した。故・藤田田氏はご子息や奥様を説得できず、断腸の思いで日本マクドナルドを後継してもらうことを諦めたようだった。その代わりに考えたのが資産継承だったのだろう。そこで親子上場を嫌う米国マクドナルド・コーポレーションの反対を押し切って日本マクドナルドの株式上場を行うことにした。株価を最大限にするには年商規模と店舗網が必要だ。売上の拡大では低価格路線を、店舗網拡大ではPODやサテライトという小型店展開だった。

 故・藤田田氏はたいへん家族を大事にし、二人の御子息を思っていた。御子息に資産を承継するうえで、故・藤田田氏の財産の贈与や死後相続では税金が高すぎる。そこで思いついたのがあっと驚く奇策だった。故・藤田田氏側が所有する日本マクドナルドの50%の株式は実は、故・藤田田氏個人が10%、藤田商店が40%所有していたことに注目した。その藤田商店の所有する日本マクドナルドの持ち株ほとんどを上場前に勤務年数や功績など一定の条件を満たした藤田商店の社員に売却するという案である。藤田商店の170名の社員が応募したが、メインは2人のご子息だったようだ。2人のご子息は多くの株を買い、日本マクドナルドがジャスダックに上場した後売却し、当時公開していた高額所得者番付に故・藤田田氏ともに名を連ねた。

続く

王利彰(おう・としあき)

王利彰(おう・としあき)

昭和22年東京都生まれ。立教大学法学部卒業後、(株)レストラン西武(現・西洋フードシステム)を経て、日本マクドナルド入社。SV、米国駐在、機器開発、海外運営、事業開発の各統括責任者を経て独立。外食チェーン企業の指導のかたわら立教大学、女子栄養大学の非常勤講師も務めた。 有限会社 清晃(せいこう) 代表取締役

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