マックの裏側 11回目 マクドナルド創業メンバーが語る秘話

マクドナルド時代の体験談

 2021年5月17日の日経MJには、マック1~3月、全店売上高最高と報道されていた
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO71902110U1A510C2HE6A00/

 その直前には2021年5月10日日経MJに日本マクドナルドホールディングスのCEOの交代が報じられている。
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO71663700X00C21A5H11A00/
https://www.nikkei.com/article/DGKKZO71664110X00C21A5H43A00/

 傘下の日本マクドナルド社長から昇格した日色保社長は、前任のサラ・カサノバ氏の後任となった。
 2020年から継続するコロナ過の緊急事態宣言などで外食全般が不振の中で、宅配やドライブスルー、持ち帰り需要が好調のマクドナルドの売り上げは好調だ。マクドナルドの既存店売上高は4月まで10カ月連続で前年を上回る。これはキッチンの生産性を高める改革と同時に、ドライブスルーや宅配需要にきめ細かく対応できる店舗フォーマットの開発だ。その結果日本マクドナルドホールディングスの2021年12月期の連結営業利益は前期比2%増の320億円と、2期連続の最高益を見込む。
 前任のサラ・カサノバ氏は2014年に報道された中国の取引先工場で期限切れの鶏肉問題による客離れに続き、2015年1月の日本の店舗における異物混入事件により、2015年12月期の最終損益が349億円の赤字と、1971年の創業以来最大の危機に直面した。その危機をサラ・カサノバ氏は見事に立て直した。全国各地の店舗に直接足を運びながら、顧客の声に耳を傾け、意気消沈する従業員を励ますした。さらに、既存店の大量改装と積極的な新商品キャンペーンで現場の活力を生み、反転攻勢につなげた。日色氏が日本マクドナルドに入ったのは2018年。前職は畑違いの医薬品業のジョンソン・エンド・ジョンソン日本法人社長だ。ジョンソン・エンド・ジョンソンは1980年代に米国で同社の大ヒット商品タイレノール(鎮痛剤)への外部の人による意図的な毒物混入事件の際に即座の販売停止と沈静化と対策を打ち出し、危機管理の見事な手本となった。日色氏が日本マクドナルドにスカウトされたのは、2015年の日本マクドナルドの異物混入対策の後処理のまずさによる売り上げ低迷を経験し、今後そのようなことがないように日色氏にジョンソン・エンド・ジョンソン危機管理の経験を生かしてもらいたいからだろう。

 サラ・カサノバ氏の前任者の原田泳幸氏は日本マクドナルドを徹底して破壊し、後任のサラ・カサノバ氏は、一時日本マクドナルド社の外部への売却も報道されるほど追い詰められた。そして見事な復活を遂げたわけだが、実は日本マクドナルドを創業し4000店舗近くまで直営店舗を開店運営し、現在の日本マクドナルドの基盤を作り上げたのは故・藤田田氏だ。しかし氏の名前は出てこないし、同社のHPにもほとんど記載されていない。何故、故藤田田氏と故・ジョン・朝原氏が築き上げた日本マクドナルドを、米国マクドナルド社は3代目CEO原田泳幸氏に破壊させたかこれから見ていきたい。

 まず筆者の経歴と、筆者が在籍していた時の日本マクドナルドの店舗数を見ていただきたい。

<マクドナルドの店舗数と売り上げ、筆者の職歴>

マクドナルドの店舗数,売り上げ、筆者の業務経験を見てみよう。
(店舗数と売り上げは年末の数字)

1971年(昭和46年)
1月・筆者家業の飲食業を退社,レストラン西武(現、西洋フードシステム)入社
2月・筆者ダンキンドーナツ事業部へ配属
5月・藤田商店と米国マクドナルド、合弁で日本マクドナルド(株)設立。
・筆者、ダンキンドーナツ実験店配属
6月・日本マクドナルド、ハンバーガー大学開校。
7月・マクドナルド1号店(東京・銀座)オープン。

マクドナルド
店舗数 5店舗
年商  205(単位百万円)
    
1972年(昭和47年)
1月・筆者ダンキンドーナツ3号店田無店開店時店長となる
7月・マクドナルド、関西進出1号店を藤井大丸に出店。

店舗数 19店舗
年商  1、544 (単位百万円)

1973年(昭和48年)
1月・筆者ダンキンドーナツを退社、日本マクドナルド入社
・日本ハンバーグ・ハンバーガー協会発足。
7月・筆者、マクドナルド・ファースト・アシスタント・マネージャーへ昇進

店舗数 39店舗
年商  3、798(単位百万円)

1974年(昭和49年)
4月・筆者、新宿二幸店店長に昇進

店舗数 59店舗
年商  6、798(単位百万円)

1975年(昭和50年)
3月・筆者スーパーバイザーに昇進
12月・マクドナルド、年商100億円突破。

店舗数 79店舗
年商  10、351(単位百万円)

1976年(昭和51年)
11月・マクドナルド100号店(大阪・針中野)達成。

店舗数 104店舗
年商  15、119(単位百万円)

1977年(昭和52年)
4月・ マクドナルド、初の郊外型独立店(ドライブイン・愛知・豊田)開店。
10月・マクドナルド、初のDT付帯店(東京・環八高井戸店)開店。
11月・筆者ハンバーガー大学プロフェッサーに就任

店舗数 125店舗
年商  22,508(単位百万円)

1978年(昭和53年)
4月・マクドナルド、新商品のクォーターパウンダー導入。
10月・ マクドナルド、全世界で5,000号店となる神奈川・江ノ島店をオープン。)
11月・筆者統括スーパーバイザーに昇進、東京北部・千葉・埼玉・群馬・栃木等を担当

店舗数 158店舗
年商  31、709(単位百万円)

1979年(昭和54年)
10月・マクドナルド、新商品エッグマフィン導入。200号店(東京・用賀・米国製厨房機器とレイアウト採用の地下室を備えたドライブスルー大型店舗)もオープン。

店舗数 204店舗
年商  40、392(単位百万円)

1980年(昭和55年)
2月・筆者統括スーパーバイザーのエリアを東京西部・主として神奈川に変更

店舗数 250店舗
年商  50,082(単位百万円)

1981年(昭和56年)
7月・ マクドナルド300号店(横浜・元町・米国デザインの客席)オープン。
11月・筆者,米国店舗・シリコンバレー・サンタクララ店の統括責任者として渡米

店舗数 284店舗
年商  60、431(単位百万円)

1982年(昭和57年)
1月・マクドナルド、チキンマックナゲットをテスト販売。

店舗数 315店舗
年商  70、293(単位百万円)

1983年(昭和58年)
12月・ マクドナルド400号店(大阪・戎橋)オープン。

店舗数 346店舗
年商  84、655(単位百万円)

1984年(昭和59年)
3月・筆者、帰国、関西地区・神戸・中国・四国地区統括スーパーバイザーに就任
12月・マクドナルド、年商1,000億円突破。通算15億個めのハンバーガーを販売。

店舗数 393店舗
年商  107、968(単位百万円)

1985年(昭和60年)
2月・マクドナルド、朝食メニューを全店に導入。
4月・筆者、関西地区運営部長に昇進
      同時に業務課、営業技術課を担当
6月・ マクドナルド500号店(東京・用賀2号店)オープン。

店舗数 451店舗
年商  118、832(単位百万円)

1986年(昭和61年)

店舗数 489店舗
年商  130、385(単位百万円)

1987年(昭和62年)
1月・マクドナルド、サンキューセット発売開始。低価格戦略スタート。
4月・ マクドナルド、東京でフレッシュサラダの実験開始。
5月・筆者、中央地区本部発足に伴い、中央地区運営部長として転任、北海道、中京、神奈川地区。
   同時に業務課,営業技術課を担当。
6月・KFC、ビスケット発売。

店舗数 507店舗
年商  143、597(単位百万円)

1988年(昭和63年)
2月・ マクドナルド、初の国内独自開発商品ベーコンマックバーガー限定発売。
10月・筆者,本社、運営統轄本部運営統括部長,兼、海外運営部長就任。
11月・ マクドナルド、プリペイカードの実験に着手。

店舗数 555店舗
年商  152、963(単位百万円)

1989年(平成元年)
4月・筆者、運営統轄本部運営統括部長、兼、海外運営部長、兼、機器開発部長に就任
7月・ マクドナルド700号店(東京・新宿・新宿歌舞伎町)オープン。
9月・ マクドナルド、米国玩具小売りチェーントイザラスと合弁で日本トイザらス(株)設立。

店舗数 600店舗
年商  162、774(単位百万円)

1990年(平成2年)
10月・筆者、本社事業開発部長就任(実質的な左遷人事),新商品開発・フライドチキンに従事。

店舗数 654店舗
年商  175、475(単位百万円)

1991年(平成3年)
5月・マクドナルド、フライドチキンのテスト販売開始。
12月・マクドナルド、トイザらス1号店(茨城・稲敷郡)オープン。
・マクドナルド、外食産業初の年商2,000億円を突破。

1992年(平成4年)
・ トイザらス橿原店、マクドナルドと初の複合出店。
・ マクドナルド900号店(神奈川・相模原)。
4月・筆者、日本マクドナルドを退社。

以上

王利彰(おう・としあき)

王利彰(おう・としあき)

昭和22年東京都生まれ。立教大学法学部卒業後、(株)レストラン西武(現・西洋フードシステム)を経て、日本マクドナルド入社。SV、米国駐在、機器開発、海外運営、事業開発の各統括責任者を経て独立。外食チェーン企業の指導のかたわら立教大学、女子栄養大学の非常勤講師も務めた。 有限会社 清晃(せいこう) 代表取締役

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