米国外食産業の歴史とイノベーション 第4回目(日本厨房工業会 月刊厨房2011年6月号)-飲食店フランチャイズ経営

第四章 チェーン展開の基礎となる基準、企画の策定

カンサス�パシフィック鉄道沿いに3箇所のレストランを共同経営し始めたフレッドは鉄道線沿いのレストラン経営に自信を持ちビジネスを拡大するべく、鉄道チケット販売をしていたシカゴ�バーリントン&クインシー(Chicago,Burlington & Quincy)鉄道に鉄道沿いのレストランの提案をしたが、彼らは興味を示さず、他の発足したばかりの小さな鉄道会社アチソン・トピカ&サンタフェ鉄道(Atchison,Topeka & Santa Fe鉄道、以後サンタフェ鉄道を省略)と手を組むことを推薦された。当時のサンタフェ鉄道はカンサス州に560マイル、コロラド州に65マイル、ミズーリー州に1.25マイル、しか施設していなかった。東海岸大手の鉄道会社は保守的な経営体質であったが、サンタフェ鉄道は開拓者精神にあふれており、あらゆることに積極的にチャレンジしていた。
サンタフェ鉄道はペンシルバニア出身の弁護士サイラス�ホリデーCyrus Holliday(後にOK牧場の血統で有名になったガンマン・ドク・ホリデー)によって創業された。当初はアチソンとトピカの二つの小さな町の間60マイルに施設されていた駅馬車や荷物車用の道路をつなぐ、サンタフェ街道沿いに作られた鉄道に過ぎなかった。しかし、南北戦争の際に政府は鉄道施設を支援するために、広い土地を鉄道会社に無料払い下げをする方針を打ち出し、サンタフェ鉄道はサンタフェとニューメキシコをつなぐ鉄道網を施設することにした。鉄道沿いの土地は未開拓であり、一儲けを狙う、ヨーロッパからの移民や東部居住の人が開拓に来ることを狙い、運賃を割り引いたりした。農民には農産物の輸送に鉄道を使うことを条件にローンを組むなど積極的な販売促進を行った。農産物で栄えるようになった沿線上は1874年にバッタの大発生による被害を受けたが、それを乗り越え、1875年にはカンサス地方の小麦は大豊作であった。

フレッドはサンタフェ鉄道の監督であったチャーリー・モース(Charlie Morse)とはモースがネブラスカ州の鉄道切符販売を担当していた頃よりの知り合いであった。そこで、モースに相談し駅内レストランのプロジェクトを開始することにした。まず、トピカ駅の2階にあった20席の軽食堂(Lunchroom)を対象にした。20席のレストランは過去フレッドが関与したどのレストランよりも小さな規模であったが、モースが絶対に成功するとして開始した。フレッドはこの軽食堂の受託運営において、大変有利な条件を引き出した。ランニングコストの面においては、賃料無料はもちろん、ガス、石炭、氷、などの水道光熱費、レストランで使用する食材と従業員の輸送費をサンタフェ鉄道が負担する。投資面においても、オーブンやレンジ、洗浄槽、氷貯蔵庫、などの調理に必要な機器も鉄道の負担とする。フレッドの負担するランニングコストは食材コストと人件費だけだ。投資面においてフレッドは客席で使用する、テーブルや椅子などの家具、テーブルクロス、ナプキンなどのリネン類、皿やナイフフォークなどの食器類を負担する。この好条件で利益を出すのは容易であった。この有利な契約はフレッドとモースのお互いの信頼だけで成立し、書面による契約は行わなかった。
フレッドは列車の乗客や乗務員によい印象をもたれるだけでなく、トピカ駅と道路を隔てたビルに支社を構えているサンタフェ鉄道のモース達役員をも喜ばせなければならなかったので、軽食堂の改装は慎重に行う必要があった。
そこで改造に当たっては長年のパートナーであり妻のサリー(Sally)と腹心の部下ガイ�ポッター(Guy Potter)を担当させた。2人で狭い2階の客席の床から壁まで磨き上げ、全ての皿、食器類、を交換した。フレッドは食材の供給に当たって、鉄道を使い、限られた地元の食材供給業者ではなく、遠くはシカゴ、セントルイス、ボストン、などの食材供給業者に新鮮な肉、加工品、特別焙煎のコーヒー豆、などの最高の材料を運ばせることにした。1876年1月の開店に当たってポッターをマネージャーにした。
顧客にずいぶん小さな客席で、2階まで上がるのは不便だと言われたが、最高のコーヒーと食事でいくら不便でも顧客は来るはずだとフレッドは確信していた。この小さな店の開店はちょうど米国建国100周年であり、料理史上に記録される出来事であった。後にあっという間に大繁盛店になったと言われているが、実は成功にいたるまでには多少の時間と忍耐が必要であった。

1876年の夏は独立宣言をして建国してから100年にあたり、フィラデルフィアで建国100年万記念万国博覧会が開催され1000万人の訪問者でにぎわった。この万博で発表された新製品には電話機、電球、タイプライター、石鹸、などがある。この万博は米国が南北戦争の混乱から国際的な国家になる兆候を現していた。そして、同時に従来の対外貿易で赤字続きであったが、初めて黒字転換した記念すべき年でもあった。
しかし、このよい雰囲気は数日後に悲劇によりしぼんでしまった。それはジョージ�カスター(George Custer)将軍の軍隊225名が南モンタナ地域でチーフ�シッティング�ブル(Chief Sitting Bull)とクレージー�ホース(Crazy Horse)の率いるインディアンに殲滅されたと言うニュースであった。
カスター将軍が駐在していたリーベンワースの人々はカスター将軍の行いにあまり感心していかった。リーベンワース駐在時代には部下の75人を将軍の個人的な仕事に従事させたり、兵役がいやで脱走した兵士を裁判なしに銃殺したりしていたからだ。政府がカスター将軍をインディアンと対決させたのは、インディアンに与えた居留地に金が産出することが判明したためで、政府は景気悪化により金を入手することを考えたからであった。
リーベンワースの人々は平和的なインディアンと仲良く付き合っていたし、町にはインディアンが常時訪問しており、町の人やフレッドはインディアンたちとビジネスをしていた。インディアンの酋長などはよく、フレッドのレストランを利用していたのだ。また、トピカ駅を農地を求めてロシアからの移民や、鉄道施設に従事する中国人、新しい町でビジネスを求めているドイツ系のユダヤ人、南北戦争の退役軍人、達が通過し、フレッドのレストランの食事を楽しんだ。
そのような環境の中で、フレッドはトピカのレストランを2年間運営し続けていた。その間に、次男のバイロン�シャーマーホーン・ハーベイByron Schermerhorn Havey(友人の名前から命名した)が生まれた。フレッドは本業の列車チケット販売に関しては継続してバーリントン社の仕事をしていたが、だんだん、西部の開拓が進むにつれ、ビジネス面での転換を考えるようになった。それはサンタフェ鉄道が急にビジネス展開に積極的になり、PRを開始したからだ。1877年になるとサンタフェ鉄道は鉄道網による家畜の輸送に真剣に取り組むようになる。野牛狩りやポーカーゲームなどの西部劇的な町であったダッジ・シティ(Dodge City)の近所に家畜保管場と家畜の発送所を建設し、ダッジ�シティを家畜輸送の中心地に仕立て上げた。それまで鉄道網による家畜輸送は競合のカンサス�パシフィック鉄道が一手に引き受けていたが、ダッジ・シティは競合よりも100マイル以上も牧場地に近かった。また、サンタフェ鉄道は家畜の運賃もドラスチックに低下させると言う販売戦略を取り入れた。

その結果、ダッジ�シティはあっという間に繁盛する町に変化した。それに伴い、一旗揚げようと色々な人々が集まった。商売人だけでなく、無法者も増えていった。
サンタフェ鉄道はビジネスを強化するためにシカゴ�バーリントン&クインシー鉄道の若いやり手の経営者のバーストウ�ストロング(Barstow Strong)をスカウトして経営者にした。フレッドはジョイ・システムの仕事をしていた頃より2歳若いストロングと親しく付き合っていた。
ストロングを得たサンタフェ鉄道は単なるローカル鉄道から、大陸間横断鉄道の最大手になる野望を持つようになった。当時はカンサスからコロラド州のラ・ヒュンタLa Juntaまでしか鉄道網を施設していなかったが、サンタフェやニューメキシコを超えてはるか太平洋までの鉄道網に挑戦することにしたのだ。
ストロングは直ちに、コロラドから太平洋への鉄道網計画を制定しだした。同じ頃フレッドはサンタフェ鉄道に対して、トピカ以外のレストランの運営受託を申し込んでいた。まず、フローレンス(Florence)から転換を開始し、その後、鉄道網沿いにレストランを開業しようと考えた。
しかし、サンタフェ鉄道はフローレンス駅のレストランとホテルを他に売却をしていたので、そのオペレーションを受託するためには鉄道がレストランとホテルを買収する必要があった。しかし、まだひ弱な会社は資金の全てを鉄道網施設のために使用する必要があり、他への資金投入が不可能であった。そこでストロングはフレッドに後で鉄道会社が買収しなおし、家賃を無料で貸すから、とりあえず、フレッドが5275ドル(現在価値で117,448ドル)で買収してくれないかと提案した。フレッドにとって大冒険であったが、有能な経営者のストロングにかけることにした。

ストロングは積極的なマネージメントをおこない、サンタフェから100マイル先にあるニューメキシコにつながるサンタフェ街道沿いの標高2800mの山にあるラトン�パス(Raton Pass)に他の鉄道会社に先駆けて鉄道を通したことで一躍有名になった。このラトン�パスの施設は苛烈な競争と銃撃を伴う争いの末に実施された。
その間、フレッドはフローレンス駅のホテルとレストランの改造に取り組んでいた。以前のホテルの状態とレストランの料理の味はひどいものであったので、ホテルをブティックホテルに仕立て上げ、料理もその雰囲気に負けないものにしようと考えた。そこでシカゴの高級ホテルのパーマーハウス(Palmer House) で働いていたウイリアム・フィリップス(William H.Phillips英国出身)と言う有名な調理人を高給でスカウトすることにした。フィリップスはフィラデルフィア(Phiradelphia)万博で50万人の来場者に料理を提供したことで有名であった。フィリップとフレッドは後に衛生的で効率的な美味しい料理の基準を西部一帯に打ち立てることになった。
二人の英国人はアイリッシュのテーブルクロス、ロンドンの食器類、などの高級な調度を取り入れていった。食材に関しては地元の漁師、猟師、農家、から最高品質の材料を金に糸目をつけずに購入し、ヨーロッパ・スタイルの本格的な料理法を取り入れた。その結果、あっという間に有名になり、ザ・クリフトン(The Clifton)と名前を変更し、ホテル前に大きなサインを掲げた。そして、フローレンスにすむ女性は毎週火曜日と金曜日はホテルのバスルームを使用できるようにして地元に溶け込んでいった。
フレッドは1879年夏に次のホテルを西部よりのレイキン(Lakin)で受託した。さらにレイキンに牧場を開業し、ブランドをXYとして1万頭の牛を飼育した。牧場の権利の1/4を4,000ドル(現在価値で89,000ドル)で購入し、残りを後で全額購入できるオプション契約を締結した。そして、利益を独り占めにせずに、サンタフェ鉄道のストロングや重役たちにサイドビジネスの権利を分け与えた。当時の米国人にとって牧場主になることは名誉であり、鉄道の役員たちに大変感謝され、後の、鉄道とのビジネスに大変役に立った。
この時期にはフレッドは5人の子供を授かっていた。長男のフォード(後に2代目となるFord),長女のミニー(Minnie),次女のメイ(May),次男のバイロン(Byron),三女のシビル(Sibil)だ。

サンタフェ鉄道は4箇所目になるコロラド州のラ�ヒュンタの駅内レストランの開業を許可したので、フレッドはサンタフェ鉄道との競合関係にあるカンサス�パシフィック鉄道との3箇所のレストラン共同経営を打ち切る時期だと考え、友人のカーネル�ジャスパー(Colonel Jasper)との共同経営を解消することにした。これは、フレッドにとって安定した収入をあきらめることであったが、まだシカゴ�バーリントン&クインシー鉄道のチケットの西部に置ける販売権を持っており、その他に、サンタフェ鉄道沿いのホテルやレストランの収入、XY牧場の収入があったので、思い切った転換が可能であった。そこで、1897年10月にその関係を解消し、XY牧場を拡大し4000マイル四方にした。牧場には200名のカウボーイが働いていた。
しかし、牧場主で数千頭の牛を飼育していても、西部には屠殺場が少なく、冷蔵車もまだなかったので、牛をシカゴやカンサスにまで送って処理をする必要があり、自分のレストランで新鮮な牛肉を提供することが出来なかった。
フレッドのレストランの売り物はビーフステーキであり、良い牛肉を安定して入手する必要があった。そこで、最も歴史があり、品質の良い食肉加工業者のスレイヴェンズ&オブエン(Slavens & Obuen)社と年間の大量供給契約を結ぶことにした。ヒレ肉を1ポンド当たり12.5セント(現在価格2.78ドル)の価格に設定し、最初の90日間で15,600ポンドの牛肉(週当たり1,200ポンド)を購入する契約とした。この契約により新鮮な牛肉をいつでも提供することが可能になった。

また、当時開発が進みだしたラスベガスにおいて温泉治療を目的とする宿泊施設をサンタフェ鉄道が買い取り、それをより大規模なホテルに仕上げるためにフレッドにその運営を委託することになった。鉄道会社はそのホテルや土地の買収に102,000ドル(現在価値で2.3ミリオンドル)を投入した。そのホテルはモンテズマ(Montezuma)と命名された。
この巨大なホテルの運営受託をするのは冒険であったが、サンタフェ鉄道の社長に上り詰めたストロングは野心家であり、もし、フレッドが受託をしなければ、誰かに運営を委託するだろうと思い受託ことにした。そして、他鉄道会社のチケットの販売もやめることにした。
フレッドはレストランやホテルの経営で鉄道の長旅をすることが多かった。列車が駅に着く際に完全に止まる前に列車から飛び降り、他の客が降りてレストランに入る前に、自らのレストランのチェックを行った。もし、テーブルに一点の汚れや、間違ったテーブルクロスを使用しているのを発見すると、そのテーブルセッティングを壊し、従業員に厳しくセッティングのやり直しを指示していた。
列車が到着する前にはレストランのスタッフは入口に整列して待機しなければならない。レストランのサービス責任者は列車が停車し乗客が下車し始めるとプラットホームで鐘を鳴らしレストランの準備が整っていることを乗客に告知をした。このやり方はフレッドが参考にしていたアルトウーナ(Altoona)のローガン�ハウス・ホテル(Logan House Hotel)から習ったものだった。
ウエイトレスは鐘の音とともにコース料理のサービスを開始する。休憩時間30分の間に料理を提供するのはまるでオリンピック競技のように見事な連係プレイであった。しかし、この長旅は健康に優れないフレッドにとって負担であり、旅行の終わりには終日ベッドで臥せらなくてはならなかった。また、出張が多く、家族と一緒にいる時間が少ないと言う問題も抱えていた。
フレッドは腹心の部下の必要性を感じるようになった。そこで、1881年のクリスマスに利用しているお気に入りの銀行の従業員、デイヴィッド�ベンジャミンDavid Benjamin(英国ロンドン市出身のユダヤ人の移民で当時21歳)を腹心の部下にスカウトした。以前にスカウトした総調理長のフィリップには料理の管理をさせ、ベンジャミンには会計の管理と家族の相談役をさせることにした。

その頃にはラスベガスで建設中であったモンテズマ・ホテルが1882年4月16日に開業した。
サンタフェ鉄道は西部に向かってどんどんレストランを開業するように要求しており、フレッドはその運営に懸命であった。当時の西部はビリー・ザ・キッド(Billy the Kid)事件やワイアットアープとドック�ホリデーの「OK牧場の決闘」のようなガンマンがのさばっている無法地帯であり、治安は最悪であった。
フレッドのレストランもその問題を抱えていた。ニューメキシコ州ラミー(Lamy)の店舗の責任者から「町にはギャンブラーや元南軍兵士の荒くれが跋扈し、食事をしても金を払わない。請求をすると彼らはピストルを抜いて町から出て行けと開き直ると」と救援の連絡が届いた。そこでフレッドは体の大きくいかつい顔をした従業員を連れて、店舗に行き荒くれどもに注意をせざるを得なかった。彼の店は何箇所も強盗の被害を受けていたが、それはお金で済む話だった。より深刻な問題は人種問題であった。当時の列車鉄道のサービスは黒人を使うのが一般的であり、フレッドのレストランのウエイターも黒人を使っていた。しかし、フレッドが展開している西部には黒人奴隷問題で北軍と戦い敗れた南軍の兵士が、仕事を求めてやってきており、南軍の敗残兵にとって黒人は不倶戴天の敵であり、その関係は大きな火種となり店舗で問題を引き起こしていた。顧客の暴力を恐れた黒人ウエイターは働いている間も拳銃を所有しなければならない状況に陥っていた。1883年春にラトンの店舗で酔っ払った黒人ウエイター同士で喧嘩となり、所有していた拳銃を発射し、その銃弾がインディアンの酋長を射殺するという大事件となった。インディアンは憤り、銃を発射した従業員を殺すと騒ぎ出したのだ。
そこでフレッドは従業員のトム�ゲイブル(Tom Gable、リーベンワース時代からの家族ぐるみの付き合いで、10代から郵便局で働いていたが、31歳になりフレッドの会社のレストラン部門で働きたいと転職した)と一緒に店舗に赴いた。ラトンの店舗に到着したフレッドは怒り狂い、その場でマネージャーとウエイターを解雇し、トムに今日から君がマネージャーだと告げた。そこでトムは黒人のウエイターを全員解雇し、その代わりに女性従業員をウエイトレスとして採用することを提案した。それも地元の女性ではなく、都会のカンサスから白人で独身の若い女性を連れてきてウエイトレスにすることだった。カンサスでは女性のウエイターは珍しくなかったが、治安の悪いニューメキシコでは考えられないことであった。
トムは若い女性ウエイトレスを採用すれば、男性の従業員や顧客の気持ちが和らぎ問題の発生が減ると考えた。また、当時の西部は女性が極端に少なく、独身の男性が結婚相手を探すのが困難であると言う問題も解決できるのではないかと考えたのだ。
フレッドは部下の話を注意深く聞きよい意見があれば採用する度量を持っており、トムのその突拍子もない提案を採用することにした。そして、カンサスにいる妻のサリーとトムの母親のマリー(Mary)とトムの妻クララ(Clara)、そして、デイブ�ベンジャミンとその妻に女性従業員を探さすように電報を打った。
最初の従業員は父親が鉄道会社で働いている18歳の美しいミニー�オニール(Minnie O’Neal)だった。両親は反対したが、高給(1ヵ月17.50ドル、現在価値で388ドル、+チップ)にひかれて働くことにした。

フレッドは優秀な女性従業員を採用するために、高給を支払うだけでなく教育と待遇にも留意した。出身地から働く場所までの列車運賃(サンタフェ鉄道沿いの場合)は無料とした。労働期間は契約で半年と定め、半年後には休暇を与え帰路は無料とした。
教育面ではサンタフェ鉄道や軍隊のように基準や規則を明確に定め、文書化し、トレーニングの方法も軍隊を見習いブートキャンプのような厳しい一ヶ月間の集中トレーニングを行った。そのトレーニング期間中に不適だと判断されると除隊と同様に退職させた。現地ではレストランの横に寮を用意し、寮母が厳しく監督をした。
半年、1年、と継続して勤務をした場合、そのことが誰にもわかるように特別製のブローチを用意し制服に着用させた。まるで軍隊の勲章のようにして従業員やる気とモラルアップを図った。
ルールや規則の作成に当たってはフレッドが基本的に構築し、その内容やトレーニング方法については会計の知識がある腹心の部下のベンジャミンがきちんと構築された会計システムとサンタフェ鉄道のマニュアルや伝達方法、軍隊の訓練方法、などを参考につくりあげた。
この女性従業員大量採用は米国における始めてのビジネスにおける女性に活躍の場を与えたと高く評価された。そして、このフレッドのレストランで働く女性は、ハーベイ�ガール(Harvay Girl)と呼ばれ憧れの職場となった。
では、そのFredが定めた様々な規則やルール、規格、マニュアルを見てみよう。

1)従業員心得

1.顧客の要望に誠実に応えなさい
2.客に毎日会う人のように親しく接しなさい
3.ニコニコした明るい態度で男性の客に接し、気楽にさせて家にいるようにくつろげるようにしなさい。
4.旅には美味しい食事が必要不可欠だと思いなさい。
5.料理に関する食材の知識、何処で取れたものか、季節性、供給業者、収穫量などを知っていなさい。
6.人間味がある自分を確立しなさい。
7.礼儀正しさと笑顔で顧客に接すれば、顧客はそれに報いてくれる。
8.顧客に差別をしない真のサービスを提供しなさい。
9.良さを保つだけでなく、新しい良さを作りなさい。絶対に壊さないこと。
10.顧客に接する技術は財産であり、正直さは美徳である。

2)従業員宿舎に張り出した従業員心得

1.従業員は自分の部屋の内装や壁に釘や鋲を打ち付けて傷をつけてはならない。
2.ゴミ等をトイレに捨ててはいけない。
3.風呂桶は使用後きれいに清掃しなければならない。
4.部屋やホールで大声で話したり、大きな笑い声を出してはいけない。
5.寮管理人の許可がない限り、門限は11時で、それまでに各自の部屋に戻らなくてはならない。
6.各自の部屋は整理整頓して清潔に保ち、制服は所定の場所に保管すること。
7.すべての従業員の服装は何時でも清潔できちんとしていなければならない。
8.床に決して唾や痰を吐いてはいけない。

上記のルールの目的は、各自との協力により寮を家のように快適な環境を保つもので、各自のためになるものである。

3)食品の品質基準

1.パン
パンは各店舗で焼き上げ、スライスする。スライスの厚さは1/8インチである。(9.5mm)
当時の西部におけるレストランや小売店で提供する食品の品質はひどいものであったが、
フレッドの店舗では厳格な規格で高品質の料理を提供するようにした。
2.コーヒーで使用する水
飲料水は定期的にアルカリ度をチェックし、もし高すぎるようであれば、最適な場所か
ら列車で店舗に運んでコーヒーを抽出しなければならない。
3.オレンジジュース
オレンジジュースは顧客の注文後、手で絞って新鮮な物を提供しなければならない。
もし、冷蔵庫などに絞ったジュースを保管しているのが発覚すれば、担当者は解雇され
る。
4.レシピー
総調理長のフィリップがフレッドの求める基準の料理になるようにレシピーを決めた後は、各店舗の調理人はそのレシピーに忠実に従わなくてはならない。
5.同じ料理を旅行客に提供しない
各店で提供する料理のメニューはシステム化しており、旅行中に旅行者が途中のハーベ
イ・ハウスを何回利用しても、同じコース料理や特別料理を食べることがないようにす
る。
6.味の向上のために各料理人の意見を取り入れる
フレッドは厳しい基準を定めているが、中央集権的で各店舗の創造性や向上心を抑圧す
るものではない。そのため各店の料理人やマネージャーは創造的で起業家精神を持って
いなければならない。各人が地元で良い条件の果物、野菜、肉、地鶏、を見つけたら、
自らの店舗でそれらを使用するだけでなく、その情報を他の店舗にも伝えて各店舗でよ
い食材を使用できるようにすることを心がける。
7.食材の輸送と品質の保持
新鮮な食材はサンタフェ鉄道の冷蔵車によって各店舗に配送されるが、冷蔵車は各店舗のシェフしか開けられないように鍵を掛ける。

これらの厳しい食材の基準は、料理の鮮度と美味しさを保つだけではなく、米国で初めて、本格的な欧州や英国の料理を大規模に広範囲の場所で提供するものであった。

4)サービスの基準
フレッドは食材の提供方法だけではなく、料理のサービス方法も明確に定めた。例えば飲み物の提供であるが、注文を受け付けるハーベイ・ガールは注文のメモを取らずに、各顧客の前においてあるカップと皿の向きを変えることで、次に飲み物を持ってくるハーベイ・ガールがその客にコーヒー、ミルク、紅茶、のどれを注げばよいかわかるようにする基準カップ・コード(cup code)を定めた。さらに顧客が3種類の紅茶のうちどの紅茶を注文したかもわかるように定めていた。
これらの厳しい秒単位のサービス基準を定めたのは、列車の食事休憩時間が30分と定められているからであった。
列車が到着しない限りハーベイ・ガールは暇であるが、フレッドはさらに規則を定めていた。顧客がレストランに到着したときに一番目立つ、ハーベイ・ハウスのシンボルであるコーヒーアーン(大型の真鍮で造られたコーヒー抽出機)をきれいに磨きあげなくてはならないのだった。
もっとも重要なハーベイ・ガールの職務はコーヒーの品質を保つことである。当時の
西部ではコーヒーは1日に一回まとめて抽出し、それを何回も温めなおして提供するの
が一般的であった。ハーベイ・ハウスではボストンのコーヒー豆の業者チェイス&サン
ボーンChase & Sanbornから仕入れた指定の豆を使い抽出し、抽出後のコーヒーは2時
間経過したら顧客の目の前で廃棄処分しなければならなかった。
(注:現在のファミリーレストランのコーヒーは抽出後、1時間、または30分、厳し
いチェーンでは18分後に廃棄処分にする。スターバックスなどのエスプレッソ系飲料は
注文後、抽出するという基準であり、100年以上前にこのような厳しい基準を打ち出した
のには感心させられる。)

使用する食器類(シルバー、銀食器)には全てフレッド�ハーベイの名前を刻み込んでいるが、特に仕事がない時には、それらを丁寧に磨き上げなければならない。

このハーベイ・ガールのサービスや仕事のマニュアル化、基準化によりフレッドのレストランの評価は一段と高くなり、それを見たサンタフェ鉄道はより多くの駅レストランの開業をフレッドに依頼するようになった。

以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America
Bantam Books

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