日本の食文化をつたえるこのメニュー 第5回 練馬の玄蕎麦野中(日本ハム広報誌 ロータリー2010年11-12月号)

西武池袋線練馬駅と中村橋の間の閑静な住宅街に、玄蕎麦野中という瀟洒な和風建築の蕎麦屋がある。どちらの駅からも徒歩10分ほどかかり、初めていく人は地図を使っても迷うほどの場所だ。
18年前の平成4年に11年間修行した練馬の名月庵田中屋(以下、田中屋と略す)の暖簾分けの形で、屋号を田中屋として開店した。地元では近所にある由緒ある寺の名前をつけて南蔵院田中屋と呼ばれていた。10年ほど前に田中屋を経営していた田中国安氏が店舗と屋号・経営権を売却した関係で、玄蕎麦野中と屋号を変更した。
経営しているのは野中和久さんと智子さん御夫妻だ。和久さんが調理を担当し、ホールは智子さんが担当する温かみのある家族経営だ。現在の店舗は両親が餡子屋を経営していた場所だ。父親が餡子屋の商売は掛売りが多く、野中さんに向いていないだろうとアドバイスし、野中さんは近所の繁盛店であった田中屋で蕎麦の修行を始めた。田中屋は田中国安氏(現在はひばりが丘で「たなか」というシンプルな蕎麦屋を自宅を改造して経営している)が40歳の半ばに蕎麦屋を開業したもので、最初は出前もする普通の蕎麦屋だったが、真剣に研究し練馬一の蕎麦屋となり、環七沿いに駐車場20台もある立地のためもあって、遠方から高級車に乗りつける客であふれるような繁盛店となった。
 繁盛した田中屋は蕎麦の器に輪島塗を使い、建物内外装もこだわっていた。野中さんが修行開始から5年ほどしたころ、立派なビルを建て内装を本格的な和風の店舗に仕立て上げた。新しい高級店舗では活け車海老を使ったてんぷらを提供しようと、野中さんは湯島の老舗てんぷらや天庄で修行するなど、建物設備、器、蕎麦技術、の他にてんぷら調理技術などを身につけていった。普通の蕎麦屋から高級蕎麦屋に成長する過程をまじかに経験したのが独立に役に立っているのだろう。
 筆者は40年以上前から田中屋に時々食べに行っていた。大喰らいの若者にとって蕎麦だけは物足りないが、てんぷら定食などのご飯ものを出していたのでそれが目当てだった。しかし、しばらくすると「当店は蕎麦屋だ」とご飯類をやめてしまった。また、経営者がお酒を飲まないので、メニューの酒類は少ないし、つまみもほんの少々だった。それで行く機会が減っていた。
 18年前に田中屋から車で5分ほどの場所に野中さんが独立してお店を構えたと聞いた。本店からすぐ近所で立地も悪いので、経営的には苦労するだろうと思った。早速訪問したが、とんでもない、開店早々行列のできる繁盛店だったのだ。
独立した野中さんのお店は、最初からお酒類やつまみも充実していたし、何より嬉しいのは定食こそなかったが、天丼が普通盛り(大盛りに近いてんぷらの量)とお子様天丼が揃っていたことだ。もちろん、お酒のつまみもお酒の種類も豊富だ。野中さんはお酒を一滴も飲まないのに関わらず、酒好きの気持ちを察しているようなおいしいお酒を置いている。筆者はテーブル上の七輪で焼き上げる天日干し小魚をつまみに生ビールを飲み、天丼を食べ、〆が掛け蕎麦か盛り蕎麦(2枚~3枚)だ。更に嬉しいことは、住宅街の立地と言うことで価格帯も田中屋よりもリーズナブルに抑えていることだった。ちなみに魚介天せいろが1600円(税別)、せいろ・かけ600円、小ぶりな海老の天せいろ1400円、大海老の天せいろ1650円、季節の天せいろ2000円だ。その他、1日10食程度限定の季節の蕎麦が800円~1000円。勿論、食後には野中家秘伝の餡子を使ったデザート、十勝おはぎアイス800円をそろえている。 
 近所に家族が住んでいた関係で年に数回ほど訪問するようになっていたが、2年半ほど前に田中屋が営業権と店舗を売却し、隠退してしまって以来訪問する機会が増えている。
 そんなファンの一人として野中さんに話を伺った。通常有名店で修行してお店を開くと有名店の味を頑なに守ればよいと思いがちだが、有名店との違いを出さなければ生き残れない。そのため、野中さんは味とサービス、雰囲気の面で色々な工夫を凝らしている。田中屋はメーカーに依頼して挽いた蕎麦粉を仕入れていたが、野中さんは日高製作所の石臼を使い、玄蕎麦を自家製粉している。蟻巣石を使用する手動の石臼で作った蕎麦も限定で提供するというこだわりだ。和風の建物も蕎麦屋にあうようにわざわざ設計した。当初はテーブル席と座敷であったが、年配の方が増えたので、足の悪い方でも座りやすいように、座敷にシックなカーペットを敷きテーブル席に仕立てた。料理だけでなく使う器も気を配っている。最初に出てくるのはお茶ではなく、黒豆茶という凝りようだ。
筆者が「味は何時も一定ですね」と聞くと、野中さんは「一定だといわれるが、出汁も蕎麦も常に研究と改良を重ねている。同じ味を保っていたら顧客は味が低下したと感じるのだろう。常に少しずつ味を向上させれば顧客は同じ味だと満足すると思って日々研究開発をしている。元の同僚や仕事仲間で集って研究し、その成果をお互いに教えあい、品質向上に生かしている。蕎麦の汁に使う醤油もヒゲタ醤油の特別製を使うなど材料にはこだわっている。蕎麦も国産にこだわり、季節により一番おいしい地方から新蕎麦を仕入れる。自分は厨房で調理をしているので外のサービスは見難いのだが、お客様に快適に食事をできるように気を配るようにしている」と語っている。野中ご夫妻の気配りと味、雰囲気はもう老舗と言っても良いだろう。玄蕎麦野中がこれからどのように進化を遂げて行くか楽しみだ。

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