マクドナルドの低価格戦略(商業界 月刊コンビニ2009年6月号)

米国の外食産業が急成長したのは政府の産業振興のためのモータリゼーション化だ。第2次大戦後の米国経済を急成長させるため時の大統領は米国全土を網羅する高速道路網計画を推し進めた。現在も各地に当時の大統領の名前をつけた高速道路があるのがその名残だ。その結果、自動車産業が急成長するだけでなく、自動車産業に鉄やガラス、ゴム、燃料を供給する製造業がともに栄え、米国の長い繁栄がもたらされるようになった。
このモータリゼーションは大都市に住んでいた人たちを郊外へ移動させるドーナツ化現象を引き起こし、交通の利便性はニューヨーク、シカゴ、などの大都市から地方都市への分散化現象を引き起こした。そして、郊外に居住する人たちのための新しいドライブインが誕生したわけだ。
そのうちの一つ、カリフォルニアでマクドナルド兄弟が第2次世界大戦の直前に考案したドライブインのハンバーガーレストランにレイ・クロック氏が魅せられ、1955年にマクドナルドシステム社(後にマクドナルドコーポレーション)を設立し、シカゴ郊外のディスプレインに同氏の1号店を開店した。
レイ・クロック氏が作ったシカゴの1号店は博物館として保存しており、創業当時そのままの店舗を見れる。燦然と輝くゴールデンアーチの看板にはバンガーガー15セントの価格とスピードサービスを象徴するスピーディーのキャラクターが掲げられている。メニューはハンバーガー15セント、チーズバーガー19セント、フレンチフライ10セント、その他ドリンクはミルク、ルートビアー、オレンジエイド、コカコーラ、コーヒー、などでそれぞれ10セント、ミルクシェイクはチョコレート、ストロベリー、バニラの3種類で20セント、と合わせて11種類という低価格の限定メニューだ。当時のドライブインレストランが提供する同じ料理の半額という低価格だったと言われている。そして、限定メニューと作り置きをしないで、注文後1分以内で提供すると言うスピードサービスを実現しファストフード業態のモデルとなった。
マクドナルドは1950年代から60年代における米国のモータリゼーションと経済の拡大とともに急成長を遂げ1966年にニュヨーク市場に上場を果たし、1970年には2000号店を開店した。
当初のマクドナルドはガラス張りで厨房が見渡せる、持ち帰りカウンターだけのセルフサービスの店舗で、客は買ったハンバーガーとフレンチフライ、飲み物を車の中か持ち帰って食べると言うシンプルな店舗であった。当時のドライブインレストランが若い女性従業員目当てに来店する不良少年のたまり場にならないように、真っ白な清潔なユニフォームを纏った男性だけの店舗であった。
しかし、1960年代にはいると生活が豊かになった顧客の要望は拡大していった。まず、メニューの拡大だ。当初はハンバーガーとチーズバーガーだけであったが、大型のハンバーガーの要望が出てダブルバーガーやビッグマックが、牛肉以外のメニューとして魚フライのフィレオフィッシュが誕生した。米国人の食事にとって必要不可欠なのは食後のデザートだ。その要求に応えるように甘党のレイ・クロック氏はアップルパイと、サンデーを開発した。また、当初はフレンチフライやドリンクは1種類のサイズであったが、大中小の3サイズが付け加えられた。
このようにメニューの多角化が実現すると当初は持ち帰りだけであった店舗に、客席を備えるようになった。最初は50席程度であったが売上の上昇とともに100から150席を備える大型店舗が誕生した。また、カリフォルニアのハンバーガーチェーンのジャックインザボックスは車に乗ったまま商品を購入できるドライブスルーを開発し、大人気となっているのを見たマクドナルドは1970年代には郊外型のドライブインレストランにドライブスルーを設置するようになった。また、ファミリー客の増大に伴い子供がゆっくりと遊べるプレイグランドの設置を行うようになった。
この1970年代は第1次と第2次の石油ショックが世界経済に大きな影響を与え物価の上昇が始まった。また、マクドナルド社の店舗の70%以上がフランチャイジーである。チェーンレストランは全国一律の価格が原則で、発足当時のマクドナルド社は15セントという低価格ハンバーガーが売り物であった。しかし、米国の公正取引委員会(FTC)はフランチャイジーに対し販売する商品価格を強制するのは独占禁止法に当たるとして、フランチャイズ本社の価格統制を認めていなかった。物価の上昇と独占禁止法の影響により地区によりマクドナルドの販売価格は異なり、都市部では安いハンバーガーというイメージは希薄になるという問題を抱え出した。
このような石油ショックなど影響による物価の上昇という問題を抱えていたが、マクドナルドの1970年代は売上と店舗数の急成長とともに店舗規模の拡大の時代であり、1970年代には日本をはじめとする海外への進出も開始した。
ハンバーガーはランチ需要がメインであったので、1970年代に従来は午前10時の開店だったものを朝食メニューの導入を開始し開店を早朝7時にすることで、売上を大幅に拡大することに成功した。その勢いでディナーメニューに強い競合のKFC社のメニューを分析し、チキンナゲットを発売した1980年がマクドナルドの黄金時代であった。
しかし、1982に同社を激震が襲った。今回の豚インフルエンザに対する対応で中心に動いている国のCDC(米国防疫センター)は毎年アトランタで会議を開くが、1982年の同会議で、オレゴン州やミシガン州のマクドナルドで販売されたハンバーガーによる食中毒の問題を発表した。CDC(米国防疫センター)ではその原因が腸管出血性大腸菌o-157であると発表し、翌日からマクドナルドの売上は30%も低下し、当時の牛肉離れというトレンドも影響し、本格的に売上が快復するのに10年ほど必要であった。
この食中毒問題への対策としてマクドナルド社は従来のレストラン的な視点での商品開発手法では問題は解決しないとして、食品メーカー大手から品質管理責任者をスカウトしてマクドナルド社の商品開発と品質開発の役員に任命した。そして、すべての商品の材料を単品ごとに、農場などの産地から加工工程、物流行程、加工機器の構造からメインテナンス、異物混入対策、などの詳細なチェックリストを作成し、ブラックブックと名付けた。そのブラブックはハンバーガーのパン(バンズ)、ミートパティ、などの単品ごとにA4判のファイルにまとめ全商品のファイルを重ねると床から天井まで届くような膨大な資料となった。品質や衛生問題は次々と新たな問題を抱える。そこで、原材料の加工工程から物流行程、店舗の調理システムまで総合的に監視をする品質管理部(クオリティアシュアランス)を設置し、抜き打ちの厳しいチェックを全世界で導入した。
品質管理だけでは売上の向上をすることは不可能である。1980年代に急成長したタコベル社はリエンジニアリング革命というローコストな店舗運営の手法で低価格を訴求し大成功した。その成功を見たマクドナルド社は1980年代の後半に同社のコンセプトを徹底的に見直すことにした。
1958年に2代目の社長になるフレッド・ターナー氏が作成し発行したマニュアルは80ページに満たないシンプルなものであった。しかし、そのシンプルなマニュアルには創業者のレイ・クロック氏の経営理念である。QSC+Vが明確にうたわれていた。マクドナルドの最大の強みは低価格のハンバーガーを最高の品質で、衛生的な店舗で素早い速度で出すというものであった。
その当時のマクドナルド社のオペレーションマニュアル(店舗向けの管理マニュアル)は総ページ数700ページという百科事典のようにぶ厚いものであったが、あまりの分厚さに創業の精神を忘れているとして、初代のマニュアルを参考資料として再印刷し、全社員と全店舗に配布した。
同時に、同社の商品価格の分析を開始した。その結果、当時の消費者がマクドナルドに抱くイメージは価格が高すぎるというもので、創業の精神とはかけ離れた結果であった。
そこで、各商品の価格がいくらであれば消費者は買うのかという価格調査を徹底的に行った。その結果、ある価格になると満足度が急上昇し購買につながることを発見した。そして、1ドルメニューの目玉商品や、割引のセットメニューを開発し、全国的なキャンペンを開始し、マクドナルドの原点である低価格(安いが高品質)なハンバーガーチェーンであることの訴求を開始した。この戦略は成功しマクドナルドの売上上昇が始まった。
日本でもこの当時は1971年の開店時に80円であったハンバーガーが210円まで上昇し価値観が薄れていた。米国マクドナルド本社は米国式の低価格戦略を日本に要求したが、日本マクドナルド社は単品価格の低下でなく、セットメニューの発売をすることにして1987年にサンキューセットとしてハンバーガー、ポテト、ドリンクを390円で発売し大成功した。しかし、競合のロッテリアは同様のメニューを380円で発売するなど、価格競争が激化し360円セットなどの泥沼の価格戦争に陥った。しかし、当時の日本マクドナルド社には低価格戦争を勝ち抜くだけの原資、つまり、低価格の食材供給が困難であった。その結果、熾烈な低価格戦争から撤退することになった。
そこで米国マクドナルド社は全世界で低価格戦略をとれるだけの原材料コストの見直しを行うことにした。それが、ブラックブックに基づく世界の食材の品質管理と価格の把握であった。すべての食材の品質を安定させるために品質管理部を世界3か所に常駐させ、そこにその地区のすべての食材を集めて品質チェックすることにした。この品質管理をプロダクトカッティングと名付け、牛肉、小麦粉、チーズ、などすべての食材ごとに、店舗運営責任者から、食材加工業者まで一同に会して食材の味身と評価を行いのである。パンであれば何種類もの異なる国の工場の製品を集め比較すると見るだけでのその商品の優劣がわかる。参加する工場の責任者は自社の製品が一目で悪いことがわかり、プライドにかけても改善をすることになった。この品質管理の手法により全世界から食材を調達しても品質に問題ないようになった。次に、世界各国の食材価格情報の共有だ。現在どこの国のどの原材料が最も安価であるかがわかれば、最も低価格の商品発売をすることが可能になるわけだ。
この原材料価格の低下を武器にマクドナルド社は2000年代に徹底的な低価格戦略を打ち出すことになった。それが1ドルメニューだ。しかし、2000年代の前半はマクドナルドに逆風が吹いていた。それは米国における健康問題であった。スーパーサイズミーという映画で1ヵ月間3食マクドナルドで食事をするといかに体に悪いかという健康問題を取り上げたものだ。また、環境問題へ問題点を指摘する本などが数多く執筆された。健康問題では低炭水化物ダイエットのアトキンスダイエットの高まりや、また、50年を経過したマクドナルド社店舗のイメージのダサさも問題になってきた。その当時のマクドナルドのイメージは商品価格は安いが、粗悪なダサい店舗だ、という芳しくないものであった。このファストフードの巨人の弱点を突くべく米国内ではファスト・カジュアルという健康志向の高級業態が大人気となっていた。ファスト・カジュアルの代表選手はスターバックスだ。高品質で高価格のコーヒーと、サードプレイスという居心地の良い店を武器に急成長し、ファストフードの売上を侵食したのだ。
そこで、マクドナルド社は2005年に創業50周年を記念して大幅な店舗イメージの刷新を図った。本社のあるシカゴ郊外のオークブルックの店舗を2階建てに立て直した。従来のドライブスルー店舗は屋根裏部屋型のクラッシックな店舗であったが、新店舗は黄色のかまぼこ屋根にして、スターバックスをイメージしたマックカフェを併設し、店舗外部にはテラスを設置した。店内には液晶のフラットテレビを何台も設置しニュースなどを常時放映し、1階にはゆったり座れるブース席、2階にはスターバックスを思わせるソファー。従来のタイル張りの固い床からカーペット。会議などの用途にも使えるような大型のテーブル席の設置、無線LANの設置をして顧客がインターネットに接続できるようにする。というモダンな店舗デザインだ。
メニューの刷新も図った。低価格メニューはそのままだが、健康問題の解答としてサラダメニューや高級なチキンサンドイッチの導入を図った。同時にイメージアップのためにサラダの販売促進で若者に人気の歌手グループのディスティニーチャイルドを採用し、店内ポスターやバックグラウンドミュージック、コマーシャルに使用した。マクドナルド社はファスト・カジュアルの台頭を分析し、従来の赤と黄色を使った行燈タイプのプラスチック看板から、黒字に白のお洒落なネオン型の看板に変更した。
この店舗のイメージアップは低価格で引き寄せた客をより健康的で高額のメニューを購入させることに成功したのだ。
このイメージアップの傍らマクドナルド社は店舗収益性の向上に力を注いだ。低価格戦略で利益を上げるには売上を伸ばす必要がある。そこで、既存店の売上を最大限に伸ばすために、ドライブスルー店舗の基本的な営業時間を24時間とし、その他の店でも開店時間を早朝6時、閉店を深夜0時と大幅な営業時間の延長を実施した。また、従来は朝食、ランチ、夕食の3毛策であったが、昼から夕方の時間にスターバックスを意識したグルメコーヒーやデザート、夕食後から朝食までの時間帯に軽食を開発した。これにより、低価格でありながら、客数を伸ばし結果として売上の増大に成功した。

では、日本マクドナルドの低価格戦略を見てみよう。日本マクドナルドも円高という神風も武器にハンバーガーを創業時の80円という価格で発売を開始し売上を大幅に伸ばすことに成功し、一時は65円まで価格を下げ、その勢いでジャスダック上場に成功した。その後、円安という問題から同社の価格戦略は揺らぎ、日本マクドナルド創業者の藤田田氏が退任し、米国主導の経営になった。日本マクドナルド社は米国式の徹底した低価格の訴求を行うため、米国と同レベルの100円マックを武器にして低価格を徹底している。
低価格戦略は簡単であるが、利益を出すのが難しい。マクドナルド社の低価格で利益を出す手法を分析してみよう。低価格戦略を支える基本は、損益分岐点という考え方だ。
損益分岐点の算出は、損益計算書の各経費を、毎月売上に関係なく固定的に発生する固定費と、売上に比例して発生する変動費に分ける。次に固定費の総額と、変動費の総比率を計算する。100から変動費を差し引くと固定費率が出る。固定費総額を固定比率で割った物が、損益分岐点である。損益分岐点が低い方が売上が延びたときの利益高が高く、低くなっても赤字額が少なくなるのである。
低価格の商品を発売すれば原価率が上昇し、利益率は下がってしまう。しかし、従来の売上を上回る売り上げになれば、増加売り上げには固定費の増加は必要ないので、大幅な利益となる。
マクドナルドは低価格商品を顧客誘導の目玉として使う。100円マックがその例だ。コマーシャルの100円マックにひかれて店舗を訪問し、カウンターに行って100円マックを注文しようとしても、写真入りのPOPにはセットメニューの告知しかないので、思わずセットメニューを注文してしまう。しかし、セットメニューの価格は高いが、単品で買うより安いし、ボリュームも多いので文句も出ない、しかも客単価を維持できる。もちろん、100円マックを買うことも可能だ。
マクドナルドは客数と客単価、売上を詳細にチェックしている。低価格の100円マックを訴求すると客数は大幅に伸びる。しかし、客単価は上がらないから売上は横ばいだ。そして、100円マックで客数が増加したのを見計らい次は、クオーターパウンダーや季節商品等の高単価商品の販売だ。100円マックをやめてもしばらくは客数が低下しないから高単価商品で客単価が上昇した分売上が上がるのだ。しかし、しばらく高単価商品を訴求していると客数が低下する。そこで、メニューを変更して目新しさを出した100円マックの訴求だ。この繰り返しで、客数の上昇と客単価の上昇をじりじりと進める巧妙な戦略だ。
価格戦略におけるマクドナルドの巧みな戦略は、年代別に顧客を分けて詳細な分析をすることだ。子供客に対しては玩具をつけたハッピーミールの訴求、そして、キャラクターのドナルドを使った店舗での販促戦略を実施する。ハッピーミールの場合も時には自社のキャラクターだけではなく、子供向けの映画などとタイアップして魅力をつける。また、ハンバーガーだけでなく、全時間帯の売上を上げるために、朝食メニュー、アイドルタイムのデザートやコーヒーメニュー、深夜帯の利用訴求、など全時間帯の売上が向上するようにする。もちろん、全時間帯の訴求に伴い、ドライブスルー店舗や繁華街型店舗のほとんどは24時間営業にする。
価格戦略ではテレビコマーシャルだけでなく、携帯電話を使ったクーポンの配布を実施する。従来は店舗ごとに、店長やフランチャイジーの判断でクーポンを配布していた。しかし、携帯電話によるクーポンの配布は店長やフランチャイジーの判断なしに全国レベルでの低価格戦略が可能となる。実際にマクドナルドの店舗を訪問すると顧客のほとんどが携帯電話でもクーポンを使用しているほど効果が高い。
この低価格戦略は売上を上げて維持するのには大変効果的であるが、マクドナルド本社やフランチャイジーの収益を圧迫する。特に、携帯電話のクーポンやテレビコマーシャルを使う100円マックは収益を圧迫する。その対策として、日本マクドナルドは店舗のフランチャイズ化を推し進めている。本家の米国マクドナルド社は元々フランチャイズ比率が80%ほどと高い。しかし、日本マクドナルド社は創業者の故藤田田氏の経営方針により直営店中心の店舗展開であり、フランチャイズ比率は30%程度と低かった。日本マクドナルド社は故藤田田氏の経営方針により店長を初めとする社員の給与を高く維持していた。それが創業30年を超える現在では収益に大きな負担となる。そこで、米国主導となった日本マクドナルド社は大胆なフランチャイズ化を推し進め、フランチャイズ比率をすでに45%近くまで上昇させ、将来は米国と同じ比率を目指している。フランチャイズ化により直営店舗の社員は不要になり、店舗を管理する部門や本社の管理部門の人員などを含めると大幅な人件費削減が可能となる。あまった直営の社員は解雇するのではなく、フランチャイジーに売却する店舗に出向という形で派遣する。そして、将来的にはフランチャイジーに移籍させる。フランチャイジーにとてってもトレーニング済みの社員を確保できれば店舗の拡大は容易になるわけだ。
ではフランチャイジーにとって低価格商品発売にともなう収益の低下はどうすれば補えるのだろうか。米国マクドナルドや日本マクドナルドの従来のフランチャイズ政策は、個人フランチャイジーであった。個人のフランチャイジーがじっくりと経営にあたり、余裕が出てから次の店舗を開店するというスローペースの戦略だ。これは一人のフランチャイジーが大量の店舗を展開することにより、発言力を持ったりすることを恐れてのことだった。しかし、全世界で3万店を超える規模になったマクドナルド社にとってフランチャイジうーのコントロールはそう難しいことではなくなった。そこで、マクドナルド社はフランチャイズ展開の経営方針を大幅に変更し、法人による大量展開を認めることにし、2008年9月2日、千葉県にある直営90店を、12月1日からフランチャイズチェーン店に切り替えた。2007年末に30%だったFC店の割合を2008年末までに45%に引き上げる計画だ。千葉地域で90店舗を引受けるフランチャイジーは日本マクドナルドに「フィレオフィッシュ」などの材料を供給している千葉県の水産加工会社デルマールだ。その他、高知、山形、新潟の各県で全店をFC化しているほか、2008年11月より群馬、長野の両県でも全店をFC化を実施した。
フランチャイジーにとって1店舗では収益性が低くても、大量に店舗展開を可能にすることで、会社全体としての収益を確保できるというフランチャイズ戦略だ。
このようにマクドナルドの低価格戦略は単なる価格政策ではなく、マクドナルド創業時からの経営理念を元にどうやって売上と収益の拡大を可能にするのか、綿密に構築されているのがわかるだろう。

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