NEWSな外食2012<特別企画>「低価格競争の限界か ハンバーガーと牛丼」(商業界 飲食店経営2012年9月号)
「牛丼チェーン低価格競争による沈没をしり目にマクドナルド『高単価商品投入』の勝算」
5月の既存店売上高でマクドナルドが-11/0%、すき家-10.8%減少し、それまで両社が成功していた低価格戦略に限界が出ているのだと言われるようになった。
しかしながらよく見てみると牛丼業界とハンバーガー業界では事情が異なるようだ。そこで、牛丼業界の問題点、マクドナルドの抱えている問題点と分けて見ることにする。
1)牛丼業界の問題点
今年1月に調査会社のエヌピーディー・ジャパン(米国のNPD子会社)は「牛丼チェーン利用者の客単価は11年が404円で4年前より58円低下。値段の安さに対する満足度は「満足」と「非常に満足」の合計が81・4%に達し、同8・1ポイント上昇した。味や待ち時間に対する満足度も高まったが、価格に比べ伸びは小幅。牛丼のシェア拡大は店舗数の増加も影響しているとみられる。」そして「値下げによる効果がいずれ頭打ちになるのは必至で、素材や高級感など価格以外の要素がシェア競争に新局面をもたらすかもしれない」と指摘していた。
5月にすき家の既存店が-10.8%と極端に減少しているが、よく見てみると2011年9月から既存店の売上は前年を下回っていた。そこで、すき家の最近5年ほどの店舗数の伸びをゼンショー発表のIR資料から見てみた。
総店舗数 純増店舗数
2008年7月末 1054店
2009年7月末 1283店 229店
2010年7月末 1474店 191店
2011年7月末 1651店 177店
2012年7月末 1783店 132店
2012年7月末総店舗数は1783店舗で、年間で132店舗増、4年間で729店舗もの増加となっている。
これは米国産牛肉入手難で価格を下げられない吉野家を一気に抜き去ろうと低価格戦略と新店舗増加という積極的な展開を行った結果だ。もう1つの波乱要因は三光マーケティングフーズが展開している「焼き牛丼・東京チカラ飯」だろう。2011年6月9日1号店開業以来、すでに100店舗近い展開を行っている。すき家とチカラ飯をあわせると過去1年で230店舗ほどの純増となる。人口が増えたり所得が増えている時代には問題ないだろうが、現代のような人口減少とデフレ経済の中では厳しい自社内競合が発生しているといわざるを得ないだろう。また、新店舗展開を拝見していると立地に問題もある場所、初年度は良くても数年すると売上の伸びが止まる立地、等に出店しているように見受ける。自社内競合と悪立地の出店がすき家の売上不振の大きな原因ではないかと思われる。
2)マクドナルド
<1>自社内競合の分析
マクドナルドホールディングス社の決算を元に店舗数の動向を見てみよう。
年度末 新店 閉店 年度末店舗 広告宣伝費率 当期純利益(百万円
2005年 3802 4.7% 60
2006年 90 64 3828 4.8% 1549
2007年 87 169 3746 6.2% 7819
2008年 88 80 3754 6.1% 12393
2009年 70 109 3715 5.4% 12809
2010年 73 486 3302 4.6% 7864
2011年 101 105 3298 4.1% 13298
2012年半期 30 29 3299
2005年度末の総店舗数3802店舗に対し、2011年度末の総店舗数3298店舗と大幅な店舗数減少だ。これは2010年度に効率が悪く、小型の店舗を大幅に閉店したためであり、基本的に新店舗の増加があるわけではない。
競合関係を見てみても、ロッテリア、モスバーガーの国内ハンバーガーチェーンも大規模な新店舗開発をしていないし、外資系のバーガーキングやウエンディーズも新規出店は僅かである。
<2>マーケティング費用の減少
そのような無風状態の競合状態であるのに5月に何故既存店売上を大幅に減らしたかというと、マーケティング戦略のブレがあるのではないかと思われる。上記の表で注目しなくてはいけないのは広告宣伝費用比率である。マクドナルドなどのファストフード業界では売上高は広告宣伝費、特にテレビコマーシャルの総視聴率GPAに直結する。その比率は2005年の4.7%から徐々に増加し、2007年6.2%、2008年6.1%に達していた。しかし、それ以降2009年には5.4%、2010年4.6%、2011年にはなんと4.1%まで低下している。
2011年には東日本大震災があり、売上に大打撃を受けたことと、自粛ムードによりコマーシャルの放映を控えたこともあるのだろうが、広告宣伝費率を下げているのが、現在の売上不振の一番大きな原因ではないかと思われる。
<3>月次のマーケティング戦略
次は月次のマーケティング戦略を見てみよう。マクドナルドの基本的なマーケヒング戦略は客数を増加させるディスカウント戦略と、客単価を上げる高単価商品戦略の2つである。子供や学生に人気のあるマクドナルドの年間売上高の最も高いのは夏休みの7月後半から8月、そして、年末年始の休みだ。春休みのある3月も良い。休みが多く家族で外出をするゴールデンウイークのある5月も良い。
今回はその良いはずの5月に既存店の客数を大幅に減少させているのが注目されているわけだ。5月にコーヒーを100円に値下げして、さらに価値観のあるセットメニューを販売したのであるが、客単価が大幅に減少し、客数増加がそれを補えなかったようだ。本来4月が新入生や新入社員が増えるので新規顧客を取り込むため、ディスカウントメニューを販売し、休みの多いゴールデンウイークに高単価商品を販売すれば、客数が減少しないで、客単価が上がり、売上が上がるはずである。その戦略がほんの少しだけ、ずれたのが売上減少の大きな原因であろう。自社内や他業界との競合が原因ではない。
<4>日本マクドナルドのマーケティング戦略の変化
2001年、日本マクドナルド創業者であった故藤田田氏が社長時代に低価格戦略がブレて消費者の不振を買い、退陣に追い込まれた経緯がある。その後をついで3代目の社長に就任したのが現社長の原田泳幸氏だ。ここで、両氏のマーケティング戦略を見てみよう。
1971年に米国マクドナルドは故藤田田氏と合弁会社を設立し、1号店を銀座に開店した。それ以前から米国マクドナルドには日本の商社が日参して提携交渉をしていた。その中でもマクドナルドに熱心であったのはダイエー創業者の故中内功氏であった。氏は日本人として初めてマクドナルドのハンバーガー大学で学んだことを自慢するほどであったが、食品に全く関係のない故藤田田氏が知人から米国マクドナルド創業者の故レイ・クロック氏を紹介され、二人は意気投合し合弁会社を設立した。
故藤田田氏は終戦後の東大学生時代から、米軍キャンプにアルバイトなどで出入りするうちに、ユダヤ人と友人となり、雑貨製品の輸出入会社を経営するようになった。米国との取引をする故藤田田氏は米国との取引で利益を上げているにもかかわらず、米国に対するあるわだかまりを持っていた。それは故藤田田氏の友人たちが招集され戦死をしていたためだといわれている。創業時の故藤田田氏のオフィスにはゼロ戦の写真や日章旗が飾られていたほどだった。
また、故藤田田氏は日本語に対するこだわりがあった。それがMcDonaldをカタカナ風にマクドナルドと発音させたり、キャラクターのRonaldをドナルドと命名させたのだ。マーケティング戦略では絶対に米国のハンバーガーだといわせないようにしていた。それは日本人の米国人に対する微妙な意識を考慮していたからであった。その意味では、現社長の原田泳幸氏になって販売して大成功したビッグ・アメリカなどは思いもよらなかったろう。故藤田田氏は米国マクドナルドのマーケティング戦略や商品戦略をそのまま日本に持ち込むことなく、日本的な味付けをして慎重に導入していた。そして、米国から学ぶだけでなく、日本からも教えようとしていた。その例が、パナソニックに開発させたPOSの米国導入であるし、日本独自開発のパルスフライヤーやクラムシェルグリルなどである。商品では日本マクドナルドが開発したテリヤキマックバーガーがある。
日本マクドナルドを日本外食業界のトップに仕立てた功績のある故藤田田氏であるが、段々、米国マクドナルド経営陣と溝が深まるようになった。引退した故レイ・クロック氏やその後継者フレッド・ターナー氏が経営陣にいる間は良かったが、故藤田田氏の知らない若い経営者が米国マクドナルドをコントロースするようになるとより難しい関係となっていった。そして、日本マクドナルド上場により筆頭株主でなくなった故藤田田氏は低価格戦略のブレによる売上不振を米国側に追求され、やむなく、退任することになった。色々な理由があるようだが、米国マクドナルドは故藤田田氏に対して大変警戒心を持っており、氏の死後の日本マクドナルド社長に就任した原田泳幸氏の最大の仕事は故藤田田氏時代の社員のリストラであったといわれたくらいだ。現在の日本マクドナルドやマクドナルドホールディングスには故藤田田氏の名前すら見出すことができないほどだ。
3代目社長に就任した原田泳幸氏と故藤田田氏に共通する点は、両社とも素晴らしいマーケティングセンスを持っているということだ。原田泳幸氏は日本アップルの社長の経験があり、米国企業の経営姿勢やマーケティング戦略を熟知しているが、故藤田田氏とは経営戦略が全く異なる。原田泳幸氏は米国マクドナルドが開発したマーケティング戦略をそのまま導入するし、厨房の機械や店舗デザインも米国マクドナルドの物をそのまま素早く導入する。それが成功する場合もあるが、失敗する場合もあるようだ。
<5>商品戦略
次に商品戦略の問題点を見てみよう。コーヒーの商品力における日米の違いを認識していなかったようだ。英国移民が中心に建国した米国であるが1773年のボストン・ティーパーティ事件をきっかけにコーヒーが国民的な飲料になり、第2次世界大戦時の砂糖とクリーム、コーヒー豆の入手難によりビクトリーコーヒーという名目で薄めのブラックコーヒー(いわゆるアメリカンコーヒー)を飲むようになった。そのような歴史のある米国ではコーヒーを低価格にすることは大きなマーケティング上の武器となるのであるが、多様化した飲料がある日本では米国ほどインパクトが無かったようである。
もう一つの商品戦略では5月にチキンを中心にした新商品を販売している。チキンはある程度人気があるが、ビーフハンバーガーほど強烈なインパクトはない。なぜチキンを販売したかというと、そこに米国マクドナルドの経営陣の変化があるのではないかと思われる。
<6>米国マクドナルド社の体制の変化
米国マクドナルドでは7月1日から新CEOにDon Thompson氏が就任する。2004年にマクドナルド7代目CEOに就任し、株価を低迷した25ドルから最高100ドルまで上げたJim Skineer(ジム・スキナー)氏の後継者だ。Don Thompson氏は黒人出身で、元エンジニアの中途入社というユニークな経歴を持っている。では過去の米国マクドナルドのCEOを見てみよう
a.歴代CEOの就任期間
創業者・初代CEO レイ・クロック Ray Kroc、 1955~73
2代目 フレッド・ターナー Fred Turner、 1973~89
3代目 マイク・クインラン Michael Quinlan、1989~98
4代目 ジャック・グリーンバーグ Jack Greenberg、1998~2002
5代目 ジム・カンタルーポ Jim Cantalupo、2003~04
6代目 チャーリー・ベル Charles Bell、2004年に7ヶ月
7代目 ジム・スキナー Jim Skinner、 2004年11月から
出所 http://www.mcdonalds.com 』
b.マクドナルドのCEO育成方法
米国マクドナルド社はレイ�クロック氏がマクドナルド兄弟からマクドナルドのブランドを買い取りシカゴに創業したのが始まりだ。レイ�クロック氏の後を継いでCEOに就任したのは、若い時代からレイ�クロック氏の初めての社員となったフレッド�ターナー氏だった。その後を継いだのは学生時代からマクドナルド本社でアルバイトをしていたマイク�クインラン氏だった。その頃のマクドナルドCEOの条件は店舗から経験のある叩き上げの人だ。しかし、会社が大きくなりCEOに求められる能力が複雑になるにつれ、叩き上げの人では会社の舵取りが難しくなった。そこで、当時会計士出身の財務の責任者であったジム�カンタールポ氏が店舗運営出身以外から初めてCEOに就任した。
しかし、カンタールポ氏は病で急逝し、その後を継いだ初の米国外出身者の(オーストラリアのアルバイトからの叩き上げ)チャーリー�ベル氏も直腸がんで亡くなり、現場出身のジム・スキナー氏が後を継いだ。
しかし、Don Thompson氏の経歴はかなり変わっている。Thompson氏は大学で電気工学を学び、ヘッドハンターにスカウトされてマクドナルドに転職した。ヘッドハンターに声をかけられた時に、氏はマクドナルドが航空機などの国防産業の大手McDonnell Douglas社だと誤解をしていた。
Thompson氏はシカゴ市の南部で育ち、中学校時代には数学と科学が得意だった。優秀な成績を収めていた氏は、ある時にPurdue University’s School of
Engineering and Technologyのマイノリティ(少数民族、主に黒人やメキシコ系の人達を意味する)向けの奨学制度担当者(Minority Engineering Advancement Program (MEAP))に見いだされPurdue 大学で電気工学を学んだ。
大学を卒業後、シカゴ近くにある国防大手のNorthrop Defense Systems 社(現在はNorthrop Grumman社) に入社しプロジェクト・エンジニアとして働いていた。しかし、やがて米国経済が不振に陥り、多くの会社はリストラを開始しまし、ある日、ヘッドハンターにロボット制御の仕事に転職をしないかと声をかけられた。ヘッドハンターがマクドナルドと言ったので氏はてっきり国防航空機産業のMcDonnell Douglas社だと思ってしまった。一度は断ったのだが、マクドナルド社のエンジニアが氏に「マクドナルド社を見学に来ないか」と親切に声をかけてきてくれたので、転職を決意し1990年にマクドナルドにエンジニアとして転職した。
マクドナルドでのエンジニアとしての仕事は大変面白いしやりがいのあるものだったが、Thompson氏は何か満足感を感じなかった。そこで、マクドナルドのカウンセラーに相談し、エンジニアの仕事を離れて品質管理の仕事に就いた。Thompson氏は品質管理チームの一員として全米40の地区本部を飛び回って、各地区本部が抱えている品質上の問題点を解決しするために、新しい手法を生み出す成果を出した。それを見込まれ次は店舗運営の仕事につくことになった。 Thompson氏の試練はハンバーガーを焼く能力だった。上司に「マクドナルドで店舗運営の仕事をする人は店舗の全ての仕事をマスターしていないといけないのだ。もし君が店舗の全ての仕事をマスターしないと店舗管理の責任者にはなれないよ」と冷たく言われ、スーツを脱いでアルバイトのユニフォームに着替えて働き出したのだった。早朝の準備作業から、深夜の清掃までやらされた。Thompson氏は時間帯責任者から店長まで昇進し、仕事を楽しんでこなすようになった。
実績を積んだThompson氏は運営部長として新しい地区に移動し、1998年にはサンディエゴの地区本部長に昇進した。店舗のサービスと清潔さを改善し、地区におけるマーケティング目的を明確に打ち出し、地区のアルバイトや社員がやる気をだすインセンティブプログラムを導入した。売上を上げるためにはハンバーガーを29セントで販売する、低価格戦略を打ち出し,客数を増大させた。就任後1年もしないうちにサンディエゴリージョンの成績は全米で2位に上昇した。
2000年にはThompson一家はマクドナルドが本社を構えるイリノイ州に呼び戻され、中西部地区の社長に昇進。しかし、全米の店舗の売上が低迷を始め、氏は再びサンディエゴに呼び戻され西部地区の4,000店舗を任された。氏は会社の方針を明確に一本化すると既存店対前年比売上はぐんぐんと伸び始め、売上記録を更新するようになった。2007年の11月には過去56ヶ月連続で既存店の対前年比売上はプラスを記録した。そして、Thompson氏はイリノイ州に副社長として帰任した。
その当時のマクドナルドは2人のCEOを連続に病に失うと言う不幸に襲われていた。ジム�カンタールポ氏James Cantalupoを心臓発作で、チャーリー・ベル氏CharlieBellを癌で失っていた。Thompson氏は米国内マクドナルドのCOOに2006年8月に就任した。
C. Thompson氏のサポート
米国マクドナルド社が重視する経営陣は運営、マーケティング、財務(フランチャイジーの管理も含む)の3つだ。それらの中で運営は店舗の営業成績を左右するので一番重視され、店舗からの叩き上げが担当するようになっている。CEOに就任したThompson氏は店舗での経験を積んでいるがそれでも充分でないし、海外の経験もない。そこでThompson氏をサポートするCOOの座にAsia-Pacific, Middle East and Africa,(通称 APMEA)社長のTim Fenton(54歳)を抜擢した。Fenton氏はマクドナルド勤務39年(アルバイト時代から)のベテランで、ヨーロッパ等海外部門の要職を経験し、AMPMEA社長時代には原田泳幸社長の直属の上司であった。
このAPMEAの地域は日本の売上不振が足を引っ張っている。東日本大震災後の1年間は止むを得ないが、1年以上経過した5月の不振を言い訳するのは苦しいだろう。原田泳幸氏をよく知っているFenton氏が日本をどのようにするか目を話せないようになっている。
D.Thompson氏の影響
マクドナルドの新任CEOに就任したDon Thompson氏(49歳)は就任してから初めての記者会見を行った。ヨーロッパの経済危機、東南アジアの落ち込み、米国の不振、等、マクドナルドは世界的規模で危機に陥っている。今年に入り他のファストフードの株価が+3%に対して、マクドナルドの株価は-12%になっている。それらを挽回するために低価格のチキンメニューを開発すると発表した。チキンメニューを取り入れるもう一つの理由がカロリーが低いからだ。ビッグマックは550カロリーに対して、6個入りのチキンマックナゲットは280カロリーに過ぎない。そこでマクドナルドはSpicy Chicken McBites 410カロリーを発売する予定だ。
Thompson氏はCOO時代にマックカフェMcCafeのコンセプトや24時間営業、ダブルドライブスルーレーン、等を積極的に導入している。現社長の原田泳幸氏はその新CEOのThompson氏の発表している新しい戦略をそのまま、素早く日本に導入しようとしているようで、今後、その成否が問われることになるだろう。