米国繁昌店シリーズ 第8回「マクドナルドとKFCの1号店」(日本食糧新聞社 外食レストラン新聞2000年5月1日)
前回はスターバックスの原型であるベイエリアのピーツコーヒーの1号店を見てみた。今回は今では大チェーンとなったKFCとマクドナルドの創業一号店はどうだったか見てみよう。
両社とも一号店を博物館として当時のままの状態で保存しており、創業当時の営業のやり方を学ぶことができるようになっている。どんな大チェーンでも最初は個人の食堂として営業を開始したのであり、そのやり方を学ぶことで、皆さんのお店を大繁盛させることが可能になるかもしれないのだ。
KFCの一号店 Sanders Cafe
会社のページ
http://www.kentuckyfriedchicken.com/
歴史
http://www.kentuckyfriedchicken.com/colonel_hx.htm
一号店のレイアウトと外観
http://www.kentuckyfriedchicken.com/Townsquare/Cafe%20Virtual%20Tour/index.htm
住所
exit 29 on Interstate 75 in Corbin, KY.
問い合わせは931-381-3000 (内線1)
KFCの一号店はサンダースカフェとよばれていた。創業者のカーネル・サンダンダースはこのテキサスのカービンという田舎町の州道沿いで旅行客用のモーテルを経営していた。宿泊客の要望によって、ガソリンスタンドと食堂を作ったのだ。
南部ではフライドチキンはポピュラーな食べ物であり、旅行客にも当然フライドチキンを提供していたのだ。特殊な調味料と、圧力鍋での調理に工夫を凝らしていたので、フライドチキンは人気商品であった。
内部は博物館になっており、当時そのままの状態を再現してある。厨房は普通のレストランと同じであり、当初はレンジの上で一般的な圧力鍋を使用し調理していたのが良く判る。もう一つの特徴のある展示はスパイスだ。カーネル・サンダースは11種類のスパイスを調合し、塩と、小麦粉と混ぜ、圧力釜とそのスパイスを使うことで独自の味を作り出していたのだ。
では、骨付きのチキンを圧力鍋で調理するメリットを見てみよう。
圧力フライの原理
オープンフライヤーで調理した場合、肉温が70度C以上になっても、骨の内部の髄温は60度C位であり、骨から血の色をした髄液が流れ出して食欲を減少させるのである。180度Cの油温でフライしても、常圧では水は100度C で沸騰するので、水分がある限りは品温を80度C 以上にすることは難しい。肉の温度を上げようとすると、肉は水分を失い固くなってしまうのである。
圧力をかけてフライを行うと、水の沸点が上昇するため、加圧の程度に応じて100度Cよりも高い温度にフライ材料を短時間で加熱することが出来る。1.85気圧~2.0気圧でフライすると、水の沸騰温度は116度C~121度C になり、肉の内部温度は90度C に容易に達する。その為に、骨からの肉離れがよく柔らかい。髄液の温度が80度C以上に上がり固まって、流れ出す事がなくなる。その為、肉の内部の黒ずみがなく髄液の臭いも出難い。圧力をかけて短時間で調理する為、肉の旨味を含んだ水分を失う事がなく、ジューシーなフライドチキンになるのである。
180度Cに加熱した油にチキンを入れ、蓋をする。加熱されたチキンから水蒸気が出て釜の内部の圧力を上昇させる。一定の圧力に上昇した後は、圧力調整弁から余分な蒸気を逃がしながら、一定の圧力を保つようにする。180度Cの油に入れられたチキンは表面がキャラメライズされ、内部の水分の流失を防ぐ。チキンを入れてから数分で油の温度は130度Cまで下がってくる。その温度でも、水の沸点が116度C以上なので肉の調理は充分に行えるのである。油の温度を130度C以上に保つように火の調整をする。余り温度が低すぎるとチキンの出来上がりがオイリーになるので、好みにより温度を調整する。
この圧力フライの原理はカーネル・サンダースが特許を取得し、独特の11種類のスパイスとともにだれにも真似のできない味を作り上げ世界最大のチェーンになったのだ。
このサンダースカフェは1940年に開業したが、その10年後の50年に州道の代わりにハイウエイが建設され、店舗前の通行量が減少した為、売上が激減し、商売をやって行く事が出来なくなった。そこで、カーネル・サンダースは11種類のスパイスを調合したフライドチキンの調味料を売り出し、やがては調理方法や経営の方法の指導までするケンタッキーフライドチキンと言うフランチャイズチェーンの展開に発展したのである。
そしてチェーン店が600店になった64年に会社をジョン・ブラウン等のビジネスマングループに売却し、それから本格的なKFCのチェーン展開が開始された。会社を売却後もカーネルサンダースはトレードマークの白のスーツと帽子に蝶ネクタイと言う格好で、亡くなるまで世界中を飛び歩きフライドチキンの普及をしていたのだ。
マクドナルドの一号店
http://www.mcdonalds.com/corporate/info/museum/index.html
住所
McDonald’s #1 Store Museum
400 N. Lee Street
Des Plaines, IL 60016
創業者のレイ・クロック が1955年に一号店を開店したときの売り上げはたった366ドルだったそうだ。でもこの一号店を見学してみると45年前のレイアウトと現在のマクドナルドのレイアウトがさほど変わっていないのに驚かされる。それだけ一号店の設計が優れていたのだと言えるだろう。でも実はレイ・クロックはマクドナルドの本当の生みの親ではない。
しかも、マクドナルドはハンバーガーチェーンとしては最初の企業ではない。米国のハンバーガーレストランチェーンの第一号と言われているのはホワイトキャッスル社だ。
http://www.whitecastle.com/
1921年にカンサス州のウイチタで一号店を開店している。ホワイトキャッスル社は焼いた挽肉をバンズに挟んで提供するという今のハンバーガーチェーンの商品を既にそのときに開発していたのだ。
そんな米国に多いハンバーガーショップを作ろうと、カリフォルニアのある町で、ディックとマックという、マクドナルド兄弟が1950年にまったく新しいファーストフードレストランを考案した。今までのドライブインレストランと異なり、ウエイトレスや陶器の皿を使わない、セルフサービス方式のドライブインレストランである。これが現在のマクドナルドの原型である。そこでは、一種類のハンバーガーとフレンチフライ、シェイク、コーラという限定メニューであった。マクドナルド兄弟は、当時の巨大産業であった自動車産業、特にフォードのコンベアーシステムの生産性の高さを参考にしようと、当時の自動車工業界で使われていたインダストリアルエンジニアリングという作業改善の手法を用いてハンバーガー店の設計を開始した。店を作る前にテニスコートに原寸大のレイアウトを描き作業性を検討したのだ。この高い生産性を可能にしたレイアウトが現在のマクドナルドの繁盛ぶりを築き上げたと言って良いだろう。
マクドナルドの初期の頃のメニューはハンバーガーが1種類であり、そのため全メニューで10品目くらいであったのである。そのためハンバーガーを事前に調理してウオーマーに保管しておき、オーダーがあったらすぐに提供できるようにしていた。これをストック・ツー・オーダーシステムと呼ぶ。このシステムによりテイクアウトのビジネスを成功させることが出来、かつドライブスルーのような新しいビジネスチャンスを物にする事が出来たのである。
シェイクを作るマルチミキサーのセールスマンをしていた、レイ・クロックがマクドナルド兄弟の店と出合い一目惚れし、兄弟からマクドナルドの権利を買い取り、シカゴのディスプレインというオヘア空港からすぐ近くの町に1号店を開いたのである。これが現在はレイ・クロック創業の一号店として博物館となっているのだ。実はこの創業の時にはレイ・クロックは既に52歳であったという。そして、会社創業後死ぬまでマクドナルドのスポークスマンとして世界にハンバーガーを普及して歩いていたのだ。
両者から学ぶこと
KFCの一号店では普通のレストランも調理方法と味付けの工夫によりだれにも真似のできない店舗を作り上げる可能性を学べる。マクドナルドの一号店を見ると、合理的なレイアウトによりアルバイトで店舗を運営することを可能にし、それが2万店を越えるチェーンを築き上げたという、合理的な厨房のあり方を学べるのではないだろうか。
カーネル・サンダースもレイ・クロックもそれまでいくつかのビジネスでの失敗にめげながらも、あきらめずにチェーン展開を開始した時の年齢は50歳を過ぎていたという。数々の失敗にもめげず、年齢のハンディを物ともせず、「ネバーギブアップ」の精神で世界最大のフライドチキンチェーンとハンバーガーチェーンを築き上げたと言うことは、この不況で苦しんでいるレストラン経営者の方々を大いに元気づけるのではないだろうか。元気をほしい人は是非これらの一号店を見てみようではないか。