0911「海外情報 外食事情Overseas」イタリアプーリア地方の食文化 第5回目(日本厨房工業会 月刊厨房2009年11月号)
「美味しいプーリアツアー 2009」報告 5
5月7日(木)6日目 内陸部(丘陵地帯)の旅、パンの町、世界遺産の前でピクニック、洞窟住居、美食の町の夕餉
プーリア州を離れ、隣りの州バジリカータ州Basilicataにある世界遺産を訪ねる。”世界の奇観”ともいわれる世界遺産訪問の前に、ヨーロッパ最初のDOP(原産地保護呼称)に認定されたパンの町「アルタムーラ Altamura」で美味しいパンを楽しむ。
イタリアの地図
http://www2m.biglobe.ne.jp/‾ZenTech/world/map/italy/Map-Italy-Regione.htm
バジリカータ州Basilicata の説明
http://en.wikipedia.org/wiki/Basilicata
アルタムーラ Altamura の説明
http://en.wikipedia.org/wiki/Altamura
8時30分にホテルを出発し、アルベロベッロ Alberobelloまでは昨日と同じコースを辿る。アルベルベッロからはオリーブ畑の他に牧草地などが広がる丘陵地帯を走り、プチニャーノPutignanoという町を経由する。「この町はウエディングドレスの町といわれ、いわゆる婚礼産業が盛んなところです。2月のカーニバルは盛大で、たくさんの張り子の山車が出ます」(案内の大橋さん)。周辺の田園地帯では酪農が盛んで、乳製品でも有名な一帯だそうだ。
やがてジョイア・デル・コーレ(コーレは丘の意味)
Gioia del Colleというちょっと大きな丘陵地帯の町を過ぎていく。このあたりの郊外からは牧草地やチェリー畑が続く。サンテラマ・イン・コーレSanteramo in Colleという丘陵の町を過ぎたあたりから、道の両側は広々とした畑作、牧草地帯が広がっている。
昨日まで走っていた南側、海岸近くとは、はっきりと風景が違っている。ここらあたりからアルタムーラまではイタリア第一位の小麦、特にデュラムセモリナ小麦の生産地だ。アルタムーラがパンの街と言われるのも、そうした穀倉地帯に囲まれているからだ。
10時過ぎにアルタムーラの市街地に入る。この町は隣りのバジリカータ州に近く、400メートル以上の丘陵地帯にある。プーリアではバーリの次に人口が多く、6万7000人くらいの町だ。ほどなくパン工房「バゲッテ Le Baguette」に到着。昼時には近隣の人が大勢買いに来るため、仕込みが忙しくなる前に作業を見せてもらおうと、少し早めにホテルを出たわけだ。
「バゲッテ」はいわばホームベーカリーだろう。早速そのベーカリー部門の見学だ。オーナーともう一人の職人が、発酵の終わった生地で次々とパンの形を作って窯に入れている。この店の売り物の一つは、デュラムセモリナ粉(パスタをつくる小麦粉)で作るパンだ。デュラムセモリナ粉は通常の小麦粉に比べ綺麗な黄色の粉だ。あのパスタの色と言えば分かり易いだろう。出来上がったパンの中も黄色でまるで卵がたくさん入っているように見える。
厨房は大変シンプルだ。粉をミックスする大型のミキサーと、発酵機、デッキオーブンが並んでおり、そのほとんどの作業は職人の技術だ。発酵後分割した生地を成型していく、幾つかの生地の成型ができるとオーブンに丁寧にいれ焼上げる。オーナーのパン職人の方は、体力のいるパンの仕事を軽々とこなしている。働いたことがない方にはわからないが、固い生地をこねるのは大変なのだ。筆者は大昔、日本にダンキンドーナツが進出した当時、2年ほど在籍してドーナツを作った経験がある。イーストドーナツはパンと同じ工程で体力がいるのだ。今の体形からは信じられないが、その当時はまるでレスラーのように筋肉隆々の体つきになっていたのだった。生地もパスタで使うグルテンの強い黄色いデュラムセモリナだから体力と技術は必要不可欠だ。このお店のオーナーの方のガッチリした体形からもその苛酷な作業が伺われる。固く焼き上げたモチモチした食感が数日間たっても変わらず、カビも生え難い保存性の高いパンだ。実際に日本に持って帰って10日経っても美味しく食べることができた。
作業場見学のあと、隣接する売り場を見る。実にたくさんの種類のパンが並んでいる。ビールと一緒に早速試食をさせていただいた。
見学と試食の間に朝方仕込んだパンでサンドイッチ等の軽食を作ってもらい、ランチボックスに詰めていただくことになった。ランチの準備の間に旧市街地の探訪をすることにした。10時30分に店を出て上り坂をあがり、公園を抜けて旧市街の外壁に着いた。この外壁に沿って歩き入口から旧市街に入る。ここには、あの天才皇帝フェデリーコ2世が唯一残した宗教的建造物の大聖堂がある。彼はプーリアに200近くもの城を築いたのだが、宗教的な建物はこの大聖堂ただ一つだ。フエデリーコ2世はイスラム文化との接触も多く、イスラム文化への偏見も持っていなかった。そのため、キリスト教会と複雑な関係であったようで、キリスト教の大聖堂を一つしか残していなかったようだ。この大聖堂を背にしてしばらく歩くと、別の古いパン屋 Forno Antico S. Chiaraがある。何と創業1423年というコロンブスのアメリカ遠征以前の遠い歴史の彼方に生まれた店だ。狭い店だが、奥行き3メートル近くはあろうかという薪で焚く石窯をもつ店だ。ナポリピザなどを焼く石窯のように石で作った大型の窯だ。ピザの場合は1分ほどで出来上がるので、途中で軽く回転させるだけで済むが、ピザよりも厚いパンの表面を焦がさずに中まで丁寧に焼上げるのは至難の業だ。もちろん、大きなパンだけでなく、薄手のフォッカチアやピザも焼き上げている。
2つのパン屋さんを見ると、イタリアの人々は昔からの職人や食べ物を大事にしているなと感心させられた。今、日本のパン屋でスクラッチで作っているお店はどんどん少なくなってきているのと比べるとよくわかる。
フェデリーコ2世の説明
http://www.asahi-net.or.jp/‾rb5h-ikd/puglia/federico.htm
古いパン屋 Forno Antico S. Chiara のブログ
http://pooh06.blog.so-net.ne.jp/archive/20071209
http://puglia-wagam2.jugem.jp/?month=200812
またこの旧市街は、至る所に中庭か小さな広場(クラウストロという)が行き止まりの先にあることでも有名だ。天才皇帝の施策で、さまざまな人種が民族単位、家族単位でグループを作って住み着いたことから、そうしたスペースができたと言われている。1時間ほどの散策の後、旧市街をあとにして、世界遺産に向かった。
バジリカータ州にはいると、丘陵はさらに標高が高くなっていく。12時50分、世界遺産の「マテーラ Matera」に着いた。直接「サッシ Sassi」と呼ばれる旧市街に入らず、グラヴィーナ峡谷を挟んだ対岸の高台に向かう。高台は世界遺産の旧市街、サッシを眼前にした、色とりどりの花が咲き乱れる草原となっている。「昼食はサプライズ」と言われていたが、なんとこの草原でのピクニックランチだった。
マテーラ Matera の説明
http://www.asahi-net.or.jp/‾rb5h-ikd/puglia/matera.htm
http://en.wikipedia.org/wiki/Matera
ユネスコの世界遺産の説明
http://whc.unesco.org/en/list/670
市の公式HP
http://www.comune.matera.it/
Sassi の写真
http://images.google.co.jp/images?sourceid=navclient&hl=ja&rlz=1T4GGLL_jaJP315JP315&q=Matera%E3%80%80Sassi&um=1&ie=UTF-8&ei=GFpBSrzWF4r6kAXJoaX_CA&sa=X&oi=image_result_group&resnum=1&ct=title
アルタムーラの「バゲッテ」特製のピクニックバスケットと空豆、グリーンピース、胡瓜に似た瓜の生野菜(みんな生で食べる)を各自セットで。これにサラミとハム、先日訪問したワイナリーのロコロトンドのワインとビールというメニューだ。草の上に各グループ毎に敷物を敷いて、世界遺産を眺めながらの爽快なランチだ。日差しは強いのだが、峡谷をわたる心地いい高原の風がとても爽やかだ。こんなとびっきりのシチュエーションは2度とないだろう。ジョバンニさん、大橋さんに大感謝だ。
目の前は世界遺産だが、われわれがピクニックをしている高台周辺も「マテーラ洞窟教会公園」という保護地区で、専門ガイドによる洞窟ツアーがある。14時30分、ランチを終え、対岸のマテーラの町に向かう。10分ほどして旧市街の入口となる。ここから少し歩いてサッシに降りる坂道を下る。石畳の坂道を20分ほど下って、サッシのほぼ中央に到着。サッシと呼ばれる地域は、崖の斜面にできた自然の洞窟を利用して居住空間にした住居の集落のことだ。
かつての生活ぶりを再現した洞窟住居を見学。入口から2~3メートルの通路めいた空間が続き、その先が広がって居住スペースになっている。20畳ほどの狭い空間に当時の生活ぶりがわかるように、人形をおいてどのように暮らしていたか視覚的に分かり易くしている。台所スペース、寝室スペース、便所スペース(といっても大きなツボがあるだけ)、そして家畜を飼うスペースがある。家畜は大事な財産なので、崖の斜面である外には出しておけないからだ。家畜は農耕用の馬と食用の鳥と豚で、横には農耕で使用する鋤や鍬をおいている。寝室はメインベッドの上の天井にもう一つのベッド、メインベッドの下に子供用のベッドと、空間をうまく利用しているのがわかる。また、女性が布を紡いでいる道具、台所用品があり、当時の生活ぶりが一目瞭然だ。狭い空間を効率良く使っていたのだなと感心させられる。
洞窟に人が住み始めたのは新石器時代からだろうといわれている。その後中世に北方、東方、オスマントルコなどの侵略が相次ぎ、それらの戦火から逃れたキリスト教徒が、この石灰石の洞窟群に住み着いたとされる。柔らかい石灰石なので洞窟を削りやすかったのだろう。ただし水がたまりにくく、雨水が頼りの生活だったはずで、水浴びなどとてもできる状況ではなかったろう。再現された暮らしぶりを見て、いかに苛酷なものかがはっきりと分かる。「想像するのも辛く、涙が出そう」というメンバーもいた。それでもその苛酷さの実相はイメージしきれないかもしれない。
この劣悪な環境は良くないと、政府が強制立ち退きを住民に要求し、立ち退きは1952年に始まった。しかし、驚くことに住民はこの苛酷地域に1960年代後半までいたそうだ。現在ではその周囲は観光地となり、オシャレなカフェが町の中心に開いている。皆カフェでジェラートを食べながら現代的な生活に感謝をし、さらに、峡谷側の洞窟教会の跡を見学する。住居とは異なり巨大な洞窟を掘り、壁には見事な宗教画を描いている。こんなに貧困な生活を送っていても信仰心を持ち続けていたのだと感心させられた。
17時過ぎにバスに戻って今日の夕食場所に向かった。途中18時30分頃アルベロベッロでトイレ休憩の後、チステルニーノを過ぎて山側に入ったチェニィーリ・メサピカ Ceglie Messapicoにある「アル・フォルネッロ・デ・リッチ al Fornell da Ricci」というレストランに19時35分到着した。この町の名前「メサピカ」は古代ギリシャの地名で、かつてその町の住民がこの地に移り住んだことから町の名前になったそうだ。この町に入ってから、やたらレストランの名前を書いた道路標識がある。「美食の町として売り出している」(大橋さん)と聞いて納得。
チェニィーリ・メサピカ Ceglie Messapico
http://www.maplandia.com/italy/puglia/brindisi/ceglie-messapico/
アル・フォルネッロ・デ・リッチ al Fornell da Ricci
http://www.rivera.it/attachments/087_cdm-29-11-2007-it-it.pdf
http://www2s.biglobe.ne.jp/‾circus/italia/puglia/cister/cister.html
http://www.travelandleisure.com/articles/puglia-rustica/sidebar/1
レストランはチェニィーリ・メサピカの高低差がある丘にある、隠れ家のようなロマンチックなレストランだ。大型バスは苦労してやっと辿り着いた。時間は7時半だが、レストランは8時からだ。イタリアはランチをゆっくりとってシェスタ(昼寝)をとるので、ディナーは早くても8時、通常は9時頃からだ。
この店は現在の女性シェフの祖母が始めた店で、代々女性オーナーがシェフを務めて三代続いている店だ。現在は2代目と3代目の女性シェフが切りまわしている。現在の3代目シェフは、イタリア・ミラノの三ッ星レストランで修行をした。料理は、地元の伝統料理にヌーベルキュイジーヌを組み合わせたもの。現在、ミシュランの1つ星を獲得している。
また、ミシュランとは別のヨーロッパのレストラン格付けの
Jeunes Restaurateurs D’Europe では
お店とシェフのAngelo Ricciさん、代表的な写真がでている。
http://www.jre.net/
http://www.jre.eu/index.php?pageId=6&template=restaurant&resId=332#menu
一軒家の店内は家庭の居間のように暖炉のある温かい雰囲気だ。女性シェフの賜物だろう。
この夜のメニューは、アミューズとして「ポルペッティーネ」という肉と小麦粉を混ぜ合わせた揚げボール。どの家庭でもつくるもので、子供も大好きな食べ物だそうだ。食前酒がスプマンテ。前菜は、きのこのムース、リコッタチーズのフライともう一品で一皿、生ハム、焼アーティチョーク、焼青唐辛子(万願寺系か、辛くない)と青菜の炒め物と野菜のマッシュで一皿、野生のアスパラガスと空豆のスープ風ピューレ。ピアットは、菜の花系野菜とオリーブを練り込んだオレキエッテレのパスタ、メインは仔牛のグラタン。デザートにジェラート、最後に小菓子四種。
大変に洗練されたプレゼンテーションと味だった。今回のツアーで最も洒落た料理だったかもしれない。
最初のチャコも女性シェフ、ファサーノの魚料理「フォルカテッラ」も女性シェフ。さらにいえば、パスタ工房の社長も若き女性だ。イタリア・プーリアで、女性の勢いを見せつけられた印象だ。
23時少し前に美食の町の夕餉を終え、ホテルに戻る。今日はツアーの中でもロングドライブとなったが、大満足の心地良い疲れで熟睡できそうだ。
<参考資料>
今回の視察旅行には、長年商業界飲食店経営、ファッション販売、などで編集長を務め、2009年4月より名古屋文理大学健康生活学部フードビジネス学科教授を務めていられる石川秀憲先生にご同行をいただき、そのレポートを筆者の主宰するメーリングリストとメールマガジンに執筆いただいた。今回の原稿においてはそのレポートを参考にさせていただいている。http://www.nagoya-bunri.ac.jp/cgi-bin/teacher/index.cgi?gakka