0907「海外情報 外食事情Overseas」イタリアプーリア地方の食文化 第1回目(日本厨房工業会 月刊厨房2009年7月号)

イタリアは第2次世界大戦敗戦後、見事な復興を成し遂げている。日本では航空機産業はまだ復興を遂げておらず、飛行機は海外からの輸入に頼っているが、イタリアは軍用の飛行機の生産を行う工業国だ。自動車産業では日本のトヨタ自動車が生産量で世界一になったが、それは性能の良い信頼性の高い大衆車を安価に提供するためだ。イタリアの自動車産業は量の点では日本に遅れているが、性能の高い自動車という意味ではフォーミュラーワン常連優勝者の高級スポーツカーフェラーリや、スーパーカーのランボルギーニ、マセラッティ、等の超高級のスポーツカーを生産しており、その高性能車の技術的な面では日本は全く太刀打ちできない。
ファッションの世界でもそうだ。フランスのファッション業界と互角に戦っているのはイタリアであり、日本人女性の憧れの高級ブランドを数多く持っている。
イタリアのブランドの一覧
http://www.fashion-press.net/brands/country/2
このように工業生産国であり、ファッションの世界でも素晴らしいイタリアだが料理の世界でも人気がある。
料理の世界ではフランス料理が有名で日本訪問の国賓にもてなす晩餐会の料理も基本的にフランス料理となっている。しかし、そのフランス料理はフランスで独自に編み出されたものではない。フランス料理の歴史は比較的浅く、16世紀にイタリアから、当時フランスの王アンリ2世に嫁入りした、イタリア貴族の娘カトリーヌ・ド・メディシスとその専属料理人が嫁入り道具として持ち込んだのが起源だと言われている。当時のフランスはまだナイフやフォークなどもなく、それらのテーブルウエアーもイタリアから持ち込まれたようだ。
ヨーロッパの王室は色々な婚姻関係などにより関係が深く、イタリアからフランスに伝えられ出来上がったフランス料理が、ロシア、ドイツなどの宮廷に広まり、各国からの国賓をもてなす公式料理にフランス料理が採用されるようになったようだ。

この歴史からイタリア人はイタリア料理が世界一だと胸を張っている。実際に米国で一番人気料理はイタリア料理だ。米国にはイタリア人の移民が多かったこともあるが、イタリア人のお母さんは料理が上手というイメージがある。筆者が25年ほど前に米国シリコンバレーに2年半ほど滞在したことがあるが、その時にまだ幼い娘を連れて行き、現地の幼稚園に入園させた。シリコンバレーには日本人駐在員が多くおり、その幼稚園の日本人のお母さん方は交流のために、料理の勉強会等を行っていた。妻がその料理勉強会に参加し、家で披露してくれた。日本人のお母さん方の料理勉強会であったから、てっきり日本料理を作るのかと期待していたら、テーブルの上に並んだのはミートボールスパゲッティとラザニアだった。それ以来、ラザニアは我が家の定番料理になってしまった。
話を聞いてみると幼稚園児の間で一番人気なのはイタリア料理であり、給食でもイタリア料理の出る頻度が高い。そのイタリア料理になじんでいないと現地の子供たちに溶け込むことが難しいので、日本人家庭でもイタリア料理を出すようにしているとのことだった。
このような背景から米国の人気レストランのトップはイタリア料理でそのトレンドは変わっていない。レストランだけではない。米国の高級な食品スーパーはユダヤ系(コーシャフード)か、イタリア系のスーパーだ。米国で流通する魚の8割はイタリア系のひとたちによるものと言われており、イタリア系の人たちは食の世界に深く関与している。そのような背景もイタリア料理が米国で人気がある原因のようだ。
そのイタリア料理人気をさらに高めるようになったのは、スローフードという食文化の動きだ。1986年、イタリア北部ピエモンテ州のブラ(Bra)の町で始まったもので、国際スローフード協会が設立されている。

1989年の国際スローフード協会設立大会でのスローフードの定義は
守る :消えてゆく恐れのある伝統的な食材や料理、質のよい食品、ワイン(酒)を守る。
教える:子供たちを含め、消費者に味の教育を進める。
支える:質のよい素材を提供する小生産者を守る。

ということだ。当時イタリアに進出開始したマクドナルドのファストフードにイタリアの食文化を破壊されることを恐れた動きで、なるべく伝統的な食事を食べる教育を子供に行う等、各地の伝統的な食生活を守ろうという活動で、日本にも大きな影響を与え、食育、地産地消という言葉を誕生させた。

スローフードの説明
http://www.slowfood.com/about_us/jap/welcome_jap.html
http://www.slowfoodjapan.net/
http://www.nichiibunka.com/
http://www.kobe-slowfood.org/about.html

また、イタリアはアグリツーリズモという観光活動を展開している。ヨーロッパも日本と同様に農村の衰退現象がみられ、自国産の農産物を食べなくなると食生活の乱れがあると恐れている。その両方の問題を解決する手段としての活動がアグリツーリズモ、日本語でいえば農業観光、グリーンツーリズム、等と呼ばれており、具体的には「緑豊かな農山漁村地域において、その自然、文化、人々との交流を楽しむ滞在型の余暇活動」だ。農漁村に滞在し自然に触れ、農業や漁業の素晴らしさにふれる体験型の滞在で、農漁村が経済的な恩恵を受け活性化されるし、都会の人々の心も体も健康になるというものだ。
このようにイタリアは工業国であり、かつ、伝統的な食を大事にする農業国でもある。イタリアの国土の面積は301,230km?(日本は377,835km?)、人口59,870,000人(日本は127,767,994)。国の形状はブーツのように南北に細長く周囲を海に囲まれており、国土面積、人口数とともに日本と近い。食文化も米を食べるし、欧米人が悪魔の魚として嫌う烏賊や蛸を食用にするという点で身近な国だ。いつか訪問しようと思っていたが、仕事の関係で米国訪問が多い筆者にはなかなか機会がなかった。
そんな筆者がイタリア訪問を実現できたのは今年のゴールデンウイークだった。筆者の主宰するメーリングリストやメールマガジンのメンバーで友人でもある大橋美奈子さんと言う方がイタリア人のジョヴァンニ・パンノフィーノさんと結婚し、子供の誕生を機にイタリア南部のプーリア州に移住をしている。その大橋さんと昨年10月にメーリングリストの会合で会い、ぜひ、プーリアにおいでくださいとの嬉しい申し出を受けた。それからツアーの準備を開始し19名で訪問することになった。イタリアには20州がありプーリア州(Puglia)は最南部の州で、カンパーニア、モリーゼ、バジリカータの各州と境界を接する。ブーツの形をしたイタリアの踵の部分に当たり、東はアドリア海、南はタラント湾に面しており、オリーブの産地として有名であるし、周囲を海に囲まれているため魚介類の料理も豊富だ。イタリア北部は工業都市であるが、南部は農業が盛んなのんびりとした風土で、プーリア州は人口約400万人で、州都はバーリ(Bari)だ。プーリア州は石灰岩層の上にあり、それがプーリア州独特の光景と産物を生みだしている。アドリア海を隔てたギリシャや、イスラム圏の国口と海運でつながっており、文化、建築、宗教、人種、食生活、などでそれらの影響を強く受けている。

さて、お母様が料理教室を長年主宰していた関係で、大橋さんは料理に対するあくなき探求心を持っているし、ご主人のジョバンニさんは世界各国のホテルやレストランで勤務経験があり、日本には椿山荘のフォーシーズンホテル開業の際、メインレストランのイタリアンレストラン・ヴィーチェで陣頭指揮をとった経験がある。そんな二人の主宰するツアーであるから、食べるのが大好きな人間が集まり、イタリア食探求ツアーをわいわいガヤガヤ開始することになった。

5月2日(土)出発日  17時間の旅

さて、今回のイタリア・プーリアツアーは直前の新型インフルエンザ発生により大騒動になり、参加を希望していた食品メーカーの方やコンサルタントの方は仕事柄キャンセルをせざるを得ない状況となってしまった。私は人口の集中した日本よりも安全だと思い、旅行を強行することにした。
さて、イタリアまではアリタリア・イタリア航空のローマ経由便を利用した。この不景気で航空会社の機内食もコストダウンしていると思い、成田空港でお弁当を購入することにした。
前回ご紹介したように、昨年10月にパリから帰国する際にオランダ・スキポール空港を利用し、そこの寿司を購入してお腹の調子がすこぶる良かったことから、寿司を飛行機に持ち込んで機内食の代わりに食べることにした。第一ターミナルの増設部分、第3サテライトの京辰というお店だ。持ち帰りの窓口も設け、メニューには英語も表記しており、店内の客の半分以上が外国人だった。http://www.bbande.co.jp/kyotatsu/
まぐろづくし 3045円とにぎり海(1.5人前)2415円を注文した。持ち帰りには一応30分以内にお召し上がりくださいとあったので、搭乗直前に購入。
これが大成功、機内食の洋食はベンネのグラタン、ハムサラダ、和食は鰻丼と煮物、この和食があまり美味しくない。そこで、おもむろに寿司を取り出し、白ワインと一緒にゆっくりと食べることにした。
機内食の朝食も、フルーツがなくてフォッカチオとハムのサンドイッチ、という簡素なものだったので、寿司をたらふく食べておいたおかげで助かった。

成田を午後1時20分のアリタリア・イタリア航空でローマまで12時間。ローマから乗り継ぎでプーリア州の州都「バーリ Bari」まで1時間の空路だった。ローマ空港では時間があり館内を拝見したが古い空港で見るべきレストランはあまりなく、お洒落なカウンター方式のワインバーと軽食のお店が点在しているだけだった。
ローマ空港恒例の遅れにより、1時間ほど遅れてプーリア州の州都バーリ空港に夜の10時に到着した。空港上空から見たバーリの街は照明で明るく照らされた奇麗な夜景だったのが印象的だ。空港の規模は日本の地方都市の空港と同規模でのんびりとしている。
到着後、バスで宿泊先の町マルティナ・フランカ Martine Francaに大型のバスで1時間半かけて向かったのだが、主要な道路には照明がきちんと設置され、ヘッドライトをつけないでも走れるほど明るい。ドイツやフランスの道路が真っ暗なのに比べると大きな違いだ。途中の要塞都市「円形の場所という意味のロコロトンドLocorotondo」という街を通り過ぎたが、古い都市は小高い丘に立地しており、周囲を壁に囲まれている。その都市全体がライトアップされ幻想的な雰囲気を醸し出している。照明の色は暖色系の温かい色で、それが白い石灰で真っ白に塗りあげるプーリア地方の都市外観を、明るく照らしているのだ。
ロコロトンド
http://en.wikipedia.org/wiki/Locorotondo
http://www.comune.locorotondo.ba.it/flex/cm/pages/ServeBLOB.php/L/IT/IDPagina/1
マルティナ・フランカ
http://www.comune.martina-franca.ta.it/
http://www.martinafrancatour.it/
http://puglia-wagama.jugem.jp/?eid=56

宿泊はマルティナ・フランカ Martina Francaの「パークホテル・サン・ミケ―レ Park Hoter S.Michele」だ。

Park Hotel San Michele | Hotel 4 Stelle Martina Franca

色々なホテルがあるが、今回の条件はゆったりとしたバスタブがある広い部屋という条件だ。御存じのようにイタリアの地方都市のホテルにはシャワーだけしかないホテルが多いので、バスタブを条件に調べてもらい、このホテルに決めてもらった。また、6泊の滞在中同じホテルに宿泊するというゆったりとした予定にした。ホテルに到着したのは、現地時間で5月2日の深夜11時30分近く、日本時間では5月3日の早朝6時半近く。成田を飛び立ってから17時間余の長旅だった。
到着後、食事の時間は終わっていたので、寝酒にルームサービスで赤ワイン1本を運んでもらい、バスタブにゆっくりつかり就寝した。ルームサービスの赤ワイン一本日本円で2000円以下のリーズナブルな価格でさすがワインの国イタリアと思わされた。

5月3日(日) 2日目  イトリアの谷、白亜の街、マッセリーア(アグリツーリズモ)、洞窟レストラン、迷宮の名店

ブッフェスタイルの朝食の後、ツアー日程の説明と顔合わせのミーティング。10時少し前に大型バスで出発。ホテルのあるマルティナ・フランカは、イタリアでも屈指の美しい景観といわれる「イトリアの谷」の西側、海抜400メートル超の丘陵地帯にある4万2000人ほどの町。町の東側から谷におり、谷の東南側の丘陵地帯にあるオスト-ニ Ostuniの町に向かった。

イトリアの谷には、緑豊かな牧草地やブドウ畑が広がり、濃い緑の葉を茂らせたオリーブの木々が至る所に根を張っている。そして、暗灰色のとんがり屋根と白い壁のトゥルーリと呼ばれる石造りの建物が畑や木々の間の点在し、静かなたたずまいの田園風景が広がる窪地だ。この光景に心を奪われる人がヨーロッパ中に数多くいて、トゥルーリを購入して住み着く人も少なくない。特に気候の厳しい英国人が定年後気候の温暖なプーリア州に住み着くために購入するケースが多いようだ。
10時30分に、オストーニ Ostuniの新市街に着き、大型バスを降りて徒歩で旧市街に向かう。旧市街入口の前にオストーニ最大の広場を擁する市庁舎があり、その広場のはずれ地下に、古代ローマ時代の遺跡が発掘されていた。この街も古い町だがその地下にはさらに古いローマ時代の遺跡があるのには驚かされる。建築物が石中心であるため保存効果が高いためだろう。
旧市街の入口はかなり急な細い坂道になっている。この町は毎年5月から6月にかけて宗教関係の建物以外は地元の名産物石灰岩を粉末にした石灰の粉末で真っ白に塗りあげるのだ。この目的は石と石の間から水や虫が入らないようにするためと、白い外装が夏に燦々と照りつける太陽熱から守るためもあるようだ。その結果、白亜の街の美しい景観を維持することもできているのだ。今回訪ねた街の旧市街は、いずれも教会を軸に市街が造られていた。オストーニも例外に漏れず、急勾配の丘に細い石畳の路地で結ばれてびっしりと石造りの建物が建てられている。中には、人一人が通れるほどの細道や路地が急な階段になっているところもある。まさに迷宮で、真ん中の道から外れたら、案内がなければ出られなくなること確実だろう。そして、旧市街のはずれが急斜面になっていて、一気に平野部に落ち込んでいる。平野にはこんもりとしたオリーブの林が広がっていて、その先がアドリア海だ。オリーブの林は「森や林とはちょっと違う雰囲気で、私はオリーブの海といっています」と大橋さんは語っていた。
http://www.comune.ostuni.br.it/

1時間ほどの探訪の後、バスで10分ほどのオリーブの海にある「マッセリーア・アショーノ(アショーノ農園)Maseria Asciano」に向かった。農園入口には色々な花が咲き乱れ、のんびりとした大型犬とその子犬たち大きな尾を振りながら出迎えてくれる。広々とした屋敷とオリーブオイルの生産施設などの他、別棟で宿泊施設を持っている。その背後には、広大なオリーブ畑が広がっていた。現在、2000軒ほどあるといわれる「農の館」ともいうもので「アグロツーリズモ」といわれ、多くがレストラン、宿泊施設などをもち、オリーブ他の農産物の生産もしている。
http://www.agriturismoasciano.it/

アショーノ農園はオリーブ畑に囲まれており、その畑で採れたオリーブからオリーブオイルを作っている。5月はオリーブの収穫は終わっているが、工場見学と出来上がったオイルの試飲をした。樹齢100年以上の旧い木のオリーブで絞られたものと、比較的若い木の実から絞られたものを比べたが、ドルチェと呼ばれる旧いもののほうがまろやかな味わいだった。若い木のオリーブはちょっとスパイシーな味がして、料理によっては合うかも知れない。
農園内には20室ほどの宿泊施設がオリーブ農園の中に点在している。観光客は休暇にその宿泊施設に宿泊し、農園生活や農業を体験できるというものだ。部屋は簡素であるが、食事も作ることができるので地元の農産物を購入して健康的な食生活を楽しむことができる。

13時に農園を出て、海岸沿いを北上しポリニャーノ・アマーレというアドリア海沿いの町に向かう。1時間ほどで到着。ここでは、かつての封建領主が所有していたアドリア海に面した崖の洞窟で、現在は四つ星ホテルが建てられ、そのメインダイニングとなっている。ここでランチをとることになった。先にも述べたがプーリア州は石灰岩の岩盤の上にあり、この石灰岩が海の波に浸食され洞窟が出来上がったのだ。レストランの営業は夏期だけで。ホテルもレストランも洞窟の名前をそのまま取って「グロッタ・パッツェーゼ La Grotta Palazzese」と言う。多少肌寒いこともあって、レストランはわれわれ一行だけの貸し切り状態という贅沢さだった。
http://www.grottapalazzese.it/
http://www.grottapalazzese.it/sito/eng/fullscreen.html

サバのポワレと空豆のピューレ 青菜炒め添え、ムール貝などの貝のパエリア風、手長エビとエビと白身魚のフリッター、生野菜サラダ、という献立を楽しんだ。アドリア海を眼前にしたとても贅沢な食事だ。もちろん、地元のワインをたらふく飲みながらの食事で会話も盛り上がった。美味しかったのはサバのポワレ。塩を振ったサバの切り身を炭焼きにしたもので、まるで日本料理のようなさっぱりとした味付けだ。きりっとした白ワインがぴったりと合った。

食後、この町の中心あたりを散策。町で評判のジェラートの店で口直しをした。

18時20分、ポリニャーノ・アマーレを出発して、マルティナ・フランカへ戻る。今夜のディナーは、旧市街にある店だ。日曜日のためお休みだが、我々のためにジョバンニ、大橋ご夫妻が特別に開けてくれた。
この街も迷宮の町だ。夕闇が濃くなっていることもあり、ただただ彼ら二人のあとをはぐれないように着いていくだけだった。やがて狭い路地の一画にあるその店の入口にたどり着いた。旅行客一人では決してたどり着けないだろう。

女性シェフのその店は「チャコ」という。
http://www.ristoranteciacco.it/

20時少し前に夕食がスタートした。前菜が、地元特産のフレッシュチーズ、生ハム、焼アーティチョーク、その他。メインが、2種類のパスタで一つはこの地方特有の耳の形をした全粒粉パスタのラグーソース、もうひとつがドライトマトときのこ、ソーセージを入れたフリチェッリパスタ。

デザートに、リコッタチーズのムースとカスタードクリームとアマレーナチェリーのボノコット。最後に小菓子。

21時40分過ぎに夕食終了。食事の後、街を歩いてホテルまで帰ったが、夜遅いと言うのに街には人があふれるように歩いている。迷路のように狭い道だが、照明が煌々と点灯しているので安心して歩ける。その後、どの古い街に行っても同じように照明が完備しているのが印象的だった。

ホテルに到着したのは22時過ぎ。「今日はちょっと遅くなったけど明日からはゆっくりとできるかな?」と思ったのが甘かった。翌日から毎晩夕食終了が22時頃、ホテルへ帰るのが23時過ぎという、過酷な食べ歩きの旅程が待っていたのだ。

プーリア地方の情報に関しては、今回のツアーをコーディネートしていただいた、ジョヴァンニ・パンノフィーノさんと大橋美奈子さん 御夫妻のHP
http://www.da-puglia.com/ を御参考ください。

また、プーリア関係のブログは多いのだが中でも以下のブログは写真が豊富なので街の雰囲気をご覧いただきたい。
http://www2s.biglobe.ne.jp/‾circus/italia/puglia/pugliaguide/pugliaguide1.html
続く

<参考資料>
今回の視察旅行には、長年商業界飲食店経営、ファッション販売、などで編集長を務め、2009年4月より名古屋文理大学健康生活学部フードビジネス学科教授を務めていられる石川秀憲先生にご同行をいただき、そのレポートを筆者の主宰するメーリングリストとメールマガジンに執筆いただいた。今回の原稿においてはそのレポートを参考にさせていただいている。http://www.nagoya-bunri.ac.jp/cgi-bin/teacher/index.cgi?gakka=

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