米国外食産業の歴史とイノベーション 第14回目(日本厨房工業会 月刊厨房2012年4月号)

第16章 戦後はバラ色になるはずだった。

1945年に第2次世界大戦が終了し、長い間の窮乏生活から解放されてバラ色の生活が待っているはずであった。少なくとも楽観的なイングラムはそう思っていた。人手不足も兵役から戻ってきた社員で改善されるし、配給制であった食品も十分に使えるようになり、お店の売上も元に戻るはずであった。
実際に終戦1年目の1946年の売上は回復し将来に期待ができるものであった。しかし、政府の食肉の価格統制や最高時給制度は継続しており、人手不足と物資の不足がより深刻になっていった。1950年代になっても問題は解決できないままであった。
第2次世界大戦が終結してほっとしたのもつかの間、1950年には米国は朝鮮戦争に巻き込まれていった(1953年7月に停戦)。政府の経済統制は厳しくなるばかりであり、戦争の継続による人心荒廃により犯罪が増加していった。厳しい経済情勢にもかかわらず、大手ファストフードチェーンの台頭が、ホワイトキャッスルにとっての大きな脅威にもなってきた。
1) 戦後の人手不足の継続
第2次世界大戦に従軍した兵隊は帰国し、婚約者たちと続々と結婚をしていわゆるベビーブームを誕生させた。除隊した兵隊に対する政府の支援は手厚いもので、退役軍人支援制度(G.I. Bill)を制定し、住宅を購入する場合の住宅資金保証制度、大学へ入学する場合学費と生活費の援助、等を行った。この援助を利用して大学に進学したのは従軍した兵士の半分の800万人に上り、住宅資金保証制度を利用して住宅を建築した元兵士は250万人にも達した。
大学を卒業すると労働者の仕事ではなく、いわゆるホワイトカラーの仕事に従事するようになり、米国において中産階級が大規模に誕生することになった。
新しい住宅はスペースのない都市を避けて郊外のトウモロコシ畑などの跡地に建設するようになった。この建築ブームにより都市型の生活から中産階級が多い郊外型の生活が誕生するようになり、米国人の生活は大きく変化するようになった。
男性が兵役に従事していた間に米国の産業界には女性が進出して男性の代行として貴重な労働力になっていたが、終戦と同時に退役してきた婚約者と結婚を急ぎ、家庭に入り子供を育てることに専念するようになった。
この中産階級の誕生と郊外住宅の建設は都市の老朽化とスラム化を発生させ、その後、長らく米国の問題となっていったのだ。

イングラムは兵役についていた元従業員が除隊後はホワイトキャッスルに戻るものだと思っていたが、既にレストラン産業の時給は産業界でも最も低い賃金体系となっており、元従業員が復帰することはなかった。元従業員に期待できないと、未経験の従業員を採用することにしたが、ある地域のホワイトキャッスルで200人の新人を採用したが、3ヶ月後には2名しか残っていないという悲惨な状況になってしまった。
戦争中に男性の替りにホワイトキャッスルの運営を支えていた女性従業員は退役してきた婚約者たちと続々と結婚し、家庭に入るようになり女性従業員の確保も難しくなるようになった。そのため、工場で働く能力のない若い女性や男性従業員を採用せざるを得なくなり、従業員の質に対するクレームが増加するようになった。この状況は朝鮮戦争が始まってからより深刻なものになっていった。このような状況においてもホワイトキャッスルはまだ十分な労働人口のいる黒人を採用することはなかった。このような厳しい状況においてホワイトキャッスルの従業員に対する労働組合の結成の動きが活発になってきた。ホワイトキャッスルのどの地域の店舗も労働組合化することはなかったが、労働組合は組織化をあきらめず、店舗の従業員にしつこく勧誘を続けていた。
人手不足に対応するため1時間90セントに時給を上げた。しかし、一般的な工場労働者の時給の半分に過ぎなかった。人手不足と労働組合化に対処するためにホワイトキャッスルは1951年に従業員に対する報酬や福利厚生を充実させ、それらの内容を明記したパンフレットを従業員に配布した。
報酬の面では、年末に利益に応じて全従業員にボーナスを支給することにした。退職時には勤務年数に応じた退職金の支払いと健康保険を整備した。その他、有給休暇、従業員預金制度、等を整備した。フルタイムの従業には家族全体が使える健康保険に加盟させた。当初は従業員が毎月6.25ドルの保険料を支払うようにしていたが、後に全額をホワイト・キャッスル社が支払い従業員の負担をなくすようにした。

2)戦後の資材の不足とインフレの進行
朝鮮戦争の勃発はワイトキャッスルにとって、食材の供給がより厳しくなる恐れがあった。しかし、結果として第2次世界大戦時よりもひどい食材や資材の配給制度が実施されることはなかった。それでも、いくつかの資材や食材は不足を生じるようになった。
化学製品製造のデュポン(Du Pont)はハンバーガーのバンズを工場で製造した後に包装するセロハンが十分に供給できないと通告してきた。最も深刻な資材の不足はワイトキャッスルの店舗建築で重要な役割を持っている内装に使うステンレス板の不足だ。ステンレスの製造にはニッケルが必要であったが、政府が民間での使用を禁止したからであった。
牛肉の不足にも悩まされた。1951年の夏に主要な牛肉供給業者のスイフト(Swift)はホワイトキャッスルのコロンバスとシンシナティの地区の工場に十分な量の食肉を供給できないと通告してきた。イングラムは牛肉の不足を予測して、事前に5万ポンドの牛肉を確保して冷凍していたので、その不足に対応することができたが、食肉の確保は綱渡りの状態であった。
この牛肉の不足に対応してホワイトキャッスルは第2次世界大戦時に開発していたエッグサンドイッチの再発売を検討したが、幸いなことに実現することはなかった。1952年にはアイダホ・ポテトが不足し、店舗でフレンチフライを販売できない状態に陥った。政府は食材の価格統制を行なっていたが、食材供給業者はそれを無視して高額な金額をホワイトキャッスルに要求するようになり、ホワイトキャッスルは利益面で大きな問題をかかえるようになった。
そこで、コストダウンをするべく、1951年に従来のハンバーガーで使用していた四角いハンバーガーパティの重量を1オンス(28.35g)から0.8オンス(22.68g)に減量することにした。減量の手法はハンバーガーパティを薄くして、5つの穴を空けることであった。この方法は、1947年にシンシナティの従業員からより早く調理をする手法として提案されていたが、イングラムなどの経営陣はあまり興味を持っていなかった。ホワイトキャッスルがこの穴あきのミートパティの使用をはじめる際に、顧客には1分以内で調理でき、発生した蒸気や肉汁などがよりバンズに吸収され味が良くなると説明するようにした。顧客のクレームを心配したが、減量に気がつく客は少なく、クレームも殆ど無かった。(ちなみにマクドナルドの標準ハンバーガーの肉は0.1ポンド(45.4g)、クオーターパウンダーは0.25ポンド(113.5g))。

しかし、このハンバーガーパティの減量も牛肉価格高騰の前には力不足であり、政府が牛肉価格統制を撤廃した途端に牛肉価格は急上昇し、ホワイトキャッスルはハンバーガーの価格を10セントから12セントに上げざるを得なかった。しかし、既に他のハンバーガーチェーンはハンバーガーを12セント~15セントで販売しており、顧客の反発は少なかった。
コストの面では政府がハンバーガーミートパティに混入する脂肪率の規制を行うようになったことだ。従来の政府規制は脂肪分が30%で良かったが、それを最高25%にするというものだった。ホワイトキャッスルにハンバーガーパティを供給していた食肉業者のスイフト社製品の脂肪率は28%であったが、それを25%に下げ販売価格を上げることになった。幸いなことに顧客は2セントの価格上昇と重量減を顧客は気が付かないか、気にすることがなかった。
そんな厳しい経済環境の中、インディアナポリス地区の食肉メーカーがハンバーガー用のひき肉に馬肉を大量に混ぜるという事件が発生し、数社の食肉企業の経営者が逮捕され、新聞で大々的に報道されるスキャンダルが発生した。この馬肉混入の噂はインディアナポリスからシカゴやミネソタ地区に広がり、地区の保健所が店舗の査察をして食肉検査をする騒ぎになった。
消費者はハンバーガーの消費を控えるようになり、小規模のハンバーガーショップは大量に閉店に追い込まれるようになった。それに対応してホワイトキャッスルは大々的な新聞広告で「当社の食肉は政府の厳格な監査の元で製造している信頼出来る大手のスイフト社で製造している」と告知した。また、店舗内外には100%牛肉を使用していると告知するようにした。
ホワイトキャッスルの日頃からの高い品質管理を広報活動していたことと、危機対応の広告宣伝により売上の低下は最小限で抑えることができたが、それ以降、顧客から「2個の鞍なしのハンバーガーをくれ(two without the saddle)」「鞍を2つ持ち帰るよ(Saddle me two to go)」等というジョークで悩まされることになった。

3) 政府のハンバーガービジネスへの規制強化と立地の変化
従業員不足、高い退職率、食材の高騰という厳しい環境の中で、さらなる試練が待っていた。政府のハンバーガービジネスへの規制強化であった。1930年以前の政府の規制は、最低時給と衛生管理等の基本的な規制だけであった。イングラムは政府の規制に忠実に対応しているので問題はなかったのだった。
しかし、第2次世界大戦終了し世間が落ち着いてくるようになると、連邦政府や地方政府のハンバーガービジネスへの規制が強化されるようになった。
戦争前までの政府の規制は衛生面と労働条件などであり、連邦政府は地方政府の法規制を許していなかった。そのためホワイトキャッスルへの連邦政府の法規制は食品衛生省(Food and Drug Administration)や農務省(Department of Agriculture)等の食品に関する規制と、労働省(The federal Wage and Hour Department)による労働者の労働時間の記録の不備を指摘される程度だった。イングラムは国税庁(Internal Revenue Service)からは何の指摘も受けないように会社の経理をきちんと管理させていた。
戦後は、州や市などの地方自治体の法規制や企業経営への関与が厳しくなり、ホワイトキャッスルの管理職たちはいろいろな規制に対して対策をしなければならなくなった。1950年代にはまだ、ニューヨーク州では女性の深夜労働が認められておらず、24時間経営を行うホワイトキャッスル店舗はニューヨーク州だけ深夜営業を中止せざるを得ず、売上の良いニューヨーク州の売上減少は大きな痛手であった。従来は何の問題もなく経営していたミネソタ州の店舗が州農務局からホワイトキャスルで使用しているオレンジジュースディスペンサーの蛇口の形状が不衛生だと修正を要求され、部品の交換修理を余儀なくさせられた。理由は従来は人手不足で検査出来なかったから許可していただけだという理由であった。ニュージャージー州のクリフトン市(Clifton)では新店舗には追加の化粧室(Dressing Room)を義務付けられ、建築図面の再作成を行わされた。インディアナ州の労働局はホワイトキャッスルが従業員に定時の昼食時間を設定していないとして罰金を課した。最も悩まされたのは市の保健所の検査であった。一般的な市の保健所は従業員の結核検査のためのレントゲン写真を義務付けていたが、これは従業員の健康管理の面からも納得できる規制であった。しかし、ある州では食器洗浄機への供給水圧が低すぎるので改善しろという実態にそぐわない規制もあった。最もひどいのはインディアナ州のハモンド市(Hammond)では衛生検査の結果、ホワイトキャッスル店舗の衛生状態がA+であるにもかかわらず、実際に交付した衛生検査書にはCと書かれていた。店舗で講義を申し立てたところ、書類整理が膨大で間違ってしまったという返事であった。インディアナポリスの保健所はホワイトキャッスルの持帰り客がゴミを店舗周囲に散らかしていると警告を行い、店舗から半径2マイル(3.2Km)の範囲を清掃するように義務付けた。ホワイトキャッスルはその義務付けに誠実に対応し、店舗周囲を定期的に清掃し、店舗のゴミ箱に「周囲にゴミを散らかさないようにしましょう(Don’t Be a Litterbug)」という表示版をつけた。(これは現在、米国のファストフードのゴミ箱に表示されている)

営業許可地域(Zoning)の面では地域許可局(Zoning Commissions)と市開発計画局(city planning departments)が新たな問題を持ち込んだ。イリノイ州のオーク・ロウン市(Oak Lawn)は市内にホットドッグとハンバーガーの店舗の新設を許可しないと制定した。ホワイトキャッスルは抗議をして許可が出るようになったが他のチェーンには出ないという厳しいものであった。
労働省は労働者保護のために週40時間労働と残業代1.5倍、最低時給、の法律を設定した。また、所得税も厳しき課税するようにした。そのため、1952年には従業員に支払う賃金の内、658,444.21ドルは所得税やその他の政府関連の費用で従業員が負担しているとイングラムは抗議をしていた。
出店という意味では地域の変化がある。ルイビルやシカゴには新しい高速道路が開通し、既存の市内に店舗を構えるホワイトキャッスルの前を通る通行量が激減した。また、新しい都市開発は郊外中心となっていた。この立地の変化は古い都市型立地のホワイトキャッスルにとって最もダメージを与えるものであった。
この立地変化は1950年代の初めには同時に犯罪の増加を生んでいた。ホワイトキャッスルは創業時から24時間経営をモットーにしていたので、深夜営業時間帯に強盗などの格好のターゲットとなったのだ。第2次世界大戦の終わり頃には、泥棒や強盗、暴行事件が多発し始め、1940年代後半には武器を持った強盗がホワイトキャッスルを襲うのは一般的な状態になっていた。1949年3月にはルイビルのホワイトキャッスル店舗を銃を持った強盗が襲い、たった14.5ドルを奪っていった。1952年にはセントルイスのスーパーバイザーのジュニアー・メイ(Junior May)は地区事務所で2人組の強盗に襲われ、金庫から7878ドルの現金を奪われた。犯人は逮捕され9年間服役の実刑を受けた。
強盗だけでなく、食い逃げも増加した。従来は料理を食べて帰る際にしはらうほうしきであったので、帰りに走って逃げる客が増加した。店内の飲食客だけでなく、店外で車に乗ったまま注文する客も金を支払わず車で逃げるドライブ・アウトdrive-outsも増加した。そこで、現在のファストフードのように注文時にお金の支払いを受けてから、商品を手渡すようになった。
車の通行量の増加は売上の増加というメリットもあったが、自動車事故で店舗を破壊する事例が増えてきた。ホワイトキャッスルの立地は都市部の角店であったので、飲酒運転で運転を誤ったドライバーが車ごと突っ込んで店舗を破壊してしまうのだ。イングラムは冗談で事故の増加は改装計画を早めていると言ったほどだ。

4) フランチャイズチェーン方式のファストフードの台頭
このような厳しい環境の中、戦前に誕生したコーヒーショップのハワードジョンソン、戦後誕生したKFC,マクドナルド、バーガーキング、バーガーシェフ、コーヒーショップのビッグボーイ、等が続々と郊外に開店をするようになった。これらの新規参入組はホワイトキャッスルの嫌ったフランチャイズ方式を取り入れ、急速展開を行なっていった。

5) ホワイトキャッスルのサバイバルと後継者
この厳しい経済環境や規制強化、そして競合の激化の中でイングラム率いるホワイトキャッスルは、商品の品質強化を行い、1950年代の後半には1929年の頃よりも店舗数が少ない90店舗ながらも、ハンバーガーの販売個数は4倍と店舗あたりの売上は確保していたのだった。ホワイトキャッスルは規模の拡大よりも質の向上を考えて、商品開発の強化やビルディングの大型化、従業員の教育のためにカーネギーコース(Dale Carnegie Courses)等を受講させていた。
ホワイトキャッスル創業者のビリー・イングラムは会社を守りきり、1966年5月に死去した。イングラムは全財産を子供に残し、会社を個人会社として存続させた。2代目はエドガー・イングラム(Edgar)でビリーの方針を忠実に守り会社経営を継続した。時は全国展開を行うフランチャイズ方式のファストフード企業の急成長時期であったが、巨額の相続税を支払った個人企業のホワイトキャッスルには店舗展開を積極的に行う資金がなかった。
そのエドガーは1979年に引退し息子のエドガーラルド・ビリー・イングラム3世(Edgar Waldo Bill IngramⅢ)が社長に就任した。経営に積極的なⅢ世の元に、就任後の10年間で店舗数を倍増させた。そして1980年代に入ると店舗数を300店の大台に乗せたのである。
現在は4世代目の女性経営者指導の元に店舗を構えている。規模は小さいが冷凍ハンバーガーを食品スーパーで販売したり、ネット上で店舗展開していない地区や海外に配送するなど確実な経営をしており、米国では現在でも圧倒的な人気を得ているチェーンである。
急成長したフランチャイズ方式のチェーンの中にはハワードジョンソン、バーガーシェフ、等のように消え去ったチェーンもあることを考えるとホワイトキャッスルのようにローカルの強い個人企業のチェーンの生き方も良かったといえるだろう。

6)ホワイトキャッスルの日本進出
ホワイト・キャッスル社は1986年頃に大坂のファミリーレストランチェーンのサトと提携して大坂と京都に店舗を展開した、良い立地で高品質であったが、日本人は小型のハンバーガーでも一個しか購入せず、米国のように袋ごと購入する習慣が根付かず客単価を獲得することができなく撤退に追い込まれた。サトの経営陣も商品の品質には自信を持っていたのだが、マクドナルドの知名度に対抗することが出来なかったようだ。

7) 最後に
14回に渡り写真と図表などがなく退屈だった連載をご愛読いただき感謝を申し上げる。
さて、本稿の「米国外食産業の歴史とイノベーション」の目的は「日本では米国外食産業の研究は第2次世界大戦後、特に1950年代以降を中心にしており、それ以前の外食産業の歴史を明らかにした文献はほとんどない。そこで、1950年以前にどのようにして外食産業が誕生したのかを米国建国時代からさかのぼって調査をする。」事だった。今回発表したのは外食チェーンの元祖のハーベー・ハウスとハンバーガー・チェーンの元祖のホワイトキャッスルである。ハーベー・ハウスがレストラン経営で重要なQSCという概念を打ちたて、ホワイトキャッスルが混じり物のない高品質の牛肉を使ったハンバーガー・チェーンを開発した。
この2社の歴史を見るとレイ・クロックがあたかもマクドナルドがQSCや高品質のハンバーガーを開発したと主張していることが真実ではないということがわかるだろう。筆者たちの真の研究の目的は米国外食産業、特にファストフードのイノベーションであり、その中でもマクドナルドの本当のイノベーションである。マクドナルド以前の優れた外食産業の歴史と成功要因を明らかにすれば、自ずとマクドナルドのイノベーションが引き算で明らかになると思っている。本稿は今号で一旦終わりになるが、今後、マクドナルドの競合で有るバーガーキング社の歴史、とKFCの歴史、その他の特筆するべきチェーンを取り上げてマクドナルドのイノベーションを抽出する連載をいつかの機会にさせて頂く予定であるのでご期待を頂きたい。今年から来年にかけて取材で米国に出張しさらに別の資料や写真を集めてくる予定である。

以上

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America Bantam Books

Tennyson、Jeffrey(1993) Hamburger Heaven: The Illustrated History of the Hamburger Hyperion Publishers

Hogan, David Gerard(1997)Selling ‘ em by the Sack New York University Press

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