米国外食産業の歴史とイノベーション 第12回目(日本厨房工業会 月刊厨房2012年2月号)

第14章 大恐慌時代を乗り切り組織変更を行う

米国の1930年代は大恐慌の厳しい時代であった(1929年10月24日の「暗黒の木曜日」(Black Thursday)で株が大暴落し世界不況に発展し不況は10年ほど継続した)。多くの会社が倒産して困窮に追い込まれる人もいたが、それは大都会の出来事であり、地方都市において商取引は行われていたし、農家も毎年着実に収穫をしていた。
映画や小説、漫画に登場する主人公がハンバーガーを食べる光景を描くようになり、ハンバーガーが米国人に認知されるようになった。1929年に登場したポパイ(Popey the Sailor)の漫画には、ポパイの友人役でウインピー(J. Wellington Wimpy)という太り気味の親しみやすいキャラクターが登場し何時もハンバーガーを食べている役を演じていた。このポパイの漫画に人気が出るにつれハンバーガーの知名度は高まり、米国人はよりハンバーガーを食べるようになっていった。そして、ハンバーガーサンドイッチはこのウインピーの名前をとってウインピー・バーガー(Wimpy Burger)と呼ばれるようになった。後にこのウインピーの名前を使ったハンバーガー・チェーンも出てきたほどだ。
大恐慌の時代にも関わらず、ハンバーガーはアメリカ人の国民食になりつつあり、ニューヨーク市の中心タイムズスクエアには数多くのハンバーガーを販売する店が軒を並べ、ハンバーガー通りと言われるようになったほどだ。そのハンバーガーの普及により、一人あたりの牛肉消費量は1930年が48.9ポンド(約22kg)に対して1935年には53.2ポンド(約24kg)と8.8%も増加した。

このハンバーガー人気の高まりは10年前からハンバーガーを普及していたホワイトキャッスルにとって追い風であったが、同時に前回も述べたようにホワイトキャッスルを真似する競合店も急速に店舗網を拡大し始めていた。大恐慌と競合の出現にもかかわらずホワイトキャッスルは業績を着実に伸ばしていた。1930年末には全店舗合計で2100万個のハンバーガーを1年間で販売した。その販売数は大恐慌の前年よりも多いものであった。1931年には新店舗5店舗を開店し合計店舗数は16の市に120店舗となっていた。また、新しい従業員51名を採用した。1932年は大恐慌の最も大変な時期であり、第一次世界大戦後に復員した軍人達が失業し、大戦後に退役軍人たちに政府が交付した恩給(1945年に支払う予定)を直ぐに支払って欲しいという大規模なデモ、ボーナス・マーチャーズ(Bonus Marchers)が首都ワシントンで発生し、それを抑えようとして政府が軍隊を派遣して死傷者が出るような大騒動が発生していた。そのような景気の最中でもホワイトキャッスルは31年と同じ5つの新店舗を開店した。
しかし、自動車工場の多いデトロイトのある店舗は自動車組立ラインが閉鎖された影響で売上に大打撃を受けていた。イングラムは1933年の4月にウイチタで開催した1年に一回のマネージャー・コンベンションにおいて、大恐慌の影響で売上の伸びは止まっているが、会社は利益を十分に出しており33年末までには新店舗を6店舗開店すると楽観的な見通しを発表し、実際に新店舗を開店し50名の社員を採用した。その年の利益は昨年よりも増加することに成功した。この好調は1934年まで継続し店舗数は130店舗、従業員は500名、年間の支払総給与は1ミリオンドルに達した。1935年には売上の伸びは停滞していたが利益は順調に出ており、イングラムは「130店舗の店舗は全米の半分の人たちにハンバーガーを提供している」と高らかに宣言した。1937年には1930年の倍4000万個のハンバーガーを販売し、1929年の従業員数297人から1935年の従業員数607人と倍増していた。従業員一人当たりの賃金も増加しており、利益により年末に支払うボーナスも着実に増加した。
この不景気のなかでのホワイトキャッスルの成功は米国人がハンバーガーを好きになったからだけでなく、経営者イングラムの数々の優れた経営戦略のおかげである。イングラムは会社の業績が好調であるにもかかわらず、売上や利益の伸びの停滞を認識し、1933年から35年の間に抜本的な対策を以下のように実施することになった。
1)組織を変更 イングラムは共同経営者のアンダーソンの株式を買い取る。
創業社長であったアンダーソンではあるが実際の会社の経営はイングラムに任せ、会社のシンボル的な役割を担うだけであった。アンダーソンは数機所有している会社の飛行機に乗り、米国からカナダの国境沿いまで点在する店舗を訪問していた。従業員はその危険な飛行機に乗って店舗の従業員を激励に来るアンダーソンの勇気と親しみやすさに惹かれていた。
しかし、1933年に春に会社の半分の株を所有していた共同経営者のアンダーソンはハンバーガービジネスに疲れを感じるようになってきた。当時ウイチタに飛行機産業が成長しつつあり、ハンバーガービジネスより自分の好きな飛行機産業に興味をもつようになった。そこで全株式をイングラムに34万ドルで売却することにした。この従業員に親しまれていたアンダーソンの退任が従業員に与える影響を恐れたイングラムはアンダーソン退任を2年間発表しないでいた。

2) 本社をオハイオ州コロンバスに移転
1934年7月にオハイオ州コロンバスに土地と建物を購入し、本社を移転することにした。
ウイチタの片田舎から発展した店舗は、カンサス州とニューヨーク州間の11の州、16市に広く展開していた。本社のあるウイチタはその店舗網の西部の端に存在し、当時の交通網や通信網の弱さから、資材の物流やコミュニケーションという経営管理の面で支障を来すようになっていた。イングラムの食肉加工、製パン、建築資材、紙製品、を直営工場で製造し店舗に供給する垂直統合型戦略がうまく機能しない状態に陥っていた。特に食材を集中購入して加工すれば原材料価格が安くなるが、本社から店舗までの距離があるため、食材を集中購買できず、各地域で個別に購入する非効率な状態が発生していた。出身地のウイチタに愛着を持っていたが、全国チェーンと主張していたイングラムにとって片田舎のウイチタに本社があることは問題であると認識するようになっていた。そこで、ホワイトキャッスル店舗網の中心地で、人口の多いオハイオ州コロンバスに注目した。当時のコロンバスには7店舗を既に展開していたが、それらの店舗の売上と収益は大変高かった。その理由はコロンバスがオハイオ州の州都であり、1930年の人口が30万人と人口密度が高く、数多くの大学や短大があるビジネス都市であったからだ。
そのコロンバスでホワイトキャッスルの本社機能を一箇所に集めることができる、2階建ての大きな回転扉工場ビル(倒産していた)を見つけだした。そこで、建物を大幅に改造することにした。まず、空調機器と防音タイル、等を備えつけた。次に、一階にエナメル塗装鋼材建築会社の製造ラインを設置し、2階には10の個室と大きな事務室、大型会議室を作り、会計、店舗管理、店舗設計管理、の各部署がそれを使用した。事務所の内装は黒いマホガニーを使った重厚な作りだった。2階には更にペーパーキャップ等の紙製品製造工場を設置した。
本社の建設が完成した1934年9月に移転を行った。移転にあたっての問題点は生活環境が良く自然に恵まれたウイチタから、大都会のコロンバスに従業員が転勤をするかということであったが、小さなウイチタに仕事はなく殆どの従業員が転勤を行った。唯一の例外は店舗運営面でイングラムの片腕であったジミー・キング(Jimmy King)であった。キングは転勤をしようと長男と一緒にコロンバスを見に行ったが、長男の白いシャツが1日で真っ黒に汚れたのを見て諦めた。当時のコロンバスの家や工場の暖房に石炭を使っており、その黒煙が大気を汚染していたからだった。キングは本社勤務を諦め、ウイチタの店舗のマネージャーとして勤務することにした。

3)不採算店舗の閉鎖
コロンバスに本社を移転後、イングラムはホワイトキャッスル社の売上は順調に伸びているが、利益の伸びが停滞していることに気が付き、直ちに会社全体の収益改善に取り組んだ。全国に点在している店舗の売上と利益の動向を詳細に分析した結果、利益を順調に出している地域と、会社の利益の足を引っ張る地域があることが判明した。ニューヨーク、ニューアーク、セントルイス、シカゴ、等の人口の多い大都市は売上と利益は好調であるが、人口の少ない小都市の売上と利益に問題があることが明らかになった。
特に2つの地域は人口が少なく、売上と利益が少なく、それが会社全体の利益率を低下させていた。その2つの地域とはホワイトキャッスルの創業地のウイチタとオマハであった。ウイチタとオマハはホワイトキャッスル店舗網の西部の端にあり、移転した本社のあるコロンバスからは離れすぎていた。愛着のある2つの地域であったが、1936年秋にイングラムはその2地区の全店舗を閉鎖し、看板と什器備品を取り去り飲食業以外の企業に売却をすることを決定し、1938年6月に全店舗を閉鎖することになった。しかし、ウイチタに残ることを決めたキングがイングラムにウイチタの4店舗を買い取ると申し出を行った。イングラムは店舗の外観と店舗名を変更し、ホワイトキャッスル社とは一切の関わりがないように経営をするという条件でキングに店舗売却をした。キングは受け継いだ店舗で働いていた従来の従業員をそのまま受け継ぎ、店名をキングのX(Kings-X)と変更した。
しかし、運営する人のいないオマハの店舗は1938年末までに全店舗閉鎖を行わざるを得なかった。

4) 食材や建築資材、消耗品の垂直統合生産
不採算店舗の閉鎖の他に会社の収益改善のため従来から取り組んでいた、食肉加工、製パン、建築資材、紙製品、を直営工場で製造し店舗に供給する垂直統合型戦略を強化することにした。食肉加工と製パンを直営工場で行うことは、高い品質の原材料を低コストで店舗に供給できることを1920年代からわかっており徐々に実施していたが、コロンバスに大型の本社ビルを確保したことで、その強化が可能になった。それまでは工場が各地に点在して効率が悪かったが、コロンバス一箇所にまとめることで管理が容易になり、収益率もより高くなった。その結果、紙製品とエナメル塗装鋼材建築会社の2社はホワイトキャッスルに資材を供給するだけでなく、競合以外の業種に資材を販売し単独で高い収益を上げることができるようになった。

紙製品の工場はペーパーキャップの製造から始まった。この特許を取ったペーパーキャップの製造には専用の製造機械の開発が必要であり、シエイファー・アンド・ウイルツ(Shaffer and Wirtz)という機械開発の会社と提携して、その会社の共同経営者のフランク・ウイルツ(Frank H. Wirtz)が陣頭指揮をとって2年間の歳月をかけて開発を行い、専用の機械を1930年5月に完成させた。この機械は日産数百枚のペーカーキャップを製造することができ、新しい産業の誕生を感じ取ったウイルツはホワイトキャッスル社の子会社ペーパーリネン社(Paperlynen Company)の最初の役員となり、1932年3月にウイスコンシン州グリーンベイ(Green Bay, Wisconsin)に工場を建設した。2年後の1934年9月に本社のあるコロンバスに工場を移転した。移転と同時に生産能力を増強し、ペーパーキャップの他に紙のナプキン、ボール紙製のハンバーガー容器、その他の紙製品をホワイトキャッスルに供給するようになった。それらの製品は高い評価を受け、ペーパーキャップ等の紙製品をコカ・コーラ、スイフト(Swift 食肉メーカー)、ボーデン(Borden 乳製品メーカー)、クローガー(Kroger Grocery 食品スーパー)、ハインツ(H.J. Heinz 缶詰食品メーカー)、クラフトチーズ(Kraft-Phoenix Cheese)、セイフウエイ(Safeway 食品スーパー)、ワンダー(Wonder 製パン業者)、ドクター・ペッパー(Dr. Pepper 清涼飲料水)等の食品関連企業に販売するようになった。ペーパーキャプはそれらの企業の要望に合わせて、会社のロゴや色、店名を印刷するようにした。しかし、ペーパーキャップは男性向けであり女性が使いづらかったので、1935年に紙製のヘヤー・バンドを新たに開発した。このペーパーキャップとペーパー・ヘヤー・バンドは大人気となり、全米の1600の企業に販売するようになり、大恐慌の厳しい経済状況の中で、親会社のホワイトキャッスルの収益面で貢献することになった。
ホワイトキャッスルは1925年の新店舗から白い琺瑯(ほうろう)でコーティングした鉄製ブロック(enamel brick)と使った移動可能な組み立て式の建物を採用しだした。この部門の御陣頭指揮をとっていたのがロイド・レイ(Lloyd W. Ray)だ。当初は自社の新店舗や改装が中心であったが、建築資材としての優れた能力に注目したイングラムは建築部門をエナメル塗装建築物会社(Porcelain Steel Building Company、略してPSB)として独立させ、専門誌に広告を掲載し幅広く販売することにした。PSBは1935年にコロンバスの本社ビルに移転した。陣頭指揮をとっていたレイは現場指揮にとどまることを希望し、紙製品会社取締役のウイルツが2社の責任者に就任した。

PSBは同社の建築資材は、購入する際も、後でのメインテナンスにおいても安価であることと、白いエナメル塗装は清掃しやすく清潔であること、組み立て式であるので店舗の移転も容易である事、などを強調して広告宣伝を行った。販売先はサービス業や販売業、レストランなどであったが、この移動式の琺瑯製建築物に注目したのは、自動車産業の隆盛と共に増加していたガソリンススタンドであった。白い輝く琺瑯塗装は通行する自動車の運転手の注目度が高く、清掃性も容易だし、ガソリンスタンドの移転の際も容易だったので、全米数百店舗のガソリンスタンドで採用されるようになった。

5) マーケティング手法の開発
<1>新聞広告とクーポンにより新規顧客を獲得する
1921年にウイチタで1号店を出店してから10年ほどの間のマーケティング手法は、新規出店、店頭看板、そして口コミであった。イングラムはそれに加えて、店舗でハンバーガーの栄養価などを訴えた小冊子を既存の顧客に配布するようにした。小冊子の目的はハンバーガーの栄養価が高いことなどを訴え、既存の顧客をつなぎとめるものであった。この小冊子は有効なマーケティング手段ではあったが、ホワイトキャッスルを利用したことのない客を獲得することはできないという欠点があった。
1920年代中頃までは新聞・雑誌、ラジオを使う大規模なマーケティング手法は一般的でなかったが、1927年にイングラムはセントルイスで地元のラジオ局(KMOX)を使ってラジオ・コマーシャルを流したが、店舗の売上には貢献しなかった。
1930年の初頭になると大恐慌や競合の影響でホワイトキャッスルは新規顧客の獲得が難しくなり、売上伸びが止まるようになってきた。イングラムは売上を伸ばすためには利用したことの無い客に一回ホワイトキャッスルのハンバーガーを食べさせることが出来れば、固定客になると確信していた。
1920年代には大手食品スーパーのクローガー(Kroger)は地元の新聞を使い、安売り商品を広告し、新規顧客を獲得する戦略を米国で最初に取り入れるようになっており、1920年代終わりには全米の食品スーパーで同様の新聞広告戦略を取るようになっていた。その成功を観察していたイングラムは1933年6月に新聞を使い、ハンバーガー割引の告知広告を全店で実施することにした。新聞広告には通常価格1個5セントのハンバーガーを持帰りの場合5個で10セント(five for dime)という大幅な割引価格(有効期間1週間)のクーポン券を印刷した。この値段ではホワイトキャッスルはハンバーガー1個につき2セントの赤字を出すことになるのだったが、イングラムは赤字を出してもこれで新しい顧客を数多く獲得すれば赤字の元は取れると考えた。

広告では割引セールの開始は翌日の午後2時からであり、広告宣伝分野のコンサルタントが広告の効果はあるがそんなに大規模なものではないとアドバイスをしたので、各店は食材のストックを若干増やすだけで対応することにした。
しかし、各店の従業員は割引セール開始の数時間前には、既に顧客が数十メートルも並びだしていると本社に報告をするようになった。割引セールの開始後1時間でハンバーガーの品切れを起こし、慌てて食材倉庫に食材を取りに行く店も出るほどの大成功であった。イングラムの想定通りこの広告でホワイトキャッスルを利用したことの無い新規顧客を獲得することに成功し、翌年の夏も同様の割引セールを実施することにした。
5月には2週間の5個で10セント(five for dime)の割引セールを実施し、同じような大成功を収めた。今回は前回の品切れに懲りて、店舗は十分な資材と従業員の準備を行いスムーズに顧客サービスを実施できた。赤字が出る割引セールは新規顧客の獲得に有効であり、ホワイトキャッスルの長期的な売上に貢献した。
ホワイトキャッスルが最初に新聞広告を使った割引セールのマーケティング手法は米国のファストフード業界で初であり、後に参入する多くのファストフード企業が取り入れる ようになった。

<2>客層を労働者階級からホワイトカラーなどの中間所得層に拡大する
ホワイトキャッスルの当初の顧客層は男性を中心とした労働者階級であり、出店エリアは工場や労働者が利用するバスや市電の駅周辺が中心であった。しかし、1930年代の不況によりその労働者階級がレイオフされ、失業率が上昇するようになった。主要な顧客層が減少するだけでなく、失業した工場労働者達が生活のために簡単な屋台の店舗が(アンダーソンが最初に経営したような簡単なハンバーガーショップ)増えるようになり結果として競合が増加した。その結果、ホワイトキャッスルの競合であるキューピー等は400店舗まで拡大した店舗の半分を閉鎖する苦境に陥り、労働者階級向けの市内の店舗を閉鎖し、自動車の普及を見て郊外にドライブイン店舗展開を行うようになった。
そのような状況の中でイングラムは顧客層を労働者階級から中産階級、特に中産階級夫人に広げることを考えた。イングラムは中産階級夫人が食肉業界の労働環境と品質のひどさを書いたシンクレア-(Upton Sinclair)執筆のジャングル(The Jungle、1906年に米国に移民した家族の悲惨な生活を取材に基づいて書いた小説で、シカゴの食肉業界の汚職や非衛生で危険な環境を述べており、食肉業界の暗部を米国人に知らしめた)という本を読んでおり、ひき肉を使ったハンバーガーの品質は酷いものであると思っていることを知っていた。

イングラムは店舗の清潔さや自ら製造するミートパティとバンズを使った最高品質のハンバーガーに自信を持っており、その品質を中産階級夫人に知らしめれば新しい顧客層が開拓できると考えていた。そこで、注目したのが1920年代の大手食品メーカーの広報戦略であった。この時代には大手企業が会社のPRのためにペンネームを使うパブリシティ専門の従業員を採用するのが一般的になってきており、大手の食品メーカーも企業をPRするパブリシティ専門家を採用していた。1921年にこの戦略初めて採用したのは大手製粉・製菓のゼネラルミルズ社(General Mills、当時はウオッシュバーン・クロスビーWashburn Crosbyという製粉・製菓の会社であり1921年に5つの製粉・製菓の会社が合併してゼネラルミルズになった)だった。ゼネラルミルズ社は製品のパンに使う漂白した小麦粉は漂白することにより栄養素が失われるという消費者のネガティブなイメージに困っていた。そこで、ベティ・クロッカー(Betty Crocker、ウオッシュバーン・クロスビーWashburn Crosby社の取締役のCrockerから命名された)という白髪の中年女性のキャラクターを造り上げた。クロッカーはゼネラルミルズの製品を使った調理本の執筆や、ラジオのレギュラー調理番組出演を行わせ、同社の製品は栄養があり美味しく調理ができる、と広報活動を行った。同社の広報や印刷物の作成者としてベティ・クロッカー名を使うようにして、クロッカーを会社の全面的なスポークスウーマンに仕立て上げた。(注:ベティ・クロッカーの調理本は現在でも数多く販売されており、米国の各家庭に1冊はあるほど普及している、大成功の広報活動である。)クロッカーはハリウッドのスターたちと料理を作ったり、栄養専門家と栄養問題を語ったりして、ゼネラルミルズ社の製品を普及するのに大きな貢献をした。
全米缶詰協会(The National Association of Canners)はシカゴ大学の家政学教授のルース・アトウオーター(Ruth  Atwater)を缶詰業界のスポークス・パーソンに採用した。家庭の主婦が缶詰は高温で殺菌するため栄養価がなくなっていると思っていたので、栄養価は通常の生の食材を使って料理をした家庭の食事と同じであり、フルーツや野菜類の缶詰は砂糖を調味料で使うので、栄養価は高く衛生的で安全な保存食品であると、全米の主婦団体などに訴えていった。
これらの食品企業や団体のペンネームを使った企業の広報活動は大成功で売上を大幅に伸ばすようになっていた。その効果を観察していたイングラムは同じようなペンネームを使うホステスのプログラムを開始することにしたのだった。

1932年7月にエラ・ルイーズ・アグニール(Ella Louise Agniel)を採用し、新しく作ったホワイトキャッスル・ホステス(White Castle hostess)という仕事に従事させることにした。アグニールはシカゴに本社を構えるイリノイ中央鉄道(Illinois Central Railroad)、シアトルのグレートウエスターン精錬社(Great Western Smelting Company)、ニューヨークのマーチャント・ナビゲーション社(Merchant’s Navigation Company)、ニューメキシコ州の法律事務所、等の企業で色々な秘書業務の経験がある社交的で自信満々の女性だった。食品会社で働いた経験はなかったが、主婦として家庭で調理している経験と仕事での対外折衝能力を評価されて採用された。アグニールはホワイトキャッスル社では本名を使わず、ジュリア・ジョイスJulia Joyceというペンネームを使うように指示を受け、社内の数人しか彼女の本名や経歴を知らないようにされた。
ジョイスの仕事は全米の中産階級の主婦層にホワイトキャッスルのハンバーガーは高品質で栄養価が高い安全な食事であると認識させることであった。全米を歩きまわり、各地の主婦団体やチャリティ団体で講演を行うことにした。講演でジョイスは「最初のうちはハンバーガーの品質に問題があると感じていたが、段々その品質が高いことがわかってきた」と自身の経験を語るようにした。次に「ホワイトキャッスル社のハンバーガーはビタミンもカルシウムもタンパク質も豊富なので体に良い。ただし、ホワイトキャッスルの店舗は7席程度のカウンター席しか無いので家族連れには向かないから、持帰りが最適だ」と教育していった。講演の最後には最高品質のハンバーガーを清潔な店舗で提供するといういイングラムの企業理念を紹介し、ホワイトキャッスルの企業イメージを高めるようにした。講演にはハンバーガーを持込み、食べたことの無い主婦たちに美味しいハンバーガーの試食をさせた。
講演に参加した主婦たちには自らの目で店舗の清潔さや品質の高さを確認するために近所のホワイトキャッスル店舗を訪問しチェックをすることを勧めた。ジョイスが店舗で気に入って強調したのは、カウンター下に設置した自動皿洗い機で食器やコーヒーカップ、調理器具を洗うので、衛生的でピカピカに輝いていることであった。ジョイスは店舗を訪問した主婦たちにホワイトキャッスル・ハンバーガーの品質の高さを強調し、ハンバーガーと他の食品をどのように組み合わせれば栄養価が更に高くなるかを述べた小冊子を配布した。
このジョイスの活動により中間所得層主婦たちのホワイトキャッスル・ハンバーガーに対する信頼感は徐々に高まるようになった。ジョイスの活動はホワイトキャッスル・ハンバーガーの品質のイメージを高めるだけでなく、会社の対外活動すべての面での活動でも会社のスポースクウーマンの役割を務めることであった。1932年にコロンバスで開催された年末の救世軍資金活動では地区のホワイトキャッスルの従業員と共に参加して、貧しい人達に無料のハンバーガーを配布するなどのチャリティ活動に取り組んだ。1935年にはデトロイトで開催された救世軍のチャリティ活動で数百のハンバーガーを貧しい子供や女性たちに配布した。現在では多くの外食企業がチャリティ活動に取り組んでいるが、ホワイトキャッスルが10年以上も前に最初にチャリティ活動に取り組んだ外食企業だったのだ。

中産階級主婦へのパブリシティの10年ほど前からホワイトキャッスルはミネソタ大学、オハイオ州立大学、ネブラスカ大学等の各市の大学や短大の近所に店舗を開店して、大学生達を顧客にするようにしていた。その学生が大学を卒業するとホワイトカラーのビジネスマンになるのが一般的であり、彼らが結婚をして中産階級となり夫婦と子供で店舗に来店するようになったのも、中産階級獲得に大きく貢献していたのだった。
1937年には外食業界団体の全米レストラン協会(National Restaurant Association)の会長のクラーク(R.D. Clark)が「ハンバーガーはアップルパイとコーヒーと並んで米国人の国民食となった」と宣言し、ハンバーガーが真の米国を代表する料理として認められたのだった。
これらのイングラムの努力により大恐慌の時代にもかかわらずホワイトキャッスルの業績は高く維持できた。ホワイトキャッスルは創業時よりハンバーガー、コカ・コーラ、コーヒー、パイ、ペイストリー、バターミルク等、メニューを絞り込んでいたが、顧客の好みが変化するのを観察し、顧客が肉を2枚入れたハンバーガーを要求するようになれば、ダブルハンバーガーを販売したり、自動車の普及を見て1935年には顧客が車に乗ったままハンバーガーを注文できるカーブ・サービス(curb service)を始めたり、車客が店舗を見つけやすいように道路際に40フィート角(約12m角)の大きな野立看板を設置するなど、顧客の要望に応える努力もしていたことを見逃してはいけないだろう。
それらの努力の結果、他の競合が倒産する中で、ホワイトキャッスルの1937年の売上と利益は過去最高の記録を打ち立てたのだった。そしてイングラムのたった一人の息子のエドガー・イングラム2世(Edgar Ingram)が外食やホテルの教育に強い名門校コーネル大学を卒業し、ホワイトキャッスルに入社。イングラムをはじめ誰もが1940年代はホワイトキャッスルの黄金時代を迎えると確信をしていた。

以下続く

参考文献
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Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America Bantam Books

Tennyson、Jeffrey(1993) Hamburger Heaven: The Illustrated History of the Hamburger Hyperion Publishers

Hogan, David Gerard(1997)Selling ‘ em by the Sack New York University Press

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