米国外食産業の歴史とイノベーション 第11回目(日本厨房工業会 月刊厨房2012年1月号)

第13章 ファスト・フードの規格を確立

ホワイトキャッスルはファスト・フード業界に於ける規格化を徹底的に推し進めた。
1) 建物の規格
ホワイトキャッスルは1921年の創業時よりシカゴのウオータータワーをモデルにした白い城の外観を保ってきた。城のように銃眼のある塔を備えて、店舗の壁にはハンバーガー5セントと大きくスローガンを書き、一目でホワイトキャッスルだとわかるようにした。店内には5つのカウンター席とグリル、販売用のカウンターを備えていた。各店は顧客の視点からは同じように見えるが、実際には年を追う毎に店舗面積と規模、建築資材、隣接する建物との均衡を取るための一部変更、老朽化、等、少しずつ異なっていた。
1921年から1925年にウイチタとオマハ、カンザス・シティに建てた店舗は10×15フィイート四方の面積で、白いセメント・ブロックを使った城の形のビルであった。1925年からセントルイスに進出して建てた新店舗からセメント・ブロックを白い琺瑯(ほうろう)でコーティングした鉄製ブロック(enamel brick)に変更し、電気式の冷蔵冷凍庫と空調設備を設置するため地下室を建物下に設けた。イングラムは清潔でピュアーなイメージを出すために白い外観を好んだが、その白さを際立たせるには真っ白な琺瑯が最適だと思ったのだ。1927年にこのデザインを完成させた建設監督のロイド・レイ(Lloyd W. Ray)がガラスのように艶のある白い琺瑯は比較的安く購入できたし、芸術的な外観で、衛生的にも優れていると語っていた。
1920年代の終りにはホワイトキャッスル社は建物を、組み立て式鉄製の建築資材と外観に白い琺瑯塗装をした鉄を使うという標準化を完成した。白い琺瑯塗装の鉄材を建物の外部と内装に使い、まるで大理石のように輝いていた。白い琺瑯塗装の素材は店内調理場で使用するステンレススチールと色のバランスが良く、清掃性も格段に向上し、従業員が一人で店舗を切り回せる高い生産性を備えていた。
この標準的な店舗を建設する間に55店舗で白の琺瑯塗装を大理石のような装飾をつける試みを行ったが、その後、元の素朴な白色に戻すことになった。
イングラムはこの新しい建物が、清掃性が容易であり、分解して他の場所に移動するのも簡単であると気に入った。そこで、食材で垂直統合を行ったように建物の建築資材の製造と建設をおこなう会社を自社で設立し、その後50年間店舗建設に使い続けている。

2) 制服も自社生産
従業員の制服も建物同様に標準化を行った。イングラムは清潔さを維持するためには従業員の着用する白い制服は会社でクリーニングして維持するべきだと確信していた。従業員が12時間の労働時間の間に何百個ものハンバーガーを調理し、何ガロン(1ガロンは3.785リットル)ものコーヒーを注げば、白い制服に汚れがつくのは当たり前であった。そこで、制服をローコストで清潔に保つ方法を模索し続け、画期的な解決策を考案した。それが使い捨てのペーパーキャップ(紙の帽子)で、イングラムは自らそのデザインを行った。従業員は1日の労働時間が終わったら、汚れがついたペーパーキャップを捨てれば済むのであった。このペーパーキャップ製造を外部の業者に任せるのではなく、特許を取得して自社の紙製品製造会社を設立した。また、この新しい紙製品製造会社ではペーパーナプキンも製造することにした。これらの紙製品の導入により自社の洗濯代を大幅に減少させることが可能になった。パテントを取った紙製品は他の外食企業にも人気になり、紙製品を他社へ大量に販売するようになった。

3)標準化したナショナルブランドの時代
イングラムは料理の品質、建築物、ペーパーキャップ、等、あらゆるものを標準化し、顧客に配布する会社のパンフレットに、全店舗の内外装とオペレーションは標準化しており、どこの店舗でも高品質の商品を衛生的な環境で食べられるのだと以下のように強調していた。「ホワイトキャッスル店舗に座っている貴方は、他の数千人の顧客と同じく、同じデザインの建物と内装を備えた店舗で、同じカウンター席に座り、特製のコーヒーを全く同じカップで飲み、全く同じ成分の材料を同じグリルで同じ温度で正確に調理したハンバーガーを食べているのです。全ての店舗では同じ衛生的な環境を維持し、貴方の食べる料理は完璧に安全なのです。」
この標準化した商品を大量に販売するというのは1920年代の米国の新しい潮流であった。
小売業を見れば、シアーズ・ローバック(Sears Roebuck)、モンゴメリーワード(Motgomery Ward),クレスゲ(S. S. Kresge 現在のKマート)、等の大型小売店が出現し、各店舗ではよく似た電化製品、洋服、等を全米で販売するようになっていた。食品では食品小売業チェーン大手のエー・アンド・ピー(A&P)はケロッグ(Kellogg) のコーンフレークやキャンベル(Campbell)の缶詰スープ、等の同じ食品を西海岸から東海岸まで販売するようになっていた。その地域だけで清掃販売されている商品や、中小企業の製造販売する商品は、ナショナルブランドに比べ一段と低い品質のイメージを持つようになり、消費者は広告宣伝を大規模におこなっている、知名度の高い全国的なブランド商品を好むようになっていたのだった。この消費者の変化をみて、販売店は続々とナショナルブランドを販売するようになり、クオーカー・オーツ(Quoker Oats)、ハインツ(Heinz)、安全カミソリのジレット(Gillette)、コダックのカメラ(Kodak)、等のナショナルブランドを販売しない販売店はマーケットから消え去っていかざるを得なくなった。
このナショナルブランド化の現象は料理の世界でも見られるようになった。移民でできたアメリカには各地に独特の伝統的な料理があったが、それらはハンバーガーという全米的な流行に置き換えられていくようになったのだ。ハンバーガーに消費者が魅力を感じるようになった理由は、安価で、肉がたっぷり入っている、からだけではない。皆が食べて人気があるのだから美味しいのだろうという食のナショナルブランド化現象が、流行に送れまいと人々をハンバーガーショプに駆り立てたのであった。一度ハンバーガーを食べた人たちはその味を気に入り、ハンバーガーファンになっていった。そしてたった10年間でハンバーガーは単なる流行ではなく、アメリカ人にとっての国民食になったのであった。

4)成功を見た模倣者の出現
このホワイトキャッスルの明らかな成功をみた人々や企業家は続々とハンバーガービジネスに参入するようになった。従来は他地域の新しい街にホワイトキャッスルが進出する際には、ハンバーガー屋はホワイトキャッスルだけだった。しかし、ホワイトキャッスルを真似するお店が増えて競合が激しくなってきて、1920年代の終りにはホワイトキャッスルにそっくりなハンバーガー屋があちこちに開店するようになった。最初のうちは個人経営のハンバーガー屋で資金的にも豊かでなく、仮設住宅のような粗末な建物に過ぎなかった。しかし、段々成功するハンバーガーチェーンが出てきた。その一つが1925年にウイチタに開店したLittle Kastleだった。同店はレストランに食材を下ろす問屋業を営んでいたハーベー・アブラー(Harvey Ablah)が経営していた。その後、同様のホワイトキャッスルのイメージを真似したハンバーガー店舗は中西部に続々と誕生していた。Little Palaces、Little Crowns、等だ。中でもWhite Knight Nickel Sandwichは銃眼を四角から丸くし、入口の場所を変えただけで、後はホワイトキャッスルと全く同じ外観であった。
多くの模倣者は白色(White)を店名使っていた。ホワイトタワー(White Tower),ホワイトクロック(White Clock),ホワイトパレス(White Palace)、ホワイトログ(White Log)、ホワイトハウス(White House)、ホワイトタバーン(White Tavern),ホワイトハット(White Hut)、ホワイトクレッセント(White Crescent)、ホワイトショップ(White Shop)、ホワイトグリル(White Grill)、ホワイトキャビン(White Cabin)、ホワイトプラザ(White Plaza)、ホワイトワンダー(White Wonder)、ホワイトタレット(White Turret)、ホワイトダイヤモンド(White Diamond)、ホワイトフォーティス(White Fortess)、ホワイトキッチン(White Kitchen)、ホワイトスポット(White Spot)、ホワイトマンナ(White Manna)、ホワイトミル(White Mill)、等だ。
店名の最初に白以外の色を使う模倣者もいた。ブルーベルズ(Blue Bells)、レッドランターンズ(Red Lanterns),ブルービーコンズ(Blue Beacons),ブルータワー(Blue Tower)、レッドバーンズ(Red Barns),等だ。
また、城や王(ロイヤルRoyal)を使う模倣者は、マジックキャッスルズ(Magic Castles),シルバーキャッスルズ(Silver Castles),プリンセスキャッスルズ(Prince’s Castles),ホワイトパレス(White Palaces),レッドパレス(Red Palaces),ブルーキャッスル(Blue Castles),クローバーキャッスル(Klover Kastles),リトルキャッスルLittle Kastles),モダーンキャッスル(Modern Castles),ロイヤルキャッスル(Royal Castles),キャッスルブランカ(Castle Blancas)、等であった。

ホワイトキャッスルの外観の模倣者は、白い建物に塔を備えていた。塔の形状は、銃眼を備えた塔、時計台、灯台、神殿、水晶玉、等と色々であった。
ホワイトキャッスルの成功を見てレストラン以外の店舗、床屋、宿泊兼居酒屋(タバーンTavern)、牛乳店、靴屋、等が外観、店名、イメージなどを真似するようになってきた。
名前や建物がホワイトキャッスルに酷似したハンバーガー屋は続々と出店していたが、資金力もなく、ハンバーガーの品質も劣悪であり、同じマーケットにホワイトキャッスルが店舗展開するとそのほとんどは閉店をせざるを得なくなった。模倣者が多かったのはハンバーガーを販売するホワイトキャッスルの大成功により、消費者にとってホワイトキャッスルの名前はハンバーガーを販売するファスト・フードの代名詞になったからであった。
業種が異なる場合は問題なかったが、レストランでホワイトキャッスルの外観と店名をそのまま使うようになり、顧客の混乱を招くようになるケースも出てきた。1930年代の初頭にはシカゴのレストラン経営者のヘンリー・カサダ(Henry Cassada)がホワイトキャッスルの店名をそのまま使って店舗の経営を始めるというケースも出てきた。
イングラムは法廷闘争に余分な費用を使う気持ちはなかったが、同社の店名や外観を真似をして、ひどいハンバーガーを販売されることは、ハンバーガーやひき肉のイメージそのものを傷つけると思っていた。そこで、ウイチタの弁護士アール・エバンズ(Earle W. Evans)を雇い、同じ店名や外観を使う店舗に警告の手紙を送りつけるようにした。多くの場合、その警告に対して違法だとは知らなかったと弁明をし、店名や外観を変えることになった。ホワイトキャッスル社は模倣者が謝罪し、店名や店舗の外観を変更する場合は、その費用を負担するようにした。
ホワイトキャッスル社は、ハンバーガーの製造特許や持帰りシステムの特許を取得していなかったので、他のレストランがハンバーガーを販売することは問題がなかった。勿論、店名や店舗外観がホワイトキャッスルに酷似している場合は訴訟を起こしたが、ホワイトキャッスルのチェーン展開のエリアはミシシッピー川の東部であり、総店舗数でも300店舗にしか過ぎず、全米に展開をしていなかった。そのため、1920年代の終りにはハンバーガーを販売する類似店舗は全米に広がっていった。ホワイトキャッスル社はあまり酷い模倣者に対しては懲罰的な訴訟を起こしていたが、社員や弁護士が全米のハンバーガー店舗をチェックするのは不可能であった。

5)大手の模倣者
ホワイトキャッスルに近接した地域でホワイトキャッスルと対抗する強いハンバーガーレストランチェーンが誕生するようになってきた。ミルウォーキーのホワイトタワー社(White Tower Company)、ミシガン州のフリント(Flint)のキューピーホテルハンバーガー(Kewpee Hotel Hamburgs),ケンタッキー州ルイビルのリトルタバーン(Little Tavern)、アイオワ州マスカティン(Muscatine)のメイドライト(Maid-Rite)、テネシー州チャタヌンガ(Chattanooga)のクリスタルショップ(Krystal Shops)、マイアミのロイヤルキャッスル(Royal Castle)、等であった。
それぞれのチェーンはホワイトキャッスルと同じようなイメージの店名、塔を備えた白い外観、清潔な店舗、5セントの小型ハンバーガー、複数の小型ハンバーガーの持帰り、と言う特徴を備えていた。米国は広大な土地があり、それぞれのチェーンは自分のエリアで十分な顧客があり、競争状態には至らなかった。
キューピーホテルハンバーガー(Kewpee Hotel Hamburgs)のケースを見てみよう。同社はミシガン州フリントで第1次世界大戦終戦まもなく、サム・ブレアー(Sam Blair)が創業した。最初はウオルト・アンダーソンが創業した時のように脂ぎった汚いハンバーガー屋に過ぎなかった。キューピー人形をマスコットにして店名にした。店名にホテルとあるが、単に高級なイメージを演出するためのものに過ぎなかった。店舗はミシガン州全体に広がり、その他隣接したオハイオ州、イリノイ州、インディアナ州、ケンタッキー州、ウイスコンシン州、ペンシルバニア州、ニューヨーク州ウイチタ、などに店舗網を広げていった。小型ハンバーガーを白い外観の建物で販売するのはホワイトキャッスルそっくりであったが、建物上に設置した大型のキューピー人形とスローガン「マイティ・ナイス・ハンバーグ(Mity Nice Hamburg)」だけがホワイトキャッスルとの違いであった。
ホワイトキャッスルとの戦略の違いは出店した地域が大きい都市ではなく、小さな地方都市に直営店舗ではなく、フランチャイズ店舗として展開したことだ。この戦略によりキューピーは1920年代の終りには中西部に200店舗を展開し、第2次世界大戦前には400店舗を展開していたようだ。キューピーは車に乗ったまま料理を注文して、車まで持ってきてもらえるカーブサービス(Curb Service)をルートビアーの販売店からヒントを得て、いち早く導入したチェーンでもある。キューピーはコーヒー以外の飲み物にルートビアーを付け加え、更に、1933年ころにはビールも販売するようになった(禁酒法が廃止になっていたばかりだ)。これは、ソフトドリンク中心の他のハンバーガーチェーンとの差別化の一つでもあった。

現在でも残っている模倣のハンバーガーチェーンとしてクリスタル社(Krystal Company)がある。テネシー州チャタヌンガにロディ・ダベンポート・ジュニア(Rody B. Davenport Jr.)とグレン・シェリルJ. Glenn Sherrillが共同で1932年10月に開業し、水晶玉の商標が特徴である。東南部を中心に300店ほどチェーン展開し現在でも健在である。クリスタルのステンレスと琺瑯塗装の白い鉄を使っている建物はホワイトキャッスルとそっくりである。ハンバーガーも大きさや製法もほとんど同じであり、清潔な店舗、素早いサービス、品質の高いハンバーガーを求めやすい価格で販売をする、という経営方針でも同じであった。創業者のダベンポートは繊維業で成功した実業家であり、価値と品質を強調するクリスタル・クリード(経営理念 Krystal Kreed)を従業員と店長に守らせていた。店舗展開に関してもホワイトキャッスルと同様に直営店のみで、フランチャイズによる店舗展開は決して行わなかった。このホワイトキャッスルとの類似性は偶然ではない。ダベンポートは開店前にホワイトキャスルの店舗を訪問し成功の要件を詳細に調べ出していたのだった。店名のKrystalはダベンポートが夫人と乗馬していた時に、人の庭の標識に水晶玉飾りが使われていたのを見て、水晶玉のように綺麗で清潔であるようにと命名した。その際にクリスタルCrystalのイニシャルをKに変えて店名とした。
その他のチェーンではケンタッキー州ルイビルで開業したリトルタバーン(Little Tavern)がある。1927年にハリー・ダンカン(Harry Duncan)が創業した。ハンバーガーはホワイトキャッスルと同様の小型であったが、建物外観は白ではあったが屋根を農家風にしているのが特徴であった。
1930年創業のテネシー州のメンフィスにあるトドルハウス(Toddle House)は同じく農家風の建物で、店内には暖炉を備え「おふくろの味」を演出した。

6)模倣者との法廷闘争
寛容であったホワイトキャッスル社の忍耐にも限界があった。1926年にミルウォーキーにジョン・サックス(John E. Saxe)とトーマス・サックス(Thomas E. Saxe)親子が開店したのがホワイトタワーである。サックスはミネアポリスでダンスホールを経営していたが、近所に開店したホワイトキャッスルの繁盛ぶりにビジネスチャンスを感じ取り、ホワイトキャッスルの新店舗の建築物や運営方法を詳細に観察した。そして、ホワイトキャッスル従業員を高給でスカウトし、詳細な運営方法、調理方法等を調べ、店舗展開を開始した。塔のある白い琺瑯塗装をした鉄を使った外観の店舗はホワイトキャッスルと全く同じであり、店内にある5席のカウンター席、スローガンも「袋一杯を家に持ち帰ろう(Take Home a Bagful)」とホワイトキャッスルの「ハンバーガーを袋いっぱい買おうぜ(Byu’em by the Sack)」と酷似していた。店舗展開も顧客層を労働者にして店舗を工場の近所か、労働者階級が多く住む住宅地におこなっていった。また、労働者が使う、トロリーバスや市電の駅に近所にも店舗展開をおこない、フィラデルフィア地下鉄駅の半分以上の立地に店舗を構えていた。
120店舗をホワイトキャッスルと競合するエリアに展開し、ホワイトキャッスルの最大の競合相手となった。そこで、あまりの類似性に怒りを感じたイングラムは1929年にホワイトタワーをミネソタ州の法廷で訴えた。それに対してサックスは自分の店舗展開している地域に類似のビジネスで進出してきているとホワイトキャッスルを反訴した。この法廷闘争の終結には5年間もかかったが、最終的にホワイトキャッスルが完璧に勝利を収めた。法廷はホワイトタワーに店名と建物外観、スローガンを全面的に変更するように命じた。
しかし、イングラムはホワイトタワーの社名や店名を継続して使用することを許すことにした。ただし、類似の外観とスローガンのみ変更させることにした。そのイングラムの妥協の代わりにホワイトタワーはホワイトキャッスル社に損害賠償として65,000ドルを直ちに支払い、2年後に17,000ドルを支払うことになった。また、ホワイトタワーがその店名で新店舗を開店する際にはロイヤリティとして1店舗あたり規模により、100ドル~350ドルの一時金をホワイトキャッスル社に支払うことになった。
このようにホワイトキャッスル社の圧倒的な勝利であり、その後、ホワイトタワー社はホワイトキャッスル店舗と直接競合するエリアへの出店を行わず、共存共栄するようになった。
以下続く

参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York

Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.

Fried、Stephen.  (2010) Appetite for America Bantam Books

Tennyson、Jeffrey(1993) Hamburger Heaven: The Illustrated History of the Hamburger Hyperion Publishers

Hogan, David Gerard(1997)Selling ‘ em by the Sack New York University Press

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