米国外食産業の歴史とイノベーション 第2回目(日本厨房工業会 月刊厨房2011年4月号)
第二章 米国外食産業の始まり
1)西部地域への人口移動による外食への影響
1850年代にはヨーロッパからの移民はやがて東部地区から新しい開発地区のロッキーマウンテンを超えて西部、オレゴン州やカリフォルニア州に徒歩や馬車で移住を始めた。その移住に伴ってレストランの必要性も高まり食事を提供するカントリー・インCountry Innが誕生した。1850年頃のカントリー・インで提供する食事は農家で食べるコーンブレッドや保存食のベーコン等の質素なものだった。
1860年代に鉱山の発見に伴い町が出来上がり、ネバダ州ヴァージニアVirginiaなどでは鉱山で働く人々を対象に、小売店が38店舗、劇場が1軒、ホテルが8件、お酒を主に提供するサルーンSaloonが25店あった。また、コロラド州リードビルLeadvilleのレストランはニューヨークの高級レストラン、デルモニコからシェフを招くなど、料理の品質にもこだわるようになってきた。
1869年に当初は東部から西部への移動手段が馬車で日数が必要であったが、大陸横断鉄道開通に伴い東部から西部への移動はたやすくなった。当初の鉄道は座るだけのものであったがやがて、寝台列車や食堂車も造られるようになり、食堂車ではニューヨークのデルモニコで提供するような高級な食事を提供するようになった。しかしこのような高級な列車は東部中心に運営されているだけだった。西部を旅行する列車には食堂車はなく、途中のさびれた町に停車し短時間でひどい食事を済ませなければならなかった。
1887年に鉄道沿いの駅に初めてのチェーンレストラン・ハーベー・ハウスHarvey Houseが開店した。1835年イギリス生まれのフレドリック・ヘンリー・ハーベーFrederick Henry Harveyは15歳で米国に移民し、7年後にセントルイスにカフェを開店したが南北戦争時代に共同経営者が金を持ち去って失踪したため閉店に追い込まれた。その後、色々な職業に就き1875年にカンサス州のウオレスWallace、コロラド州のヒューゴHugoなどにカフェを開店し成功、その後、カンサス・パシフィック鉄道沿いにカフェを展開始めた。その後、サンタフェ鉄道と共同で沿線上に店舗展開を開始する。フレッド(フレドリック)は当時の鉄道沿いのひどい宿泊施設や食事により子供2名を失っただけでなく、本人も健康上も問題も抱えた。その経験から、提供する食事や宿泊施設の向上を図ることにした。そして、1887年にはアチソンAtchison、トプカTopeka、サンタフェSanta Fe鉄道の12000マイルの沿線上100マイルごとに、ニューヨークやシカゴのホテルやレストランと同じレベルの品質の高いハーベー・ハウス店舗を展開していった。1880年のコース料理はリーズナブルな価格の75セントで、内容は、生ガキ、ウミガメ、ローストビーフ、オリーブ、チーズ、ペイストリー、アイスクリーム、ケーキ、から選択する。朝食は、ステーキ、卵、ハッシュブラウン、ホットケーキ、アップルパイ、コーヒーで25セントであった。停車する駅ごとのレストランで同じ食事が出ないように変え、同じレストランも4日毎にメニューを変更して顧客が飽きないような工夫を凝らした。ハーベーはどこのレストランも綺麗なナプキンやテーブルクロス、食器類を用意し、食材の供給業者も吟味し、場合によっては農園や農場を自社で運営し、新鮮な乳製品などを店舗で使用できるようにした。品質の統一の面ではカミサリー(食材の集中加工センター)を本部管理の元に設置し、本部が造ったメニューとレシピーに基づき、各店舗に鉄道列車を使い配送した。ハーベーのレストラン経営は厳しいもので、顧客にもジャケットとネクタイの着用を要求し、従業員もハーベーの基準を守らなくはならなかった。各店舗を抜き打ちにチェックを行い、基準を守らない従業員は容赦なく解雇された。また、品質だけでなく、サービスの向上も務め、ハーベー・ガールズHarvey Girlsと呼ばれる女性ウエイトレスを大量に雇い、統一したユニフォームや髪形と共に、丁寧なサービス、清潔さ、を顧客に提供した。最初は男性のウエイターを使っていたが、ある店舗でウエイター同士が喧嘩になるという騒動を引き起こした。その対策として、女性を大規模に募集したのである。フレッド・ハーベーが1901年2月9日に亡くなった時には、ホテル15軒、レストランを47軒、30の列車食堂、を運営していた。サンタフェ鉄道と遺族は1968年の12月までその運営を継続していた。1930年には大都市のほとんどに進出し、毎年1,500万食を提供していた。しかし、その後1930年代の終わりになると、列車の速度が速くなり、途中の駅で食事をする必要がなくなり、また、恐慌の影響もあり、だんだんハーベーのレストランの売上は低下していった。第2次世界大戦後、鉄道を利用する顧客はさらに減少するようになり、1960年代の終わりには利用客は殆どいなくってしまった。しかし、このハーベーのレストランの運営に対する成功と厳格な管理方法は後のチェーンレストラン、ハワード・ジョンソンやマクドナルド、シャッフェSchrafft’sの模範となった 。
2)始めてのチェーンレストラン・ハーベー・ハウスHarvey Houseを築き上げたフレドリック・ヘンリー・ハーベーFrederick Henry Harveyの生い立ちが
Stephen Fried.(2010) Appetite for America
Bantam Books
に以下のように詳細に述べられている。
フレッド�ハーベーFred Harvey は1835年に英国ロンドンで、父チャールズ�ハーベーCharles Harveyが26歳のときに、母アンAnnとの間に生まれた。父チャールズはロンドンのソホーSohoで洋服の仕立てをしていたが、経営がうまくいかず1843年に裁判所にインソルベントinsolvent(支払不能者)の判決を下された。インソルベントはバンクラプトbankrupt(破産)と異なり、判決までに得た収入、財産を負債の返済に充てればよい。バンクラプトは将来の収入も支払いに当てなければならないという違いがあった。
フレッドにはエリザElizaとアニーAnnieという2人の妹がいたがハーベー・一家は生活に困窮していた。そこでフレッドは未亡人で生活の豊かな叔母マリー�ハーベーMary Harveyの元で暮すようになった。当時の英国はクリミア戦争に参戦しており、当時17歳のフレッドは徴兵を逃れるためと仕事を求めて1953年の春に船で米国に移民した。入国したのは当時移民を多く受け入れていたニューヨークの港であった。当時のニューヨークは欧州大陸以外で初の万国博覧会を開催しており、仕事に就けると思ったからであった。
懐に英国貨幣で2ポンドしかもっていなかったフレッドは仕事を探した。到着した港はハドソン川沿いの桟橋であり、すぐそばにワシントン・ストリート・マーケットという野菜から食肉まで全ての食材を扱う市場があった。その中で働く人や訪問者のために、スミス・アンド・マックネルSmith & McNell’s レストランが24時間営業をしていた。ヘンリー・スミスHenry Smithと トム・マックネルTom McNellの共同経営で、毎日利益は現金で分けていた。同店はニューヨークでもっともリーズナブルな価格で美味しい料理を提供していた。その日収穫した野菜、釣りたての魚、屠殺仕立ての牛や豚、等の食材をシンプルに調理した料理を提供するフルサービス・レストランとして知られていた。
レストランは1階にボリュームたっぷりの料理を豊富にそろえ、一人前15セント(現在の価格で4.31ドル相当)で提供した。2階は高級なレストランで富裕層の顧客向けとして、高級な牛肉や料理を提供していた。金融街をはさんだ反対側にはニューヨークで一番高級なデルモニコが店舗を構えていた。当時の米国は英国からの移民が多く、保守的な英国の習慣の影響を強く受け、外のレストランで食事をすることはあまり品が良くないとされていた。洗練されたフランス料理を持ち込んだデルモニコが米国人に外食はすばらしいという概念を与え、米国人の外食に対する考え方に大きな影響を与えたのだ。そして、デルモニコは米国のレストランのスタンダードとなった。
フレッドはスミス・アンド・マックネルで最初は皿洗いからスタートし、やがて、ウエイター、調理人の仕事を経験することになった。同店に1年半働いている間にフレッドの母アンは結核に感染し1855年8月に亡くなった。
フレッドは独立を目指して南部のミシシッピー川河口の港町、ニューオリンズに移住した。ニューオリンズはフランス人の植民地で綿花を栽培するプランテーションが存在し、豊かな地域であった。また、フランス料理と農園で働く黒人奴隷の料理が融合し、ケイジャンやクレオールというニューオリンズ独特の料理が発達している食の都であった。当時の米国は北部の米国人と南部の米国人が南部の奴隷問題で対立しており、ニューオリンズは南部の中心地でもあった。
黒人奴隷を肯定している南部の中心地ニューオリンズの雰囲気に馴染めず、ミシシッピー川上流の南部と北部の境に属しているセントルイスに移住することにした。フレッドはミシシッピー川西側にあるバターフィールド�ハウスButterfield Houseというホテルで働くことになった。オーナーのエイブナー�ヒッチコックAvner Hitchcockはフレッドの友人であり指導者とも言う存在になった。そして後にフレッドが米国市民権を取得する際の保証人になってくれ、1858年7月27日に米国国籍を取得した。
まもなく、38歳のアイルランドからの移民ウイリアム・ドイルWilliam Doyleと共同でレストランを経営することになった。ウイリアムは酒場を、フレッドはレストランを分担して運営した。調理はディクソン�ブラウンDickson Brownが担当することにより1年ほどで順調な経営状態となった。そこで、フレッドは英国に一時帰国し、父親と妹エリザ,そして妻になる20代のアンAnnをつれて米国に戻ってきた。父親は数週間で英国に帰ったがエリザは永住し、後に英国からの移民の簿記係ヘンリー�ブラッドリーHenry Bradleyと結婚することになった 。フレッドとアンの間には長男エディーEddieが1861年2月に誕生した。
ビジネスは順調であったが、セントルイスは北軍と南軍の激突する場所となり、1861年5月10日にセントルイスの虐殺St.Louis Mssacre事件が発生し市民が28名射殺された。
http://www.us-civilwar.com/st.louis.htm
フレッドは奴隷制度に反対で北軍支持であったが、パートナーのウイリアムは南軍支持であり、2人は激しく口論しあうようになり、やがてウイリアムは南軍に従軍することを決め、1861年夏に2人の稼いだ金、1300ドル(現在価値32774ドル)全てを持ち去ってしまい、26歳のフレッドは一文無しとなってしまった。
レストランの常連客にベテランのフォード船長Captain Rufus Fordがいた。彼は上流のイリノイ州に住んでいたが、船でミシシッピー川を往来する際にセントルイスに停泊することが多かった。フォードは上流のセントポール市とセントルイス市の間で乗客や荷物、郵便物を運んでおり、船旅で84時間という記録を樹立していた40代半ばのベテラン船長だった。
フォード船長はその実績を買われ、当時発達し始めた鉄道会社のハンニバル&セント・ジョセフ鉄道Hnnibal & St.Joseph Ralroadに、オマハOmahaやその西部方面への定期船の運用を依頼された。戦争の勃発により鉄道建設は中断され、北部からの鉄道はセント�ジョセフSt. Josephが終点となり、郵便物や資材、電報までそこでとどまるようになった。政府は郵便物のハブ(中心地で集め、再配送する仕組み)としてセント�ジョセフを指定し、郵便物はそこから馬車や定期船で西部に運ばれるようになり、セント�ジョセフは重要な都市として注目を集めるようになった。
南北戦争の勃発により鉄道への戦略的な攻撃が行われるようになり、西部への人、資材や郵便の配達は困難になり、船の重要性が増すようになった。定期運行をするために人材が必要になっていた。そこで、フォード船長はフレッドに助けを求めた。仕事を探していたフレッドは家族とともに当時人口がセントルイスの1/18に過ぎない、僅か8932人の住むセント�ジョセフに移住した。
ミズーリー川(ミシシピー川の支流)の気候環境は大変厳しく、冬には川が凍結し、夏には大規模な洪水を引き起こし、周囲を泥だらけにしてしまう。その厳しい環境で定期船を運航するのは至難の業であった。定期船には乗客のためにレストランや酒場を設けていた。フレッドは郵便物が北部からセント�ジョセフに鉄道や電報という最新の技術によって届けられ、そこから、時代遅れの馬車で西部に運ばれるという対照的な光景を目の当たりにしていた。
気候環境が厳しいために病気にもかかりやすかった。フレッドはまもなく腸チフス(注:チフス菌 によって引き起こされる感染症の一種で、上下水道が整備されていない発展途上国などの不衛生な国での流行が多い。)に感染してしまった。回復に時間がかかったが,胃腸などの消化器官にその後遺症は一生残るようになってしまった。病後の写真を見るとげっそりとやつれ幽霊のようになっている。
その頃、郵便システムのポニー�エキスプレスPony Expressが運営開始18ヵ月後に運営をやめてしまった。これは1861年10月24日にセント�ジョセフから西部のサクラメントSacramentoまで電報が届くようになったのが一因である。また、元々ポニー�エキスプレスは注目を浴びていたが、採算的には難しいものがあった。ポニー・エキスプレスの親会社セントラル�オーバーランド�カリフォルニア&パイクス�ピーク�エキスプレスCentral Overland California and Pikes Peak Expressは支援のため、傘下の他企業資金の1ミリオンドル(現在価格25.2ミリオンドル)を援助して、かろうじて運営できていたものであった。しかし、政府が郵便システムとして従来どおり、バターフィールド�オーバーランド�メイル・カンパニーButerfields Overland Mail Companyを使い続けることになり、運営が立ち行かなくなったのである。
電報の普及にもかかわらず、手紙は重要なコミュニケーション手段であり、南北戦争の激化にもかかわらずセント�ジョセフの郵便局は重要な役割を持っていた。
病から回復したフレッドは妻のアンが2人目の子供を身ごもったことを知り、収入を増やすためフォード船長の仕事を手伝うだけでなく、1862年2月に郵便局の仕事を得た。そして、その郵便局で実験的な郵便システムのテスト試行に関与することになった。それは移動式鉄道郵便車である。米国政府が郵便システムを開始したのは1776年であり、郵便物は配達地域の郵便局で配達先住所別に分類されるように定めていた。しかし、フレッドの野心的な上司ウイリアム�デイビスWilliam Davisが政府の役人に特別装備の客車内で、配達地域に到着する間に郵便物を分類することを提案した。フレッドはこのテストの担当者として1862年7月にハンニバル&セント�ジョセフ鉄道沿いでテストを開始した。
鉄道は急速に発展していたが、乗り心地はひどいもので、メール専用車の中で作業中に鉄道のゆれに耐えるように特別製の鉄棒を設置して、それにつかまりながら作業をする状態であった。しかし、この移動式鉄道郵便車は大成功で、東海岸から西海岸までの郵便の到着が大幅に短縮することに成功し、後の全国鉄道郵便システムの確立に大きな影響を与えた。
定期船の運用と移動式鉄道郵便車の成功でフレッドはビジネスの経験を積み、自信を深めた。南北戦争は激化していたが、セント�ジョセフにはその影響は見られず、ビジネスは順調であった。そんな環境で、フレッドとアンは2人目の子供を授かることになった。1862年10月にフレッドの父親の名前を取ってチャールズ�ハーベーCharles Harveyが誕生した。しかし、アンは出産後まもなく亡くなってしまった。当時の米国では出産する女性の1%が出産により死亡する状態であった。
2人の子供を抱えたフレッドはビジネスに専念するために、4ヵ月後の1863年2月20日にチェコスロバキアからの移民の子供で8歳年下のバーバラ・サリー�マッタスBarbara Sarah(Sally)Mattasと再婚した。
南北戦争は激化していたが、鉄道会社ハンニバル&セント・ジョセフ鉄道の業績は順調であり、利用する乗客、荷物、郵便物は増加していた。そして、移動式鉄道郵便車の実績を認められたフレッドは鉄道切符の販売代理店の権利を得て開業することになった。
1年ほどはセント�ジョセフで鉄道切符の販売代理店を営んで実績を上げ、鉄道会社の重役に注目された。その結果、1865年の初頭に鉄道会社ハンニバル&セント・ジョセフ鉄道の兄弟会社のノース・ミズーリー鉄道North Missouri Rail Roadの鉄道切符の販売代理店(以前よりも良い仕事の条件)になるように薦められ、鉄道会社の運営する地域のカンサス州のリーベンワースLeavenworth市に移住することになった。リーベンワース市は線と。ジョセフから50マイルの距離しか離れていないが、西部にもっとも近い未開拓の町であった。
1865年当時の米国では、テキサス、ネバダ、カリフォルニア、オレゴン、は既に州になっていたが、カンサスKansas州のリーベンワース市は米国のちょうど真ん中に位置しており、未だ、辺境の地という存在であった。
流血のカンサス州と呼ばれるように歴史的に、インディアンとの抗争、奴隷制度に対する賛成派と反対派の争い、南北戦争の発生、などの血なまぐさい事件の多い州であった。リーベンワース市はそのカンサス州の中でも西部やニューメキシコに行く要所として重要な役割をもっていた。色々な紛争が発生したためリーベンワース砦を米国陸軍が築き上げて現在でも陸軍の教育施設の中心地であり、陸軍刑務所があることでも有名である。米国の当時の町は宗教上、人種上、政治的、に同一の人々が集まって作ることが多かったが、リーベンワース市は西部へのフロンティア、西部に移住する人、交易に向かう人、鉄道網を施設する人、治安を守る軍隊、が集まった荒々しいフロンティア精神のあふれる町であった。
町にはインディアンが裸馬に乗って通ったり、馬に乗った軍隊の将校がサーベルなどの金属をガチャガチャさせて通る勇ましい風景が見られた。
当時の市長のダニエル・リード�アンソニーDaniel Read Anthonyは新聞社の編集長時代に奴隷制度賛成派の他紙の編集長と口論となり、銃で射殺するという勇ましい人であった(正当防衛で無罪となったが)。市長になっても、腰に6連発の小銃を2つ下げているという物騒な町でもあった。
リーベンワース砦を数千人の軍隊が出入りするにぎやかさであり、収入の高い将校が多いおかげで、町には2百軒を越える酒場と売春宿が存在していた。その町の中心にあるのがプランターズ・ハウスPlanters’Houseという赤いレンガで造られた4階建てのホテル(中にはもちろんレストランもある)であった。単に旅行者が宿泊するだけではなく、他州からのビジネスに来る人や、政治家、医者、町の有力者などがオフィスを構えていた。 フレッドはホテル1階の人通りの多い場所を選び、鉄道チケット販売のオフィスを構えることにした。そして、1865年2月に定期船で家族とともにリーベンワース市に移住し、オフィスから近い場所に家を構えた。妻のサリーは前妻の4歳になるエディーと2歳になるチャーリーの世話を見るのに忙しく働いていた。
1965年はそろそろ南北戦争が終結する時期になってきており、景気も安定してきており、フレッドとサリーは将来に明るい希望を感じるようになった。しかし、移住2週間後に全米で猩紅熱Scarlet feverが蔓延し2月の終わりには2人の子供が感染し、抗生物質のない時代では治療の施しようがなく、2人の子供は亡くなってしまった。
その数週間後には北軍が南軍を壊滅させ戦争は終結した。しかし、その5日後に当時のリンカーン大統領が暗殺されるという悲劇が起こってしまった。
落胆したフレッドは30歳という若さを武器に、7ヵ月後には気を取り直してビジネスに真剣の取り組むことにした。鉄道チケット販売の傍ら、郵便物の受け取りと発送を手伝っており、東部からの新聞をいち早く入手することが可能であった。そこで情報を重視する地元の新聞社リーベンワース�コンサーバティブLeavenworth Conservative紙の編集長等に朝一番で東部の新聞を無料で届けるようにして、各新聞社と知り合うようになった。
サリーが妊娠したので、フレッドは鉄道チケット販売の他に仕事はないだろうかと探すことにした。そして、フレッドの販売能力と熱心さに注目した新聞社リーベンワース�コンサーバティブはフレッドに新聞紙の広告の販売と新聞購読者の拡大を依頼することになった。フレッドは1965年のクリスマスには新聞社の仕事をするようになった。その3ヵ月後にはサリーは男の子を授かり、親しかったフォード船長にあやかり、フォード・ファーガソン�ハーベーFord Ferguson Harveyと名づけた。
そして、フレッド夫婦はビジネスや社交界を通じて、町の有力者や軍隊の高官、実業家と親しくなり、フレッドの知名度は上がっていった。
フレッドの生活ぶりを見てみよう。フレッドは英国人紳士、ロンドン風の紳士として振る舞い、市長のように拳銃を2丁持ち歩くような粗野な振る舞いを嫌った。規則正しい生活を送るようにしていた。
一日の食事は規則正しい英国風で以下のように時間を決めていた。
朝食はトーストと紅茶という軽めの食事
ランチ(主食)
午後4時にはレモンを添えたロー�ティーLow Tea(アフタヌーンティーとも呼ばれサンドイッチ、スコーン、ケーキなどと一緒に紅茶を飲む。)
午後7時には肉類を添えたハイ�ティーHigh Tea(夕食にあたるもので、肉類などの料理を食べる
当時は英国出身者で英国から訪問している英国軍人や、米国籍を取得した英国出身者が多く、セントルイス市などには英国出身者の多い地域もあった。フレッドの友人の多くが英国出身者であり、英国出身者にとってフレッドのビジネスでの成功ときちんとした生活態度は尊敬の的であった。フレッドはその英国出身者たちを家に招いてもてなしていた。トランプ、音楽鑑賞、詩や小説の朗読、特にシェークスピアの朗読、ワイン、などを楽しんだ。しかし、午後11時になると立ち上がり、「私は失礼して就寝しますが、皆さんまだゆっくり楽しんでください。」といって休むのが習慣であった。その後のもてなしはサリーが受け持った。フレッドはチケットや新聞広告などの販売で鉄道を使って各地を歩いていたが、列車内などで時間があるときには、本や新聞をよく読みビジネス知識を蓄え、次のビジネスチャンスを探していた。
以下続く
参考文献
Mariani, John F.(1991) America Eats Out: An Illustrated History of Restaurants, Taverns, Coffee Shops, Speakeasies, and Other Establishments That Have Fed Us for 350 Years William Morrow and Company, Inc. New York
Pillsbury, Richard. (1990) From Boarding House to Bistro: The American Restaurant Then and Now Unwin Hyman, Inc.
Fried、Stephen. (2010) Appetite for America
Bantam Books