30年総括座談会(柴田書店 月刊食堂2000年11月号)
「やり残したこと」「やり遂げたこと」
FRが産声を上げてちょうど30年が経過した。1970年(昭和45年)は、大阪万博が開かれロイヤルが企業の命運をかけステーキハウス、カフェテリアなどを出店し、またすかいらーくが国立に第1号店を出店して、小売業からの転身を図った年であった。この30年にFRの巨大チェーンが生まれ、日本人の外食スタイルを一変させた。価値ある豊かさも実現した。その功績は計り知れないものがある。が、ある部分業態疲労も生じている。大きな曲がり角に立たされていることも事実だ。FRがやり残したことは何か、と問う時がきたのである。
『1970年。大阪万博の喧騒の中で・・・』
神山)
ファミリーレストラン(以下FRと略す)30年の歴史を回顧しつつ、次の時代のFRはどうあるべきかまで掘りさげられればいいと思います。今回は外食産業の実務に携わってきた立場からの発言ということで王さん、マスコミで世の中のトレンドをきちんと眺めつづけ、いわばFRを使う側の代表としてマガジンハウスの島田さん、そして取材を実際にしてきた松坂さんをお招きしています。
さて、本題に入りますが、FRの歴史を語ることはどうしても九州出身のロイヤルと東京のすかいらーく。この2つの企業を語ってしまう側面がありますよね。
松坂)
外食産業の年表を見ると、1970年の7月にすかいらーくが国立に1号店を出している。もちろん、それまでにも郊外ロードサイド立地のレストランがなかったわけではなけれど、すかいらーくは異業種(食品スーパーことぶき食品)からの参入で、1号店開業前から「郊外レストランでビジネスを起こすんだ」という気概があったといわれていますよね。つまり既成のフードサービス業が気まぐれにつくり出したものではなかった。だから、このすかいらーく国立店をもって、FRの発祥の地と定めていいんじゃないでしょうか。
神山)
この1年前だと思うけど、1969年に渥美俊一先生のペガサスクラブのチェーンストア決起大会が箱根小涌園であって、そのフードサービス部会に、後にビッグチェーンとなったところがかなり参加していました。吉野家、京樽、サトやフレンドリーも。その中にすかいらーくの茅野亮社長も当然いて、この時には弟たちが郊外レストランで調理や接客の修業をしたり、茅野さん自身もいろいろなところを回ったりして勉強を重ねていた。外資系のフードサービスはアメリカではすでに企業化しているから、相前後して日本上陸した時には、輸入の仕方の巧拙はあっても、とにかく企業的な体裁は整っていた。でもわが方の日本軍はというと、高級フレンチから駅前喫茶店みたいなものまで持つ多角経営みたいなレストラン会社が多かった。それなりに経営の近代化にはトライしていたけれど、創業したときから将来何百店舗とか株式上場を目指すとか明言した会社はないわけで、そういう意味でもすかいらーくが持つ起業家スピリットにはすごいものがあったと思う。
王)
1970年といえば大阪万国博。そんなナショナルプロジェクトの派手な話題の陰に隠れて、ひっそりと武蔵野の一角で産声を上げたというのは好対照でおもしろい。
松坂)
その万博会場のアメリカ館のレストラン運営をロイヤルが担当したんですね。ハワードジョンソンと業務提携したステーキハウスとカフェテリア、それにKFCをやった。この経験が大きかったと江頭匡一さんはいろいろなところで語っているけれど、この成功が日本のレストラン経営者に与えた勇気は特筆ものだったでしょう。日本でも頑張ればアメリカのようなスマートな外食産業をやれるんだと。
島田)
前にも大阪万博が外食産業元年だという話を聞いていましたが、僕なんかが雑誌の世界をやっていて痛感するのは、外食だけでなくファッションも旅行も、みんな1970年が起点になっていることなんです。というのも、東京オリンピックを経て、日本がどんどん豊かになってきた実感がわきはじめたのがこの頃。僕はこの頃からテレビという媒体が消費者の欲望を喚起し、いわばライフスタイルを提案するようになったと思いますね。大阪万博というのは、まさに外国のライフスタイルの展示会という趣があったでしょう。家電メーカーが出店したパビリオンでは、新しい生活のイメージを打ち出した新製品がたくさん出品されてたんです。画期的な掃除機とか洗濯機とかね。そういう意味でも新しいライフスタイルのベースになりうるものとして、外食が消費者に認知されてということはあると思います。
松坂)
あの万博って、いま思い起こすとものすごいものだった。だって、入場者が6ヶ月で実に6500万人。東京ディズニーランドが世界最大の入れ込みを誇るテーマパークだといっても1700万人。それも年間営業でですよ。国民2人に1人は大阪千里の会場に行った勘定。まさにマスマーケットが目に見える形で現われたことになる。日本という国が体験した巨大ツーリーズムは幕末のおかげまいり(伊勢神宮)とこの万博と考えている。
王)
そういう意味では、爆発しかかっているマスに対して、万博会場にKFCのサンダースおじさんが現われたり、翌年東京の銀座4丁目にマクドナルドが誕生したことのイメージ効果には大変なものがあったね。日本の外食産業は、まずはホットファッションとして入ってきた。これは否定できない。
島田)
フェミリーレストランにしても、初期のデニーズとか、やっぱりアメリカが豊かだった1960年代の匂いを身にまとっていましたよね。日本がアメリカ文化にキャッチアップしていこうとする過程で、外食系の外食チェーンが注目されるのは当然でしたね。
『外食を産業に変えたすらいらーくの「集中力」』
神山)
で、万博の大騒ぎのさなかに、国立ですかいらーくの1号店が誕生するわけです。
王)
僕がすごいなと思うのは、いきなり国立に出たという度胸。あの頃の東京を思い起こすと、郊外のイメージはせいぜい環八の内側くらいで止まっていたでしょ。郊外はようやく吉祥寺に少し人が集まり始めたくらいで、国立、府中、小平といった初期すかいらーくの展開エリアなんてファッション性とほど遠いカントリーのイメージだったでしょう。
島田)
確かに、あの頃でも郊外レストランはなかったわけではないですよね。ファンタジーとかロッシュ。ドライブインレストランなんて言っていましたが、当時、車を持っていた連中がけっこう、ファッショナブルな遊び場に使っていましたよね。すかいらーくはそういうところに目もくれず、もっと日常的なシーンとしての外食が成立するところに目をつけた。外食のふわふわした上澄みみたいなところに囚われなかったのは、確かにひとつの見識ですね。
松坂)
僕が初めてすかいらーくの取材をやったのが1975年の5月。当時20店舗まで達していなかったはずですが、あの国立のミスタードーナツ(すかいらーくがFCのジーをやっていた)の2階にあった本部社長室の壁には、東京都の大きな地図が貼ってあって、すでに出店候補地に指すピンが100ヶ所以上あったと記憶しています。こんなに出せるんですかと聞いたら、三多摩はろくに外食できるところがない不便なところだから、出せば大歓迎、人の顔が見えるところならどこでも商売できるよといわれましたね。ダウンタウンロケーションに何の幻想も抱いていない。これはまったく新しい会社が生まれたものだと感じ入りましたね。
神山)
そうそう、あの頃の東京は美濃部都知事で三多摩格差解消なんていって郊外での革新票をまとめていた。
島田)
革新票イコールファミリーということではないけれど、これも1970年を境に大都市集中が始まって、当然人口の郊外への移動、ドーナツ現象が現われる。つまり、消費の発生地が郊外になった。ならば、そこにビジネスチャンスがあると考えるのは当然なんだけれど、すかいらーくはそういう郊外に消費の深い井戸があることを、ごく自然に受け止めていたんでしょうね。
王)
そう、そこがすかいらーくの「平凡に見えるところにある非凡さ」だと思うな。僕のやっていたファーストフードは郊外に需要があるのを知りながら、ファッション性を重視していたから、なかなか出られない。1980年代後半から、FFSも郊外へ積極出店するけれど、押さえるべきロケーションを含めてFR組に先行されたという焦りはありましたよ。
松坂)
当時、FFSが郊外でFR勢と競合したら、どうだったろう。
王)
それはもうかないっこなかったでしょう。やっぱり、FRが出していたコメのメシの強さは格別ですもの。食習慣の根本というのは保守的なもので、だからハンバーガーなんていうものは、ジーパンで立ち食いがカッコいいみたいなファッション性で売るしかなかったということなんです。
神山)
こんな話を続けていると、すかいらーく初期の独走は無店地帯だったからという理由に終わってしまいそうだけれど、それじゃ語り尽くせない何かはありますよね。
島田)
それが王さんの言う「平凡の非凡」のすごさ。郊外に住み始めたニューファミリーが喜ぶことを第一にして、洋食の提案だけを誠実に行なった。ダサイといわれようと、そういうことに集中できた企業ってすごいと思う。
王)
キッチンを見ても、初めから何でもつくれるようなレイアウトになっていましたよね。単品の調理工程には絶大な効率を発揮するFFSのキッチンとは正反対。一見、原始的なようだけれど、お客さんの保守的な要求にきちんと応えられる仕組みになってますもの。
神山)
さっき島田さんが「集中」という言葉を使われたけれど、創業して10年間、脇目もふらずすかいらーくという単一ブランドで勝負してきた。その集中力ってのも「平凡の中の非凡」だと思いますね。
王)
1974年に会社の屋号を変えてますね。前のことぶき食品から株式会社すかいらーくへ。一見、当たり前のことに見えますが、展開しているお店の屋号と会社名が一致しているという例はあまりなかったです。それがとても新鮮に映りましたね。この会社、本気なんだって。
松坂)
ことぶき食品というのは、いまでいうネバフッド型の食品スーパーで、それなりに成功していたんですよね。いくら当時勢いのあった西友ストアーの各個撃破にあったとはいえ、それを廃業して新分野に打って出たんですから、覚悟のほどは並大抵のものではなかった。
神山)
長い間、いろいろなトップマネージメントに取材してきましたが、すかいらーくの茅野さんほど、思い込んだら命懸けみたいな熱量のある人はいない。ずいぶん前にジョナサンの横川竟社長に聞いたエピソードだけれど、かつてすかいらーくにもこれ以上出店するとチェーンの屋台骨がぐらついてしまうような瞬間があったんですって。資金繰りは苦しいわ、社員は辞めていくわで大変な時期で、この時、竟さんは「社長、しばらく出店は凍結して内部固めをやりましょう」と提言したんだけれど、茅野さんはそういうアドバイスにいっさい耳を貸さず「僕は年間50店出すと決めたんだ。どんなことがあっても、それだけはやる」と譲らなかったんだって。結果的には「あの時出店を止めていたら、いまのすかいらーくはなかったと思う」と竟さんが言うんだ。そういう思い込みの一念というのが、すかいらーくの企業文化としてDNAに刷り込まれている。
松坂)
飛行機がふらついている時に、スピードをさらに上げることで機体を安定させる。そういう勝負勘というのはすごいところがあるね。
『アメリカ文化の伝道師として輝いていた』
神山)
少しすかいらーく以外の話もしようよ。まず、ロイヤル。
松坂)
万博の成功が日本のレストラン経営者に夢を与えた功績は不滅のものと思いますが、江頭さんの事業展開の先見性はたいしたものです。郊外レストランといえば、1970年よりも前に福岡郊外で駐車場付きのロイヤルホスト展開をやっていたし、空港のコーヒーショップとかフェリーの食堂の運営受託とか、とにかく中身の多彩なグラマラスな企業というイメージがありましたね。福岡のロイヤルセンター(本社)に初めて行った時、社長室のじゅうたんの厚さとか調度品の豪華さ、受付に控えている社長秘書さんが美人だったこととか、まあ、これは日本の会社じゃないわという感じだった。1975年当時に、ハワードジョンソンのポートレート写真が掛かってましたね。江頭さんの最初の「恩師」です。後には先代のウイラード・マリオット(マリオット社の創業社長)の写真が掛かっていましたが。
島田)
僕はロイヤルという会社のことは知らなかったけど、首都圏に出てきたロイヤルホストをみて、何ときらびやかなレストランだろうと思いましたね。世田谷の馬事公苑の店とか、当時、関越の終点だった東村山店とか。明らかにレストラン屋さんがつくっているFRでしたね。70年代以降の消費の底流である、大衆の脱中流意識に見事マッチしていたともいえます。
王)
僕は上大岡や藤沢のデニーズが衝撃的だった。どちらもイトーヨーカドーのインストア出店なんだけれど、お店の明るさ、軽快感、卵料理のバラエティを訴えた斬新なメニューとかアメリカンカルチャー来る!大袈裟でなく思ったもの。でも、しばらくしてメニューからアメリカンっぽさがどんどんなくなって、和食やラーメンが入るようになってきた。それはそれでライスの強さを生かすんだから、かまわないけれど、若干淋しかったね。
神山)
あそこでアメリカのデニーズに固執していたら、いまのデニーズはなかったでしょうね。お客は日本人なのだから、日本人が食べたいメニューを提供しよう、とすかいらーくのメニュー領域に寄っていた。あの時点で、デニーズはすかいらーくの強力ライバルにのし上がっていったわけですね。透徹したリアリストですよ、デニーズは。
王)
やっぱり、ライスもの最強論。
松坂)
デニーズは食品メーカー対応で商品開発をしたんだけど、ロイヤルとすかいらーくはCKにこだわりましたね。これがFRの商品力を飛躍的にアップさせて業態としての寿命を延ばしてきたことは否定できない。アメリカのFRがロングライフなのは商品をていねいにつくるという思想的な基盤があったからでしょう。そういう意味でもレストランィデォローグとしての江頭さんの存在の意味は重いですね。
神山)
その自信が商品さえよければいいだろうという商品開発偏重路線につながって、サービス置き忘れみたいな弊害を生まなかったとはいえない。
王)
でも、商品は確かにアメリカのFRよりもいいよね。いま、アメリカのFRはほとんど死滅しかかっている状況だけど、アイホップなんて古いチェーンが独自のパンケーキをブラッシュアップしてリバイバルしてます。アメリカのFRはFFSの5割増し程度の価格となんとなく軽食のバラエティをラインアップした便利メニューで保っていただけの話だから、少し景気が悪くなって消費者の財布のひもが固くなったり、お隣にFFSの競合店ができると、いっぺんにアウトというところがある。
松坂)
それって、要するにコアになるメニューをもたなかった弱さということですか。
王)
そういうことです。アメリカのFRは価格ではFFSに競り負け、メニューでは専門店に競り負けたわけ。
神山)
いま日本のFRが直面している危機と重なってきますね。遅かったとはいえ、郊外のFFSとの競合も起きているし、コンビニ勢力とも胃袋を奪い合う。得意だったディナー帯の食事需要も、専門的なチェーンにとられています。
松坂)
そこで価格志向のガストが出てくる。ガストの功罪論は別にやらなければいけないと思うけど、すかいらーくに誤解があったと思うんですよ。というのもFRすかいらーくは最初の10年ぐんぐん伸びた。伸びた要因は数々あったけれど、彼らには「わが社の価格戦略」が最大の成長要因だという暗黙の了解があったと思うんだ。でも、かつてのすかいらーくがそんなに安い、絶対ポピュラープライスのチェーンだったかというと、決してそんなことはなかったんですよ。僕が憶えているだけでも1975年当時でピザが480円、ハンバーグも480円とか680円してたんです。これって決して安くないし、客単価900円から1000円取れてた時代が長かったんです。この客単価って、日本だとFFSのほぼ倍でしょう。アメリカは王さんが先ほど指摘したように、FRはFFSよりもチョッピリ高いくらいの意味しかない「安いメシ屋」だったんです。つまり、日本のFRはけっこう、いい商売をしていたんです。それがバブル崩壊で客数が減った。それ大変だ。価格を見直そうと短絡的になってしまった。この時、FRの不振要因をもっと慎重に吟味すれば、別の展開があり得たかもしれない……。
島田)
ガストブームには僕もいろいろと考えさせられたんですが、基本的には価格がすべてというものの考えかたはどんなものだろうと、気持ちは醒めてましたね。だって、安くても行きたくならない店はたくさんあるわけで、僕にはガスト展開が、FRが僕らに見させてくれた「夢」の終わりという風に見えて仕方なかった。
神山)
でも、マーケットはガストを支持した。「この価格が欲しかった」という声を発したわけです。
王)
それは一時は猛烈に売れたんだし、そのコンセプトの優秀さを評価するにやぶさかではないけれど、僕はサイゼリヤという手強いライバルを生み出してしまったという一点だけでも失敗じゃないかと思ってます。だって、ガストがやろうとしたことを、もっともっと徹底してやったのがサイゼリヤ。コンベアオーブンも、いちばん使いこなしているのがサイゼリヤでしょう。本家のガストはというと、またすかいらーく風に回帰しているんだもの。
『人手削減が急速劣化を生んだ』
神山)
それにしても、80年代あれほど輝いていたFRチェーンが90年代に入って長い長い低迷期から脱出できません。いったい、何が悪かったのか。
松坂)
この間、ずーっと神山さんからはセンチメンタルすぎるって批判されっぱなしだけれど、サービス力の低下は見逃せない。僕は外食産業は「外出産業」って、学校の生徒にも教えているんだけれど、FRはとにかくお客さんに外出してもらわなきゃ話がはじまらないでしょ。昔はお腹がすいたという理由だけで外出してくれたけど、今はコンビニやスーパー、果てはデリバリーまであって食べものゲットの手段には事欠かない。こういうときにFRまでわざわざ「外出」してもらうには、やっぱり楽しい空間がそこにないといけないと思うけれど、とくにすかいらーくは一貫して、人手削減、サービス省略できた。安くていい商品はあるけれど、みじめな思いまでして食事したくないやというのが、この間のお客さんの本音だと思うけど。こういうのってやっぱりセンチメンタルかなあ。
島田)
そんなことはないよ。いま、僕がFRで何が嫌いといって、「ようこそ……へ」という接客用語が大嫌い。あれはまだ郊外レストランが少なかった時代には新鮮でよかったけれど、これだけ普及すると、もはや「型」でしかないもの。いまのお客さんは何らかの形でレストランという場に「人間くささ」を感じ取りたいと思っているのに、紋切り型の「ようこそ」じゃ、お客がどう答えていいかわからない。交流の発生のしようがないわけです。この間、舞浜のTDLにできたディズニーアンバサダーホテルに行ったけど、あそこは接客の挨拶を「おはよう」「こんにちは」「こんばんは」で統一して、決して「ようこそ」とか「いらっしゃいませ」を使わないようにしているんですって。こういうカジュアルで楽しい接客が必要とされているのに、10年前のマニュアルをいまもきんかぎょく金科玉じょう条にしているとしたら、今の長期低落は当然という気がします。
神山)
うーむ、痛い意見が続出するな。だとすると、僕がよくFR3種の神器といっていたコールボタン、オーダーエントリー、ドリンクバーなんかがあまりいい結果を生まなかったということかなあ。どれも人件費率をドラマチックに下げる道具だったんですけど。
王)
まあ、必要な時に来ますよ。注文間違えなくキッチンに通しましたよ、飲物欲しかったら勝手にどうぞ、っていうんですから、これはサービスがよくなるはずもない。
松坂)
結局、テーブルサービスレストランとテーブルレストランは別物ということでしょ。テーブルがあって座れるというだけの付加価値だと、来るのは学生さんとフリーターばっかりになってしまうでしょ。
『FRに欠けていた「買わせ続ける」のブランド力』
島田)
こういう風に話を聞いていくと、僕なんかはすかいらーくにしても、デニーズにしてもクォリティブランドは結局構築できていなかったんだなと思いますね。
王)
昔やあのくるくる回るひばりの看板がファミリーで行き、デートにも使える店、豊かなライフスタイルを象徴するブランドだったんだけれど。
島田)
僕はね、ブランディングの目的って2つあると考えてるんです。ひとつは、まず買わせること。もうひとつは買わせ続けることなんです。この2つを混同することが多いのですが、本当に難しいのは第2の買わせ続けることなんです。最初に買わせるのは、目先の変わったことをすればいいんですが、買わせ続けるには製品の中身を微妙に変えたり、マーケットの変化を常に見極めながら進まなければいけないんです。グッチだって、何十年も同じ物を作っているように見えますが、取っ手の位置とか形といったディテールはしっかりと変化させてるんです。ブランディングというのは、そういうもので「終わりなき革命」みたいなところがあるんです。
神山)
すかいらーくだった店がガーデンに変わり、ガストになりという風に「行くたびにおニュー」じゃ、ブランドなんて構築しようがないものね。
松坂)
すかいらーくとしては、店名・業態変更をマーケットの声を聞いてと言うに違いなけれど、それってお客がお店を使うというより、お店の側がお客を使っているといえないこともないですよね。結局、「提案」という形の企業側都合の押しつけなんだもの。
島田)
FRにもブランドは必須だと思います。これからは高齢化社会が進んで車社会から徒歩社会に移ります。そうなると、郊外のビジネスもこれまでのような車商圏から徒歩で行けるエリア型商圏になるんです。つまり、気に入った店に何度でも入る、そういう形になる。となると、障害顧客を持てるようなブランド力は絶対に不可欠と思います。いままでなら遠くからでも車客相手に一度は来てもらえるブランドで勝負できても、これからは本当に地元密着、買い続けてもらえるブランドかどうか試されるんです。
神山)
でも、価格力もブランドなんですね。ユニクロやドトールコーヒーのブランドを形成しているベースは、あの価格にあるわけですから。それを軽視してはいけないと思う。
松坂)
FR30年。よくぞここまで伸びたという言い方をしたいけれど、なんだ、たったそれだけのことしかできなかったのという気もしますね。
神山)
僕は新しい芽が出始めていると思いますね。「FRには笑いがない」といった人があるけれど、確かに疲労を起こしている部分も少なくないけれど、バーミヤンやサイゼリヤって楽しいですよ。客席に笑いがある。あそこらへんが新しいFRの突破口になっていくような気がする。
FRには30年の技術の蓄積はあるのだから絶対に再生します。