NEWSな外食2012<特別企画>「米国マーケティング導入のマクドナルド」(商業界 飲食店経営2012年9月号)

「米国マクドナルドに8代目CEO誕生、その手腕は日本独自のマーケットに通用するのか?米国マーケティング戦略の導入が さらに強まる日本マクドナルドの懸念」

 リードコーヒーに注力した「マックカフェ バイ バリスタ」のオープンや、世界の「ご当地マック」を日本で提供するキャンペーンなど、新しい試みにより耳目を引く日本マクドナルドだが、その一方で、本年5月は既存店売上高を11.0%落とすなど不安材料は依然として多い。不振の小型店を大量に閉店し、収益性を改善、また「ビッグ・アメリカ」キャンペーン等、マーケティング戦略で成果を収めてきた原田泳幸社長。折しも、この7月に米国マクドナルドに新CEOが就任、欧州やアジアの不況化において日本への期待も大きい。果たして日本のマクドナルドはどこに向かうのか?草創期から現場を見てきた筆者が、その動向を読み説く。

                    コンサルタント  関西国際大学教授
                    王 利彰
1.マーケティング費用の減少
無風状態で、なぜ既存店の
売上げが落ちたのか?

最初にマクドナルドホールディングス社の決算を元に店舗数の動向を見てみよう(図表①)。

図表①
年度末  新店  閉店  年度末店舗    広告宣伝費率    当期純利益(百万円
2005年           3802     4.7%           60
2006年  90   64     3828     4.8%          1549
2007年  87   169     3746      6.2%          7819
2008年  88   80     3754      6.1%         12393
2009年  70   109     3715      5.4%         12809
2010年  73   486     3302      4.6%          7864
2011年  101  105     3298      4.1%         13298
2012年半期 30   29     3299

2005年度末の総店舗数3802店舗に対し、2011年度末の総店舗数3298店舗と大幅な店舗数減少だ。これは2010年度に効率が悪く、小型の店舗を大幅に閉店したためであり、基本的に新店舗の増加があるわけではない。
競合関係を見てみても、ロッテリア、モスバーガーの国内ハンバーガーチェーンも大規模な新店舗開発をしていないし、外資系のバーガーキングやウエンディーズも新規出店は僅かである。これは日本の牛丼業界のように、新規開店ラッシュや新規参入チェーン(東京チカラ飯)による競争の厳しい状況とは全く異なっている。
そのような無風状態の競合状態であるのに5月になぜ既存店売上高を大幅に減らしたかというと、マーケティング戦略のブレがあるのではないかと私は考えている。
上記の表で注目しなくてはいけないのは広告宣伝費用比率である。マクドナルドなどのファストフード業界では売上高は広告宣伝費、特にテレビコマーシャルの総視聴率GPAに直結する。その比率は2005年の4.7%から徐々に増加し、2007年6.2%、2008年6.1%に達していた。しかし、それ以降2009年には5.4%、2010年4.6%、2011年にはなんと4.1%まで低下している。
2011年には東日本大震災があり、売上げに大打撃を受けたことと、自粛ムードによりコマーシャルの放映を控えたこともあるのだろうが、広告宣伝費率を下げているのが、現在の売上不振の一番大きな原因ではないだろうか?
2.月次のマーケティング戦略
高単価商品の投入時期が
微妙にずれたのが原因か?

 次は月次のマーケティング戦略を見てみよう。マクドナルドの基本的なマーケヒング戦略は客数を増加させるディスカウント戦略と、客単価を上げる高単価商品戦略の2つである。子供や学生に人気のあるマクドナルドの年間売上高の最も高いのは夏休みの7月後半から8月、そして年末年始の休みだ。春休みのある3月と、休みが多く家族で外出をするゴールデンウイークのある5月も良い。
 今回はその良いはずの5月に既存店の客数を大幅に減少させているのが注目されているわけだ。5月にコーヒーを100円に値下げして、さらに価値観のあるセットメニューを販売したのであるが、客単価が大幅に減少し、客数増加がそれを補えなかったようだ。
本来は4月が新入生や新入社員が増えるので、新規顧客を取り込むためディスカウントメニューを販売し、休みの多いゴールデンウイークに高単価商品を販売すれば、客数が減少しないで客単価が上がり、売上が上がるはずである。その戦略がほんの少しだけ、ずれたのが売上減少の大きな原因であろう。自社内や他業界との競合が原因ではない。
3.マーケティング戦略の変化
日本のやり方にこだわり
逆に教えようとして藤田田氏

 2001年、日本マクドナルド創業者であった(故)藤田田氏が社長時代に低価格戦略がブレて消費者の不振を買い、退陣に追い込まれた経緯がある。その後をついで3代目の社長に就任したのが現社長の原田泳幸氏だ。ここで、両氏のマーケティング戦略を見てみよう。
 1971年に米国マクドナルドは藤田氏と合弁会社を設立し、1号店を銀座に開店した。それ以前から米国マクドナルドには日本の商社が日参して提携交渉をしていた。
その中でもマクドナルドに熱心であったのはダイエー創業者の(故)中内功氏であった。氏は日本人として初めてマクドナルドのハンバーガー大学で学んだことを自慢するほどであったが、食品に全く関係のない藤田氏が知人から米国マクドナルド創業者の(故)レイ・クロック氏を紹介され、二人は意気投合し合弁会社を設立した。
 藤田氏は終戦後の東大学生時代から、米軍キャンプにアルバイトなどで出入りするうちに、ユダヤ人と友人となり、雑貨製品の輸出入会社を経営するようになった。米国との取引をする藤田氏は米国との取引で利益を上げているにもかかわらず、米国に対するあるわだかまりを持っていた。それは藤田氏の友人たちが招集され戦死をしていたためだといわれている。創業時の藤田氏のオフィスにはゼロ戦の写真や日章旗が飾られていたほどだった。
 また、藤田氏は日本語に対するこだわりがあった。それがMcDonaldをカタカナ風にマクドナルドと発音させたり、キャラクターのRonaldをドナルドと命名させたのだ。マーケティング戦略では絶対に米国のハンバーガーだといわせないようにしていた。それは日本人の米国人に対する微妙な意識を考慮していたからであった。
その意味では、現社長の原田氏になって販売して大成功した「ビッグ・アメリカ」などは思いもよらなかったろう。藤田氏は米国マクドナルドのマーケティング戦略や商品戦略をそのまま日本に持ち込むことなく、日本的な味付けをして慎重に導入していた。そして、米国から学ぶだけでなく、日本からも教えようとしていた。
その例が、パナソニックに開発させたPOSの米国導入であるし、日本独自開発のパルスフライヤーやクラムシェルグリルなどである。商品では日本マクドナルドが開発したテリヤキマックバーガーがある。
日本マクドナルドを日本外食業界のトップに仕立てた功績のある藤田氏であるが、段々、米国マクドナルド経営陣と溝が深まるようになった。引退したレイ・クロック氏やその後継者フレッド・ターナー氏が経営陣にいる間は良かったが、藤田氏の知らない若い経営者が米国マクドナルドをコントロースするようになるとより難しい関係となっていった。
そして、日本マクドナルド上場により筆頭株主でなくなった藤田氏は低価格戦略のブレによる売上不振を米国側に追求され、やむなく退任することになった。色々な理由があるようだが、米国マクドナルドは藤田氏に対して大変警戒心を持っており、氏の死後の日本マクドナルド社長に就任した原田氏の最大の仕事は藤田氏時代の社員のリストラであったといわれたくらいだ。
現在の日本マクドナルドやマクドナルドホールディングスには藤田氏の名前すら見出すことができないほどだ。
 3代目社長に就任した原田氏と藤田氏に共通する点は、両氏とも素晴らしいマーケティングセンスを持っているということだ。原田氏は日本アップルの社長の経験があり、米国企業の経営姿勢やマーケティング戦略を熟知しているが、藤田氏とは経営戦略が全く異なる。
原田氏は米国マクドナルドが開発したマーケティング戦略をそのまま導入するし、厨房の機械や店舗デザインも米国マクドナルドの物をそのまま素早く導入する。米国や欧州で成功した店舗デザインを間髪をいれず日本に導入し、イメージの刷新に効果を出している。日本の外食企業が人口減や都心回帰を見て小型店を都心に展開することに対して、米国で実施して成果がでている店舗の大型化やダブルレーンドライブスルー化等を時間差なく日本に導入し、1店舗当たりの売上高を向上させている。しかし、導入速度が早いぶん、成功する場合もあるが、失敗する場合もあるようだ。

4.商品戦略の問題点
経営陣に変化が見える
インパクトの弱いチキン投入


次に商品戦略の問題点を見てみよう。5月の値下げに関しては、コーヒーの商品力における日米の違いを認識していなかったようだ。英国移民が中心に建国した米国であるが1773年のボストン・ティーパーティ事件をきっかけにコーヒーが国民的な飲料になり、第2次世界大戦時の砂糖とクリーム、コーヒー豆の入手難によりビクトリーコーヒーという名目で薄めのブラックコーヒー(いわゆるアメリカンコーヒー)を飲むようになった。
そのような歴史のある米国ではコーヒーを低価格にすることは大きなマーケティング上の武器となるのであるが、多様化した飲料がある日本では米国ほどインパクトが無かったようである。
 もう一つの商品戦略では5月にチキンを中心にした新商品を販売している。チキンはある程度人気があるが、ビーフハンバーガーほど強烈なインパクトはない。なぜチキンを販売したかというと、そこに米国マクドナルドの経営陣の変化があるのではないかと思われる。

5.米国マクドナルド社の体制変化
CEOの条件は店舗経験
のある叩き上げの人
a.歴代CEOの就任期間
米国マクドナルドでは7月1日から新CEOにDon Thompson(ドン・トンプソン)氏が就任する。2004年にマクドナルド7代目CEOに就任し、株価を低迷した25ドルから最高100ドルまで上げたJim Skineer(ジム・スキナー)氏の後継者だ。トンプソン氏は黒人出身で、元エンジニアの中途入社というユニークな経歴を持っている。では過去の米国マクドナルドのCEOを見てみよう(図表③)


図表③
a.歴代CEOの就任期間
創業者・初代CEO レイ・クロック    Ray Kroc、 1955~73
2代目      フレッド・ターナー  Fred Turner、 1973~89
3代目      マイク・クインラン  Michael Quinlan、1989~98
4代目      ジャック・グリーンバーグ Jack Greenberg、1998~2002
5代目      ジム・カンタルーポ Jim Cantalupo、2003~04
6代目      チャーリー・ベル Charles Bell、2004年に7カ月
7代目      ジム・スキナー Jim Skinner、 2004年11月から
出所 http://www.mcdonalds.com   』

b.マクドナルドのCEO育成方法
米国マクドナルド社はレイ�クロック氏がマクドナルド兄弟からマクドナルドのブランドを買い取りシカゴに創業したのが始まりだ。レイ�クロック氏の後を継いでCEOに就任したのは、若い時代からレイ�クロック氏の初めての社員となったフレッド�ターナー氏だった。その後を継いだのは学生時代からマクドナルド本社でアルバイトをしていたマイク�クインラン氏だった。
その頃のマクドナルドCEOの条件は店舗から経験のある叩き上げの人だ。しかし、会社が大きくなりCEOに求められる能力が複雑になるにつれ、叩き上げの人では会社の舵取りが難しくなった。そこで、当時会計士出身の財務の責任者であったジム�カンタールポ氏が店舗運営出身以外から初めてCEOに就任した。
 しかし、カンタールポ氏は病で急逝し、その後を継いだ初の米国外出身者の(オーストラリアのアルバイトからの叩き上げ)チャーリー�ベル氏も直腸がんで亡くなり、現場出身のジム・スキナー氏が後を継いだ。
 しかし、新CEOのトンプソン氏の経歴はかなり変わっている。トンプソン氏は大学で電気工学を学び、ヘッドハンターにスカウトされてマクドナルドに転職した。ヘッドハンターに声をかけられた時に、氏はマクドナルドが航空機などの国防産業の大手McDonnell Douglas社だと誤解をしていた。
 トンプソン氏はシカゴ市の南部で育ち、中学校時代には数学と科学が得意だった。優秀な成績を収めていた氏は、ある時にPurdue University’s School of
Engineering and Technologyのマイノリティ(少数民族、主に黒人やメキシコ系の人達を意味する)向けの奨学制度担当者(Minority Engineering Advancement Program (MEAP))に見いだされPurdue 大学で電気工学を学んだ。
 大学を卒業後、シカゴ近くにある国防大手のNorthrop Defense Systems 社(現在はNorthrop Grumman社) に入社しプロジェクト・エンジニアとして働いていた。しかし、やがて米国経済が不振に陥り、多くの会社はリストラを開始しまし、ある日、ヘッドハンターにロボット制御の仕事に転職をしないかと声をかけられた。
ヘッドハンターがマクドナルドと言ったので氏はてっきり国防航空機産業のMcDonnell Douglas社だと思ってしまった。一度は断ったのだが、マクドナルド社のエンジニアが氏に「マクドナルド社を見学に来ないか」と親切に声をかけてきてくれたので、転職を決意し1990年にマクドナルドにエンジニアとして転職した。
 マクドナルドでのエンジニアとしての仕事は大変面白いしやりがいのあるものだったが、トンプソン氏は何か満足感を感じなかった。そこで、マクドナルドのカウンセラーに相談し、エンジニアの仕事を離れて品質管理の仕事に就いた。 
トンプソン氏は品質管理チームの一員として全米40の地区本部を飛び回って、各地区本部が抱えている品質上の問題点を解決するために、新しい手法を生み出す成果を出した。それを見込まれ次は店舗運営の仕事につくことになった。  
トンプソン氏の試練はハンバーガーを焼く能力だった。上司に「マクドナルドで店舗運営の仕事をする人は店舗の全ての仕事をマスターしていないといけないのだ。もし君が店舗の全ての仕事をマスターしないと店舗管理の責任者にはなれないよ」と冷たく言われ、スーツを脱いでアルバイトのユニフォームに着替えて働き出したのだった。
早朝の準備作業から、深夜の清掃までやらされた。トンプソン氏は時間帯責任者から店長まで昇進し、仕事を楽しんでこなすようになった。
 実績を積んだトンプソン氏は運営部長として新しい地区に移動し、1998年にはサンディエゴの地区本部長に昇進した。店舗のサービスと清潔さを改善し、地区におけるマーケティング目的を明確に打ち出し、地区のアルバイトや社員がやる気をだすインセンティブプログラムを導入した。
売上げを上げるためにはハンバーガーを29セントで販売する、低価格戦略を打ち出し,客数を増大させた。就任後1年もしないうちにサンディエゴリージョンの成績は全米で2位に上昇した。
 2000年にはトンプソン一家はマクドナルドが本社を構えるイリノイ州に呼び戻され、中西部地区の社長に昇進。しかし、全米の店舗の売上げが低迷を始め、氏は再びサンディエゴに呼び戻され西部地区の4000店舗を任された。
氏は会社の方針を明確に一本化すると既存店対前年比売上はぐんぐんと伸び始め、売上記録を更新するようになった。2007年の11月には過去56カ月連続で既存店の対前年比売上はプラスを記録した。そしてトンプソン氏はイリノイ州に副社長として帰任した。
その当時のマクドナルドは2人のCEOを連続に病に失うと言う不幸に襲われていた。ジム�カンタールポ氏を心臓発作で、チャーリー・ベル氏を癌で失っていた。トンプソン氏は米国内マクドナルドのCOOに2006年8月に就任した。
(参考文献 Franchise Times誌2008年2月号 Don Thompson氏インタビュー )
C. トンプソン氏のサポート
 米国マクドナルド社が重視する経営陣は運営、マーケティング、財務(フランチャイジーの管理も含む)の3つだ。それらの中で運営は店舗の営業成績を左右するので一番重視され、店舗からの叩き上げが担当するようになっている。 
CEOに就任したトンプソン氏は店舗での経験を積んでいるが、それでも十分でないし、海外の経験もない。そこでトンプソン氏をサポートするCOOの座にAsia-Pacific, Middle East and Africa,(通称 APMEA)社長のTim Fenton(ティム・フェントン54歳)を抜擢した。フェントン氏はマクドナルド勤務39年(アルバイト時代から)のベテランで、ヨーロッパ等海外部門の要職を経験し、AMPMEA社長時代には原田社長の直属の上司であった。
このAPMEAの地域は日本の売上不振が足を引っ張っている。東日本大震災後の1年間は止むを得ないが、1年以上経過した5月の不振を言い訳するのは苦しいだろう。原田氏をよく知っているフェントン氏が日本をどのようにするか目を離せない。
d.トンプソン氏の影響
マクドナルドの新任CEOに就任したトンプソン氏(49歳)は、就任してから初めての記者会見を行った。ヨーロッパの経済危機、東南アジアの落ち込み、米国の不振等、マクドナルドは世界的規模で危機に陥っている。
今年に入り、他のファストフードの株価が+3%に対して、マクドナルドの株価は-12%になっている。それらを挽回するために低価格のチキンメニューを開発すると発表した。チキンメニューを取り入れるもう一つの理由が、カロリーが低いからだ。ビッグマックは550カロリーに対して、6個入りのチキンマックナゲットは280カロリーに過ぎない。そこでマクドナルドはSpicy Chicken McBites410カロリーを発売する予定だ。
トンプソン氏はCOO時代にマックカフェ(McCafe)のコンセプトや24時間営業、ダブルドライブスルーレーン、等を積極的に導入している。現社長の原田氏はその新CEOのトンプソン氏の発表している新しい戦略をそのまま、素早く日本に導入しようとしている。今後、原田氏に求められるのは、米国の新CEOトンプソン氏を支える、勤続39年のベテラン・フェントン氏のような、営業面での経験の長い叩き上げのサポーターではないだろうか?

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